表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

1/14

十年前


 王都から遠く離れた辺鄙な村で、ミシェル・フォージロアは有名な娘だった。


 彼女が暮らす巨大な城館は、三十年以上も昔に城主の老婆が死んだっきり、住まう者のない幽霊屋敷としてうち捨てられていたが、使用人の手が入って、見違えるような姿になった。瀟洒な庭にときおり顔を出すのは、まだ年端もいかない娘で、服装こそ農民風にしつらえているものの、泥や土汚れのない綺麗なエプロンのスカートは、彼女が大切に育てられているお嬢さんであることを窺わせた。


 ミシェルが持つ、赤茶けた暖かい色彩の髪と瞳は、どちらかというと平凡なものだ。しかし、日々の労苦とは無縁の生活がもたらす人柄や、丁寧に手入れされた肌や髪の美しさによって、村のどんな娘よりも可憐に見えた。


 どこからかやってきた貴族のご令嬢。


 娯楽の少ない暮らしの中で、ミシェルは皆の憧れの的なのである。彼女がまとう貴族らしさや、洗練された王都の香りは、本人すら自覚しない中で、周囲を惹きつけていた。


 その彼女にぴったりと寄り添っていたのが、村で生まれ育った少年のフィデルだ。五歳年下の彼は、令嬢の弟と呼んでもいいような存在でしかなかったが、ともあれその村で雇用されて、ミシェルの従者として立派に務めを果たしていた。


 ――少々行きすぎた愛情を伴いながら。


 彼は忠実すぎるほどに忠実だった。壊れ物でも扱うかのように身の回りの世話をし、外出するときは、護衛として付き従う。少年ひとりで担うには少々辛い仕事も、まったく嫌がるそぶりもみせず、こなしていた。


「ミシェル、足元に気をつけて。魔法で固めた部分を歩いてよ」

「分かってる」

「綺麗な靴だね。泥がはねたりしたら大変だ。絶対に汚さないようにしないと。俺に任せて」

「ええ……」

「ミシェルは足がほっそりしているから、靴も華奢なんだね。うっかり小石なんて踏ませて、破けてしまわないか心配だよ」


 甲斐甲斐しく手を取られ、従者の少年に先導されているご令嬢は、少年に向かってかすかな苦笑を向ける。


「ねえ、そんなに構わなくても……靴は汚れるものでしょ?」

「靴はね。でも、俺はミシェルに汚れてほしくない」


 フィデルは、およそ非現実的な努力をおのれに課して、どんなときでもミシェルを完璧にエスコートしようとしていたのである。もう二年間も、ずっとこの調子だった。


 一途な思いを込めて、彼は言う。


「ミシェルは、とても綺麗だから」


 それが、外見や服装のことを超えて、存在そのものの熱烈な崇拝なのは、言葉の端々から窺えた。容貌にこれといった癖のない美少年のフィデルが、うっとりとため息をこぼしながら危うい好意を口走っているのだ。ミシェルをどう思っているのかは、容易に察せられた。


 ミシェルはそんなフィデルを、つかず離れず、重用している。フィデルを軽んじているわけではない。しかし、奇妙なくらい熱のこもった従者の態度を、いとも簡単にあしらう姿は、村の住人にも何度か目撃されていた。年上の姉らしく、ときには家族として、ときには従者としてあやす姿からは、彼女の心情が見えてこない。一線を越えないように距離を推し量っているようにも見えるし、少々のんびりしている彼女が、フィデルの気持ちに気づいていないようにも見える。


 まだ幼い少年と、こちらもまだ幼い、姉代わりの女主人。


 そんなふたりだからこそ、許される関係だ。


 フィデルは、あまり村の少年らしくない少年だった。村育ち特有の少々品のない喋り方を除けば、ミシェルの弟のようにしか見えない。ミシェルよりもずっと色素の薄い、銀色がかった髪には気品さえ感じられる。


 しかし彼は、ミシェルとは明らかに違う雰囲気をまとっていた。優しく気遣われて育った者の鷹揚さが、彼にはない。瞳にはどこか陰気な色があり、彼女以外には滅多に笑顔すら向けようとしない。意固地で防衛的な性格を反映しているかのようだった。


 フィデルの思い詰めた様子は、彼が抱える闇の深さを物語っている。


 その証拠に、言葉でさえもずしりと重い。


「どんな危ない目にも遭ってほしくない。ずっと俺をそばに置いてくれないと困る。分かっているんだろう? 俺はミシェルがいないとどこにも出歩けないんだ」


 フィデルは吐き捨てる。


「――化け物だから」


 何度も村人から投げられた言葉。もっとも、本当に怯えているのは、彼自身なのだろう。ぎゅっときつく握り締めた手は、振り払われるのを何よりも恐れている。


 彼のそんな様子を見ると、主人たるミシェルはいつも笑うのだ。何でもないことのようにフィデルの手を握り返して、その目を見る。


「思い詰めすぎよ」


 笑い飛ばす声も軽やかだ。


「ちょっと人より魔力が多いだけでしょう? 魔術の腕が上がれば、きっとコントロールもよくなって、魔力が暴発することもなくなるはずだわ」

「……それでも」


 フィデルは、少しも笑ったりはしなかった。ミシェルの手を握りしめている彼の指は、関節が白くなるほど力がこもっていて、ぬくもりが足りないとでも言いたげだ。少女のほっそりした手では痛むだろうに、ミシェルも嫌がったりはしない。


「どんなに俺の腕が上がったとしても、ミシェルがいなきゃ生きていけない、と思う」


 彼女が拾い上げなければ、フィデルはもっと辛い境遇にいただろう。もしかしたら、命だってなかったかもしれない。その事実があるから、彼の思慕は危うい領域に踏み入れてしまったのだ。


「絶対に、どこにも行かないでね」


 切実な願いを退けるほど、ミシェルという娘は冷淡ではなかった。


 彼の入れ込みようは、愛や恋、熱意や執着といったものを遙かに超えて、妄執のようなものを感じさせる。


 それでも彼女は、いつも静かに微笑んで、彼の話を聞いてやり、どんな願いにも明るく答えてやるのだ。


「当たり前よ」


◇◇◇


 ――そんな会話を、死の間際に、ミシェルは思い出していた。


 濃厚な魔力が溶け込んだ泉に、どんどん沈んでいく。青い燐光を放つ湖面とは裏腹に、泉の底はとても暗かった。ごぼりと吐き出した泡が、たちまちのうちに上昇していって、伸ばした手も届かないほど遠ざかる。


(約束、を、守らないと)


 ミシェルは力を振り絞って、泳ごうとした。


 だって彼は、ミシェルがいなければ生きていけない、と言った。


 ミシェルがいなくなったら、彼はどうなってしまうのだろう。


(あの子を、置いていく、わけには――)


 ――しかし、必死のあがきも空しく、ミシェルは力つきて、どこまでも深く沈んでいった。


ブックマーク&画面ずっと下のポイント評価も

☆☆☆☆☆をクリックで★★★★★に

ご変更いただけますと励みになります!


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ