第六章 二人で御茶会を 2
――どうも混乱してきたわね……
実は、エレンは今しがたまで、ジュディスに忘却薬が渡ってしまったのは不運な偶然で、薬入りの砂糖菓子は本当ならば殺されたニーナ・ラングレーが食べるはずのものだったのではないか――と推理していたのだった。
ニーナは何かを忘れさせられるはずだったのに、一夜の睡眠を経てヒュノプシスが効いたあとにも、本来ならば忘れているはずの何かを覚えているままだった。
だから、そのために殺されたのだ。
そんな流れの仮説を立てていたのだが、今のジョシーの話からすると、ジュディスには明確に渡そうとする意図があって砂糖菓子を渡された可能性もある――ような気がしてきた。
その場合、一体何のために?
「エレンーー」
考え込んでしまったエレンを、ジュセフィーンが心配そうに呼ぶ。「どうしましたの? ミス・ジュディスの身によほどまずいことが?」
そう訊ねてくるジョセフィーンの顔は心底不安そうだった。
長年傍に付いてきたジュディスの身の上を心から案じているのだろう。
エレンは腹を決めた。
ジョセフィーンにはある程度のことを打ち明けてしまおう。
この先何があるにせよ、ジュディス・リンジーの身辺に気を配ってもらうには一番いい相手だ。
「いえね、今考えていたのだけれど、もし誰かがミス・リンジーにわざと忘却の魔術薬入りの砂糖菓子を手渡したのだとしたら、その人物の目的は何だったのだろうかと思っていましたの」
「何って、勿論何かを忘れさせることでは?」呆れたように応じてから、ジュセフィーンが眉をよせる。「ねえエレン、その魔術薬というのはどういう風に効くものなの?」
「経口摂取の場合、口にしてからある程度の時間の睡眠をとると、眠ったのと同じ程度、眠る前の時間に遡った過去の記憶が失われるという効き方ね。ですから、ミス・リンジーが五月一日の夜に砂糖菓子を口にして、そのあと八時間眠ったとしたら、忘れるのは眠る前の八時間程度――前日の午後の出来事ということになるはず。そのあたりで何か変わったことは?」
「五月一日に? そうね――」
ジョセフィーンが腕組をして考え込む。エレンがすっかり温くなってしまったお茶を啜っていると、ジュセフィーンはじきにため息をつき、厚みのある肩を竦めて首を横に振った。
「駄目。思い至らない。お邸を出てすぐに馬車の車輪が溝に嵌まって開幕に遅れかけたことくらい。『クロニスとダフネ』の初演は素晴らしく、セアラ・オズボーンは女神みたいに綺麗で、舞台上で本物の殺人なんか勿論起こっていなかったわ。ミス・ジュディスが忘れるべき何かがあの午後起こっていたとは思えない――」
ジョセフィーンがそこで言葉を切り、茶色の目を瞠って口元に手を当てた。
「……ジョシー?」
今度はエレンが不安になる。「何か思い当たりました?」
「いえ、そうじゃなくてね」と、ジョシーが苦笑する。「ちょっと思いついたのだけれど、そもそもその誰かの目的は、自分に妙な魔術薬が盛られていることに気付いたミス・ジュディスが、エレン、あなたに相談を持ち掛けることそのものだったのではないかと思って」
「わたくしに?」
エレンは呆れて応じた。「まさかそんな。諮問魔術師はタメシスに十四人もおりますのよ?」
「でもみな男性でしょう?」と、ジョシーが言い返す。「それにね――これはちょっと打ち明けるのが恥ずかしいのだけれど――」
「何です?」
「ほら、ミス・ジュディスがあなたと親しくなったのはわりあい最近でしょう?」
実はそうなのだ。
タメシス近郊の地主階級の同年代の令嬢同士、互いの存在を知ってはいたものの、今のように親しく会話をするようになったのは、二か月前、エレンが諮問魔術師として初めて大きな手柄をあげた〈グリムズロックの護符事件〉を個人的に調査している途中、社交界の噂話に詳しいジュディスに訊いたゴシップが最大の手がかりになって謎の解明に至ったことがきっかけである。
事件が解決したあとでお礼を伝えにいったときのジュディスの興奮と大歓迎ぶりは今でもよく覚えている。
明るく陽気で音楽とダンスと噂話とお芝居が大好きな巻き毛の御令嬢――ジュディス・リンジーはそれまでのエレンの人生ではまずもって仲良くなることのなかったタイプの年下の友人だ。
「ミス・ジュディスはあなたとお友達になれたことが本当にご自慢でね」と、ジョセフィーンが眦に皴を寄せて微苦笑する。「このところ、どこへ出かけても、ミス・ディグビー、ミス・ディグビーって、あなたのお話しかしていなかったんですの。何かあったらミス・ジュディスは当然あなたに相談する――と、あれを聞いていたら誰だって思うに決まっています」
「それは――」
エレンは咄嗟に反応に困った。
恥ずかしいが、同じほど嬉しくもある。
「だからね、誰だか知らない誰かは、王立劇場とその変な魔術薬の関わりについて、こうしてあなたに調べて貰いたかったのじゃないかしら? きっとそれが目的だと思うわ」と、ジョセフィーンが笑って続けた。
妹の活躍を喜ぶ優しい姉さんみたいな笑いだった。