第九章 時には窓の外へ 1
「エレンよ、この部屋にある菓子に異常はみられなかったぞ」
火蜥蜴が口から甘いヴァニラの薫りを発しながら報告してくる。
エレンは笑って頷いた。
「ありがとうサラ。今日の用事はこれだけなの」
「こうした用ならいつでも呼べ。昨今の死すべき者の作る菓子というもの、上古の上位精霊の上王であろうと随喜の泪を流したであろうよ」
火蜥蜴はしみじみと讃嘆しながら、エレンの掌越しにどこかへと消えていった。
サラが消えるのと同時進行で、エレンは領域を解除した。
部屋をうっすらと充たしていた淡い金色の微光が消え、蝋燭の焔が赤黄色に戻る。
すると室内は薄暗くなり、室温が一気に下がるのが分かった。
薄暗いなかに濃すぎるラヴェンダーの精油の匂いだけが立ち込めている。
セアラがすんと鼻を鳴らし、顔を歪めてコットンを見上げた。
「ねえアンソニー、窓を開けて。陽に当たりたくなったの」
「いいのかいセアラ。窓を開けると外から人が見るかもしれないよ?」
コットンが小柄なセアラの顔を覗き込むようにしてあの甘ったるい声で告げる。
厭な声だとエレンは思った。
セアラは実際非常に繊細なのだろう。
その繊細な相手をわざと怖がらせ、世界で味方は自分一人だけだと思い込ませようとしている――そんな印象を与える、耳に粘りつくような甘い、あまい声だ。
「ミス・オズボーン、よろしければわたくしが窓を開けましょうか?」
申し出るなり、セアラが大きなブルーの眸を見張ってエレンを見上げてきた。途端、コットンが呆れたように笑う。
「ミス・ディグビー、どうかお気になさらず。重い鎧戸を開けるなど貴婦人のすることではありませんよ」
「幸いわたくしは貴婦人ではありません。どちらにしたってこの部屋は窓を開けるべきですわ。あまりにも息苦しすぎる」
告げながら窓辺へ寄って重厚な天鵞絨のカーテンに触れると、密な繊毛のあいだに埃が溜まっていることが分かった。
この部屋をしっかり掃除する使用人は長いこと入っていないようだ。
――間違いない。誰かが――おそらくはミスター・コットンが、ミス・オズボーンと他の人間との関わりを極度に乏しくしているんだわ……
それは何のために?
そして、殺されたニーナの立ち位置は?
この部屋に唯一出入りでいたのだろう住み込みの付き人は、囚われの上位精霊の姫君のような大女優の味方だったのだろうか? それとも捕らえている側の手先だったのだろうか?
考えこみながら鎧戸を外し、黒い枠の中に短冊形の硝子をいくつも嵌めた縦長の窓ガラスを押し開くなり、光とともに新鮮な空気がどっと流れ込んできた。
「外の臭いは酷いな」と、コットンが鼻をうごめかす。
「生活の臭いですわ」と、エレンは笑いながら振り返った。
セアラは眩しげに目を細めて光の帯のなかにいた。
輝かしいハニーブロンドが陽射しを透かしている。
明るい光のなかで見るとますます美しかった。
エレンは思わず感嘆のため息をついた。
「ああミス・オズボーン、言われ馴れているとは思いますけれど、あなたは女神のようだわ! こんなにお近くで会えたと話したら友人たちがどんなに羨ましがるかしら」
「――その友人って女なの?」
「ええ」
「ふうん」と、セアラは意外そうに言った。「私を好きな女なんて、ニーナ以外この世にはいないのかと思っていた。――あんまり見ないでよ。私はもう十六じゃないの。明るい光の中で見ると衰えが目立つでしょう」
セアラは顔を歪めた。
エレンは呆気にとられた。「衰え? 何を言いますの。あなたは女優としてはまだまだこれからでしょう? わたくしだって今の仕事に就いてからまだ二年になりません。お互い卵から孵ったばかりの雛みたいなものです」
「雛? この年より女が? 私はもう老朽品よ。もうじきお払い箱になる」
セアラは頑なに言い募り、ちらりと背後の鏡を見やった。
その瞬間、傍で無言のまま――一言も姪を慰めようとせずに――薄い笑顔を浮かべて聞いていたコットンの顔がわずかにこわばるのが分かった。
この男は何かを知っている――と、エレンは直感的に思った。
同時に確信する。
セアラは何も知らないはずだ。
「ねえ、窓もう閉めてよ」
「分かりました」答えて窓を閉めながらさりげなく切り出す。「ところでミス・オズボーンーー」
「なに?」
「わたくしね、先月関わった事件で〈恋人たちの合わせ鏡〉という魔具を目にしましたの」
世間話のように切り出すなり、
「あら、それなら私も持っている!」
セアラが弾んだ声で応じた。
感情の起伏が本当に激しいのだ。
カーテンを引きながらエレンは興味深そうに訊ねた。
「決まった時間にハドソン提督のお顔を?」
「そうなの。週に一回だけね――」
「提督が是非にとセアラに寄越したのですよ」と、コットンが横から口を挟んでくる。「そこの化粧台の上の鏡です。お確かめになりますか?」
何となく挑戦的な口調で告げてくる。
エレンは笑って首を横に振った。
「いえ結構ですわ。――そちらの鏡は、ハドソン提督からの贈り物なのですね?」
「ええそうです。海へ発つ前に、あまり手紙が書けなくなるから、代わりに週に一回互いの顔を見ようと」と、コットンが甘い笑顔を浮かべて答えた。
セアラは眉間にわずかに皴をよせ、俯いて自分のつま先を見ていた。
「ミス・オズボーン――」
「なに?」
「……提督からのお手紙は、全く来ないのですか?」
「きっと忙しいのよ。週に一回顔は見ている。彼は元気そうよ」
セアラは投げやりに応えると、またあの刺々しい目つきでエレンを見上げてきた。
「そろそろ出て行ってくれる? 話疲れたの」
「ええミス・オズボーン。ありがとうございました」
エレンはできるかぎり丁重に告げた。