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第一章 王立劇場のボンボニエール 2

 ものすごく真剣な声で打ち明けられたエレンは脱力した。

「ねえミス・リンジー、友達として言わせてもらいますけれど、人間は眠れば前の日のことは多少忘れるものよ?」

「そういう忘れ方じゃないのよ!」と、ジュディスが力説する。「完全に、すっかり、混じりけなしに、前の日何があったか忘れている気がするの!」


 強い口調で主張してから、ジュディスは一転してしょんぼりと肩を落とした。「そりゃ、こうやって立派に事務所(オフィス)を開いているあなたに比べたら、わたくしの毎日なんかいつでも殆ど同じですからね、忘れるのは単に頭が悪いからなのかもしれないけど」


「そんなつもりで言ったんじゃないのよ」と、エレンは慌てて弁明した。「そのことはいつから気づいたの? その、前の日のことをすっかり忘れているっていうのは?」


「気づいたのは十日前よ」と、ジュディスが意外そうな、しかし嬉しそうな顔で応え、銀色のビーズの肩掛け鞄から赤い革の表紙の小さな手帳を引っ張り出してめくった。「ええと――そうそう、五月の五日ね。わたくしね、その日ミス・ブキャナンとお茶を飲んでいたの。そのとき、あの『クロニスとダフネ』の話が出たのよ。あなたもうご覧になった? あの王立劇場の新作の」

「いえ、残念ながらまだ」と、エレンは少々悔しく答えた。「たしか初演が五月一日だったかしら?」

「そうそう、まさにそう」と、芝居好きのジュディスがなぜか沈んだ声で応じる。「わたくしは評判のあのお芝居を二日目に見た――と思っていたの。でも、ミス・ブキャナンが言うには、初演の日にも間違いなくわたくしを桟敷で見たというの。あとで付添女性に確かめたらその通りだと言っていたわ」


 エレンはぎょっとした。 

 これは思った以上だ。


「じゃ、お芝居好きのあなたが、王立劇場の新作の初演を見たことを忘れていたっていうこと?」

「そうなの、そうなのよ!」と、ジュディスが拳を握りしめる。「さすがにそれは変でしょ?」

「変なんてもんじゃないわ。天変地異のレベルよ」

「でしょ? しかもね、それだけじゃないの!」と、ジュディスが怖ろしげに肩を震わせ、肉付きの良い白い腕で自分の上半身をぎゅっと抱きしめた。

「あのねーー口にするのも恐ろしいんだけど――」

「どうしたの。何があったというの?」

「わたくしね、十日前からずっと毎晩細かく日記をつけて、朝起きたら前の日のことを忘れていないか確かめるようにしていたの。そしたら三日前のことをまた忘れていたの」

「三日前というと、五月十二日?」

「そう」と、ジュディスが頷く。「王立劇場とその日付で、何か思いつくことがない?」


 エレンは思わず口元を抑えた。

「まさかそんな。考え過ぎよ。あの事件とあなたの異変と、関係があるはずがないじゃない」


「じゃ、やっぱり知ってはいるのね?」と、ジュディスが縋りつくような目を向けてくる。「あなた警視庁(ヤード)のお仕事をなさっているのですものね?」

「魔術関係の事件について意見を求められているだけよ。どんな事件にも関わっているわけじゃないわ」



 そうは言いながらも、三日前の五月十二日に起こった王立劇場関係の事件については、エレンは勿論知っていた。


 王立劇場のトップスターである女優のセアラ・オズボーンの小間使いのニーナ・ラングレーが、劇場とも住まいとも縁もゆかりもなさそうなスラム街であるウェスト・リヴァーサイドの川辺で殺されていた事件だ。



「――今朝あの殺人事件の記事を新聞で読んだとき、わたくし血の気が引いたわ」と、ジュディスが肩をすぼめて囁く。「もちろん、わたくしがセアラ・オズボーンの小間使いを殺したなんてすぐに思ったわけじゃないけど――怖くなったのよ。自分が記憶を失くしているあいだに、どこかで何か怖ろしいことをしでかしていたらどうしようって。ねえお願いミス・ディグビー、わたくしをしばらくここに置いて。そしてずっと見張っていて頂戴?」




「--ミス・リンジー、気持ちは分かるけれどそれは無理だわ」と、エレンは苦笑した。「わたくしだってこの事務所にずっといるわけではないし。それよりも原因を考えましょう。あなたの奇妙な忘却の原因。――わたくしが思うに、たぶん違法の魔術薬が使用されているのではないかと思うわ」

「え、わたくしに毒が盛られているってこと?」

 ジュディスが怖ろしげに叫ぶ。

 エレンは笑って首を横に振った。

「大丈夫。あなたは特に衰弱しているようには見えないから、毒っていうほどのものじゃないとは思う。聞いた感じ、一番可能性が高いのは『名忘れ草』ね」

「名忘れ草?」

「ええ。――ヒュノプシス、あるいはサン・スーシー〈憂いを忘れる草〉なんて呼ばれることもある魔術性の植物で、栽培にも処方にも月室庁(ムーンチェンバー)の特別許可がいるの。あなたが正規の魔術師に処方されたのでなければ、五月一日前後に口にしたいつもとは違う食品に混入していた可能性が高いわー―」

 話ながらエレンは考えこんだ。


 ジュディスの話では、記憶喪失は十日前から断続的に起こっているようだ。


 そうなると、毎日必ず口にする食物ではなく、口にしたり口にしなかったりする嗜好品である可能性が高い。


 初めが本当に五月一日、エラリーアレーの王立劇場からだったとしたら、劇場でジュディスのような若い娘が手にする嗜好品といったら?

 


 エレンは目を閉じて劇場に入ってから自分たちがすることをひとつずつ思い浮かべていった。


 まずはロビーで絹外套を脱いでクロークに預ける。


 次に桟敷席へ向かう入口へと向かう。


 ドアの近くには大抵砂糖菓子売りがいる――


「ああ!」

 エレンは思いついた。


 砂糖菓子(ボンボン)だ。


 甘いもの好きのジュディスなら必ず買っているはずだ。


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