自己紹介
◇◇◇
お部屋の荷物をなんとかまとめたところで、約束の日が来て、迎えの馬車が再び狭い道を塞いだ。三度目ともなると慣れたもので、ミーシュも迷わずその馬車を認識できた。
「今荷物を運びますね!」
両手で重たい鞄を引きずっていたら、突然ふわりと軽くなった。ミーシュの手を離れて、ひとりでにふよふよと浮いている。
(これって、魔法?)
驚いているうちに、荷物はすとんと後続の荷台に載ってしまった。
「ご自分で運ぶなんてとんでもない、すべてお任せください。残りはどちらに?」
「あ……まだ、部屋に……」
フィデルはごく当然という顔でミーシュの部屋に上がり込み、まとめて荷物を浮かせてしまった。見事な腕前である。メラやケレンもぽかんとしていた。
「すごいですね」
思わずミーシュが声をかけると、フィデルはぱっと分かりやすく顔を輝かせた。
「……はい、ずっと練習していましたから。いつかまた……いえ、いつか、仕える人ができたら、成長した姿を――いえ、まあ……宮廷魔術師として、このくらいはできて当然ですから」
「……? そうですよね」
確かに、王国の最高位なのだから、この程度は朝飯前なのだろう。しかし何か、途中によく分からない話が挟まった。
(何が言いたかったのかな、今の)
フィデルの嬉しそうな様子はすでになりをひそめ、涼しい顔をして立っている。変だとは思ったものの、ミーシュにはそれ以上に気にかかることがあった。
「ご近所の迷惑なので、早めに出発してください」
ミーシュの要請に応えて、フィデルはさっと馬車のドアを開いた。タラップを駆け上がろうとするミーシュの手をさっと取り、スムーズに乗れるよう支えてくれる。
まるで長年侍従の仕事をしていたかのような淀みないサポートに驚いていると、フィデルはそのまま流れるように馬車に乗り込んできた。ミーシュの向かい合わせに腰を下ろす。
窓の外で、義理の姉たちが手を振っていた。
「またね、ミーシュ!」
「また来いよ!」
メラとケレンに向かって手短に「またね!」と返す。そうしているうちにも発車が始まっていて、ふたりが少しずつ遠ざかっていく。
馬車が狭い道を抜けきると、ミーシュもようやくホッとひと息つけた。今のところ、荷車が立ち往生したりだとか、誰かが通れなくて困っていたというような様子はない。
「ふふ、あっという間でしたね。フィデルさんのお陰で助かりました」
「お礼なんておっしゃらずともいいんですよ。私はそのためにいるんですから」
フィデルはそう言いつつも、どこか誇らしげだった。
馬車の移動はしばらくかかるだろう。慌ただしい荷造りから解放され、のんびりしていい時間になってようやく、フィデルのことが気になり始めた。
「ええと、私、ミーシュ・ストーンマイア、です。まだ自己紹介してませんでしたよね」
「フィデル・ロイグラントです。男爵位をもらっていますから、ヒラの宮廷魔術師よりは少しばかり身分が上です。大した差ではありませんが」
「フィデルさんのおうちも貴族だったのですか?」
「いえ、私は平民の出ですよ。貴族階級への取り立てがあると聞いて、目指すことにしたんです」
「じゃあ、立身出世を目指していらっしゃったんですね」
「そういうわけでもないんですよ」
きょとんとするミーシュに、フィデルはにこやかに続ける。
「……憧れている人がいたもので。少しでも近づきたかったんです」
ミーシュはあまり露骨に驚いてしまわないよう、手で顔を覆った。誰のことを思い浮かべているのだろう、フィデルがとてつもなく甘い表情を浮かべている。少し、かわいい、と思ってしまった。
彼に関してはよく分からないことだらけで不安だったが、人となりが窺えると、ぐっと親しみが湧いてくる。
「どんな方なんですか?」
「そうですね……とても一言では言い表せませんが、深く尊敬していました。困っている人がいたら、自分の持っているものを全部あげてしまうような人だったんです。私は一生分、これ以上は返しきれないと思うくらいたくさんのものを惜しみなく与えてもらいました。私にとっては神様みたいな人だったんです」
祈るように組まれた手。彼の膝に載っているのを見て、ミーシュは少しドキリとした。たぶん、本心なのだろうと思う。その人のことを語る彼の口調やまなざしは、まるで神様への信仰を語る聖職者のように、優しく柔らかな慈愛で満たされている。
「そんなに素敵な人が……」
「はい。とても綺麗な人でした」
と、評する彼こそが綺麗だったので、うっとりする彼に釣られて、ミーシュもほうっとなってしまった。彼がここまで言うからには、きっと彼と同じか、それ以上に美しい人だったのだろう。ふたりで並んだら芸術品のようになったに違いない。
「貴族の方だったんですか?」
「ええ、私には手の届かない、遠い存在でした」
なるほどと、ミーシュは何となく事情を察した。魔法を学ぶにはお金と時間がかかるから、才能のある平民は、貴族から出資してもらうことが多い。きっと彼の学問を支援してくれた人がいたのだろう。
「その方は今、どちらに?」
そこで彼は、ミーシュを見た。優しいまなざしと微笑みが、微妙な沈黙を伴ってミーシュに振り向けられる。
ミーシュは戸惑い、フィデルを無為に見つめ返した。彼は何も語ろうとしないが、心情は手に取るように伝わってくる。わずかに細められた形のいい瞳や、優美に弧を描く唇の稜線から、過去の幸福な記憶の名残がありありと読み取れるのだ。
(この人、カッコいいな)
元から整った容姿の人ではあったが、人間らしい感情が垣間見えると、余計にそう感じてしまう。思わず見とれていたが、しばらくしてようやく沈黙の意味に思い至った。
(どこにいるか言えない……つまり、もういないってこと?)
何となく、篤志家の老貴族を思い浮かべた。遺産はフィデルにすべて寄贈して、今は――という、あらぬ妄想をかきたてられたのだ。
「……すみません、立ち入ったことを聞いてしまって」
「いいえ、あの人の話はいつしても飽きることはないので。聞いてくださってありがとうございます」
逆にお礼を言うフィデルには、心からの尊敬が感じられた。
同時にミーシュは、安堵していた。
(よかった。フィデルさん、いい人そう)
あまりにも強引に話が進んでいくので、何かの罠なのではないかと疑う気持ちがどこかにあったのだが、たった今、氷解した。
その後はそれほど会話もなく馬車が進んでいったが、沈黙が苦痛にならない程度にはフィデルを信用することができたのだった。