十年前
王都から遠く離れた辺鄙な村で、ミシェル・フォージロアは有名な娘だった。
彼女が暮らす巨大な城館は、三十年以上も昔に城主の老婆が死んだっきり、住まう者のない幽霊屋敷としてうち捨てられていたが、使用人の手が入って、見違えるような姿になった。瀟洒な庭にときおり顔を出すのは、まだ年端もいかない娘で、服装こそ農民風にしつらえているものの、泥や土汚れのない綺麗なエプロンのスカートは、彼女が大切に育てられているお嬢さんであることを窺わせた。
ミシェルが持つ、赤茶けた暖かい色彩の髪と瞳は、どちらかというと平凡なものだ。しかし、日々の労苦とは無縁の生活がもたらす人柄や、丁寧に手入れされた肌や髪の美しさによって、村のどんな娘よりも可憐に見えた。
どこからかやってきた貴族のご令嬢。
娯楽の少ない暮らしの中で、ミシェルは皆の憧れの的なのである。彼女がまとう貴族らしさや、洗練された王都の香りは、本人すら自覚しない中で、周囲を惹きつけていた。
その彼女にぴったりと寄り添っていたのが、村で生まれ育った少年のフィデルだ。五歳年下の彼は、令嬢の弟と呼んでもいいような存在でしかなかったが、ともあれその村で雇用されて、ミシェルの従者として立派に務めを果たしていた。
――少々行きすぎた愛情を伴いながら。
彼は忠実すぎるほどに忠実だった。壊れ物でも扱うかのように身の回りの世話をし、外出するときは、護衛として付き従う。少年ひとりで担うには少々辛い仕事も、まったく嫌がるそぶりもみせず、こなしていた。
「ミシェル、足元に気をつけて。魔法で固めた部分を歩いてよ」
「分かってる」
「綺麗な靴だね。泥がはねたりしたら大変だ。絶対に汚さないようにしないと。俺に任せて」
「ええ……」
「ミシェルは足がほっそりしているから、靴も華奢なんだね。うっかり小石なんて踏ませて、破けてしまわないか心配だよ」
甲斐甲斐しく手を取られ、従者の少年に先導されているご令嬢は、少年に向かってかすかな苦笑を向ける。
「ねえ、そんなに構わなくても……靴は汚れるものでしょ?」
「靴はね。でも、俺はミシェルに汚れてほしくない」
フィデルは、およそ非現実的な努力をおのれに課して、どんなときでもミシェルを完璧にエスコートしようとしていたのである。もう二年間も、ずっとこの調子だった。
一途な思いを込めて、彼は言う。
「ミシェルは、とても綺麗だから」
それが、外見や服装のことを超えて、存在そのものの熱烈な崇拝なのは、言葉の端々から窺えた。容貌にこれといった癖のない美少年のフィデルが、うっとりとため息をこぼしながら危うい好意を口走っているのだ。ミシェルをどう思っているのかは、容易に察せられた。
ミシェルはそんなフィデルを、つかず離れず、重用している。フィデルを軽んじているわけではない。しかし、奇妙なくらい熱のこもった従者の態度を、いとも簡単にあしらう姿は、村の住人にも何度か目撃されていた。年上の姉らしく、ときには家族として、ときには従者としてあやす姿からは、彼女の心情が見えてこない。一線を越えないように距離を推し量っているようにも見えるし、少々のんびりしている彼女が、フィデルの気持ちに気づいていないようにも見える。
まだ幼い少年と、こちらもまだ幼い、姉代わりの女主人。
そんなふたりだからこそ、許される関係だ。
フィデルは、あまり村の少年らしくない少年だった。村育ち特有の少々品のない喋り方を除けば、ミシェルの弟のようにしか見えない。ミシェルよりもずっと色素の薄い、銀色がかった髪には気品さえ感じられる。
しかし彼は、ミシェルとは明らかに違う雰囲気をまとっていた。優しく気遣われて育った者の鷹揚さが、彼にはない。瞳にはどこか陰気な色があり、彼女以外には滅多に笑顔すら向けようとしない。意固地で防衛的な性格を反映しているかのようだった。
フィデルの思い詰めた様子は、彼が抱える闇の深さを物語っている。
その証拠に、言葉でさえもずしりと重い。
「どんな危ない目にも遭ってほしくない。ずっと俺をそばに置いてくれないと困る。分かっているんだろう? 俺はミシェルがいないとどこにも出歩けないんだ」
フィデルは吐き捨てる。
「――化け物だから」
何度も村人から投げられた言葉。もっとも、本当に怯えているのは、彼自身なのだろう。ぎゅっときつく握り締めた手は、振り払われるのを何よりも恐れている。
彼のそんな様子を見ると、主人たるミシェルはいつも笑うのだ。何でもないことのようにフィデルの手を握り返して、その目を見る。
「思い詰めすぎよ」
笑い飛ばす声も軽やかだ。
「ちょっと人より魔力が多いだけでしょう? 魔術の腕が上がれば、きっとコントロールもよくなって、魔力が暴発することもなくなるはずだわ」
「……それでも」
フィデルは、少しも笑ったりはしなかった。ミシェルの手を握りしめている彼の指は、関節が白くなるほど力がこもっていて、ぬくもりが足りないとでも言いたげだ。少女のほっそりした手では痛むだろうに、ミシェルも嫌がったりはしない。
「どんなに俺の腕が上がったとしても、ミシェルがいなきゃ生きていけない、と思う」
彼女が拾い上げなければ、フィデルはもっと辛い境遇にいただろう。もしかしたら、命だってなかったかもしれない。その事実があるから、彼の思慕は危うい領域に踏み入れてしまったのだ。
「絶対に、どこにも行かないでね」
切実な願いを退けるほど、ミシェルという娘は冷淡ではなかった。
彼の入れ込みようは、愛や恋、熱意や執着といったものを遙かに超えて、妄執のようなものを感じさせる。
それでも彼女は、いつも静かに微笑んで、彼の話を聞いてやり、どんな願いにも明るく答えてやるのだ。
「当たり前よ」
◇◇◇
――そんな会話を、死の間際に、ミシェルは思い出していた。
濃厚な魔力が溶け込んだ泉に、どんどん沈んでいく。青い燐光を放つ湖面とは裏腹に、泉の底はとても暗かった。ごぼりと吐き出した泡が、たちまちのうちに上昇していって、伸ばした手も届かないほど遠ざかる。
(約束、を、守らないと)
ミシェルは力を振り絞って、泳ごうとした。
だって彼は、ミシェルがいなければ生きていけない、と言った。
ミシェルがいなくなったら、彼はどうなってしまうのだろう。
(あの子を、置いていく、わけには――)
――しかし、必死のあがきも空しく、ミシェルは力つきて、どこまでも深く沈んでいった。
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