第八章 鏡の光 1
階段の隅には埃が溜まっていた。
前を登るコットンが振り返らずに囁いてくる。
「――ミス・ディグビー、あなたを心優しいご婦人と見込んで、ひとつだけお願いがあります」
「何でしょう?」
エレンは微かな苛立ちとともに答えた。
心優しいご婦人へのお願い――と言うのは、大抵大いなる譲歩と忍耐を必要とする依頼に決まっている。
「先ほどから申し上げているように、姪は本当に繊細なのです」
エレンの内心の苛立ちに構わず、コットンは芝居がかった甘い口調で続けた。「ですから、婚約者が戦いのために海へと出てしまってこの方、それは辛い思いで日々を過ごしておりましてね――」
「分かりますわ。わたくしの長兄も海軍に奉職しております」
エレンの七歳年上の兄のコーネリアス・ディグビーは勅任艦長として、海軍の英雄ハドソン提督旗下のスループ艦を指揮している。
今や大陸西部全土を征服する勢いのルテチアの「皇帝僭称者」コルレオンによるアルビオン侵攻を防ぐべく、カーリー海峡からデライラ諸島付近までを巡航しているのだ。
子供のころから仲良しの兄の「コーニー」を思ってエレンが共感を示すと、階段の一番上まで登ったコットンが微かに喉を鳴らして嗤った。
「お兄様、ですか。婚約者とは少し違うのではないかなあ? そのあたりは未婚のご婦人にはなかなか分からないでしょうが――姪は提督を送り出して以来、本当に苦しんでいましてね。時折――ほんの時折ですよ? 気付けのためのブランデーを少々飲みすぎることがあるのです」
「まあ」
エレンは何とか平坦に応えた。
コットンが不意に足を止め、物思わしげな表情を浮かべてエレンの顔を覗き込んできた。
「ねえミス・ディグビー……」
やたらと甘ったるい声で呼ぶ。
エレンは眉を吊り上げて答えた。
「何です?」
「姪の飲酒の件については、どうぞ不用意に口外なさらぬよう。あの娘は幸福な結婚を控えた良家の子女なのです。世間に悪い噂が広がるようなことがあっては困ります」
「心に留めておきますわ」と、エレンは事務的に答えた。
二階には三つのドアが並んでいた。
コットンが二番目の前で足を止め、ノックしながら甘い声で囁く。
「セアラ、諮問魔術師殿がおいでだよ。お仕事で君の話を聞きたいんだそうだ」
それだけ告げると、コットンは応えが返る前にノブに手をかけてドアを開けてしまった。
途端、むっとするほど濃いラヴェンダーの匂いが漂ってきた。エレンは一瞬だれかの魔力の表出かと思ったが、すぐに思い直した。
これはおそらく単なる精油の匂いだ。
「どうぞミス・ディグビー」
コットンがまるで部屋の主であるかのように入室を促す。
エレンは不快感を堪えて入った。
室内は薄暗かった。
昼間だというのに鎧戸をおろして、重厚なダークブルーの天鵞絨のカーテンをひいている。
真ん中にすえられた天蓋付きのベッドのカーテンも同じ色だ。
ベッドの左右の壁に銀の燭台がしつらえられて、淡い紫色をした太い蝋燭が灯っている。
匂いの源はその蝋燭のようだった。
右手に暖炉があり、その横に白い化粧机があって、カーテンと同じ色の天鵞絨を張った大型の肘掛椅子が据えてある。
その椅子の向こうに人が掛けている気配があった。
「セアラ。ミス・ディグビーだよ」
コットンが甘ったるい声で呼ぶ。すると、肘掛椅子の大きな背もたれの向こうから、小柄な白い人影がするりと滑り出した。
セアラ・オズボーンだ。
――まあ愕いた。まるで上位精霊の少女のよう……
大女優はエレンと同い年であるはずだったが、どう見ても遥かに幼くみえた。
小柄で華奢な体つきと卵型の輪郭。
わずかに縁の吊り上がった大きなブルーの眸。
輝くばかりのハニーブロンドをふさふさと波打たせ、襞の多い白いハイウェストのドレスに青いサッシュを結んでいる。
「――初めましてミス・オズボーン。お会いできて光栄です」
エレンはどうにか笑顔を拵えながら告げた。
「エレン・ディグビーと申します。タメシス警視庁任命の諮問魔術師です。今日はあなたにお訊きしたいことがあってご訪問いたしました」