第08話 紅い月照らす
「……ほんと、ですね」
宵闇がそこまでやってきている中、月は煌々とその独特の色合いを主張していた。否応なしに脳内に浮かぶのは、『紅い月夜の魔物』の逸話。
今までずっと、一枚窓硝子を隔てて見ていたその色。
肉眼で、加えて空の下で直に見るとやっぱり全く感覚が違う。紅く輝く月は、見ているだけで心がそわそわするような、不思議な感覚をもたらす。
「怖いかい?」
心配そうな顔を向けて、師匠は言う。
そりゃあ小さい頃から言い聞かせられて、実際に目に見て体感していた逸話だ。ちょっと、ほんの少し、まあ気圧されるような気分だけれど。
「何言ってるんですか」
にっ、と笑みを形作った。
「もう、子どもじゃないんですよ?」
自分が持たざるものの力に怯えて、逃げ回っていられる時間は終わった。だから何が来ようとも、僕は僕の持っている力を使って立ち向かう。そう今決めた。
ふっとまた、人の好さそうな笑みを師匠は浮かべて。
「そう、だね。それじゃあ行こうか」
「はい。最短ルートで向かいます」
少し早足に、僕達は歩き始めた。帰り道を先導しつつ、大通り、家路に着く人達の雑踏に紛れる。
車のヘッドライトとテールランプが、次から次へと尾を引きながら通り過ぎていった。人通りも多く、大通りならではの喧騒が辺りに立ち込めている。お店が多く立ち並んでいることもあってか、月明かりが気にならないぐらい道は明るかった。
きっと大丈夫だ。師匠も居ることだし。
一つ、しっかりと呼吸をした。陽が落ちたことで昼間に比べれば幾分かは涼しいが、蒸し暑い空気が肌にじっとりと巻き付いてくるようだった。歩き始めたことで、余計に暑さを感じる。
「そういえば、ナナミ君の家はどの辺りに有るのかな?」
隣に並んだ師匠が、きょろきょろとしながらそう尋ねてくる。
「御影の中でも外れの方です。御影タワーからは、探偵事務所よりも遠いんで」
「ほう、そうなのかい」
そう、御影タワーからもだが、探偵事務所から家までもまあまあ距離がある。さて、どうやって帰ろうか。細かい道を使ってでも、早く家に着くべきだろう。
「でも、メリットもありますよ? 高校にはまだ近い方なんで、朝早起きしなくて良いんですもん」
「それは良いね。私は朝早く起きるのが苦手なんだよ……」
横断歩道を渡りながら、珍しく困ったような顔を見せる師匠。なんだか人間味があって思わずクスッと笑ってしまうと、当の本人がじっとりとした視線を寄越した。
「なんだよう。別に大人だって早起きが苦手でもいいじゃないか」
「いえ? なんでもできそうな師匠でも苦手なことが有るんだなぁ、と」
「それは勿論あるとも! 完全無欠な人間なんてものは存在しないのだからね」
「確かにそですね……あ」
丁度差し掛かった十字路で、師匠の腕を軽く引っ張りながら左の脇道を指す。
「こっちです。近道を使います」
「分かったよ」
たった少し、大通りから外れただけで、点々とした電柱の蛍光灯が道を照らすだけの住宅街に変わる。おまけに此処は車の通りも少なく、先程までの喧騒が嘘のような静けさだった。
「御影市は、本当に場所によって雰囲気が違うみたいだね」
全く以てその通りだと思う。御影タワーにしても、大通りにしても、今居る住宅街にしてもだが、その場所その場所の雰囲気というか、なんだろう。空気感が、全く違うのだ。まあ理由はハッキリしているけれど。
「計画都市、ですからね。最初の最初から商業地区とか住宅街とかの区画整理が、キッチリなされていたってことなんでしょう」
確か、出来たのは僕が生まれる少し前だったと早苗先生に以前聞いたことがある。つまり都市としては現在の形となってから精々二、三十年ぐらいの歴史しかないということだろう。
「ふむ。本来の目的を達成するという点においては大成功、という訳か」
顎に手を遣りながら、師匠はそう応える。その眼付が普段よりも鋭くなっているように見える。
歩くスピードが落ちないように意識しつつ師匠を横目で観察する。と、はっと何かに気が付いたような素振りで。
「――ナナミ君、走るよ」
「えっ!? ちょっ……!?」
思いっきり片腕を取られて引っ張られる。よく分からないが、とりあえず促されるまま腕がもげないように走る。
そこで、気が付く。
辺りを漂う魔力が、不自然な紅色を呈していることに。
これは、まさか。
なんて思っていれば、目に映る黒い靄の塊のような何か。それは、曖昧ながらも、概ね人の形を為す何か。本来ならば、認識することのないだろう何か――。
「しまった……!」
師匠の引っ張る力が抜けるのと同時に、そう聞こえた。顔つきが、強張っている。見渡すと、進行方向にもそれが立ち塞がり、気が付けば僕達を取り囲んでいた。
辺りは普段の御影とは似ても似つかない、異様な雰囲気だった。紅い月の光、紅く発光する魔力、そして。
『紅い紅ーい月が昇ったら――』
「……これが、神秘を纏った、逸話」
『――魔物が、街にやってくる』
取り囲んでいる、黒い靄。これがきっと魔物なんだろう。無闇矢鱈と襲ってくる様子はない。けど、取り囲んでじーっと、此方を見るのを、観察されているのを感じる。
異様な光景を見ているというのに、不思議と怖さが其処には無くて。
「師匠……」
「なんだい、我が弟子」
背中を合わせて、睨み合いつつ間合いを測りながら、申し訳なさそうに視線をちらりと此方へ寄越す。
「いきなり、人の腕を、引っ張らないでください……」
むしろ、腕を引っ張られたことの方が余っ程驚かされた。
荒い呼吸の僕とは対照的に、少し気が抜けたような表情になる師匠。予想外、といった顔だけれど、力加減を考えて欲しい。がっつり力を込められて引っ張られたんだぞ、ほらやっぱり手首赤くなってるし。
「や、それは、ごめんよ。見て分かるように緊急事態だったから……ね? ほら、そうも言ってられないだろう?」
「まあ、そですね」
言いながら、予想外の行動で荒くなった呼吸を整えながら、鞄の中に手を突っ込んで手探りで包みを探す。
「……ナナミ君?」
「まさかこんなに早く使うことになるとは、ってとこですかね」
包みを掴むと、鞄から取り出してその中身を手に取る。『壊れた神秘』で買った、反魔力術式の刻まれたダガー。包みを仕舞ってから、それを左手で持った。
短剣の鞘をぎゅっと持つと、武士が刀を取るように、その柄を右手でしっかりと握る。丁寧に刀身を抜くと、月光を反射して不気味な鈍色を見せる。
「反魔力術式……魔道具か」
「学外での魔術の使用は禁じられてますけど、……魔道具は言われてないんで」
もし、魔物ならば子どもが大好物という話だ。未成年、という意味では子どもである僕が標的になるだろう。このまま、彼らは僕達を見詰めたままかと思った瞬間だった。
「カ……レ」
「!」
師匠じゃない、何かの声が聞こえた。小さく幽かな、空気の震え。
「カ、エレ」
今度は、それはしっかりとした音を成して。
「カエレ、カエレ」
「カエレカエレ!」
次第に、周りへと伝播する。
帰れ、だろうか。そうは言いつつも、簡単に家に帰してはくれないみたいだけど。そこで矢継ぎ早に師匠は言う。
「ナナミ君、どれでもいい」
「……え?」
「一回、短剣で斬ってみてくれ」
「……はい!」
目の前の魔物へと身体を向けて、じり、と右足を後方に移動させる。一度深く息を吐いてから、唾を飲み込んだ。
「――行きます」
「カエレェェェエエエ!!」
魔物が絶叫とも言える咆哮したのを合図に、持ち前の脚力で大きく踏み込む。一気に魔物との距離を詰めて、懐に入り込む。
「はぁっ……!」
左から右へ、ただ、一閃。
確かに当たったが、物体を斬った感触がなく空を切ったようだった。しかし、微小な別の手応えがそこにはある。
「ウォアアアァ……!!」
反魔力術式の陣が発動したという、特有の感覚があった。魔力が見える今ならハッキリ知覚できる。陣がその近くの魔力を吸い取って霧散させ、斬られた所から魔物の形が崩れていく。つまり。
バックステップで距離をとって叫ぶ。
「師匠! これは、ただの魔力の塊だ!!」
逸話に謳われる魔物は、実態の無い、神秘という力に支えられて顕現した魔力の塊。この短剣が反応が、その事を示していた。
「ナナミ君、良くやった! そういう事ならば……!」
ふっと笑みを浮かべて、師匠はただ、指をパチリと鳴らす。それだけ、たったそれだけで、師匠を中心として魔力の揺らぎが四方八方に放たれる。
「幾らでも、手の打ちようはあるという事だからね!」
まるで波のように広がる揺らぎが、魔物に当たったその瞬間。視界の中いっぱいに、辺り一面に色とりどりの花弁が舞った。
「――え?」
黒い靄のような魔物は、もう其処には居ない。ただ、ただ、無数の花弁が、宙を舞い踊っているだけ。
「師匠、何を……?」
訳が分からなくて、ただただ視線を向けた。師匠の仕業なのはわかるけれど、……何がどうなってこうなった?
説明を視線で要求すると、得意げな笑みを受かべつつ口が開かれる。
「彼らの魔力と、この辺りに漂っていた魔力を、全て花弁の幻影に変換したんだ。こっちの方が綺麗だろう?」
「まあ確かに……そうですけど」
あっけらかんに魔力を変換したと一口に言ってのける師匠だが、そう簡単な技術ではない筈だ。うん、その筈、だ。
「この辺りの話も、これからの魔術講座で話していくよ。それより」
そこで、ふにゃっとしていた師匠の顔つきが、真面目なものになる。
「いつまた先程のように魔物らしきものに襲われるか分からない。急ごう」
「そ、ですね」
そう返すと、ダガーの刀身を丁寧に鞘へと戻した。忘れていた暑さが、存在を主張し始める。いつでも取り出せるように、とダガーをそのまま鞄へと仕舞って、また帰路を歩き出した。
しかし、その先にダガーの出番はなかった。
そこから僕が前、師匠が後ろを警戒しながらただひたすら歩き、途中また魔物が湧いて出てきた。けれど、タネがわかれば対処は簡単。師匠が悉く美しい花に変換して事なきを得ること数回。
「到、着、だ!」
「長い道のりだったね……」
見慣れた庭、家の灯り。ようやく我が家に辿り着いた。普通に歩いて帰るよりも、体感としてはずっと長い間歩いた気分だった。本当に、疲れた。
家の門の前で立ち止まり、師匠を見上げる。
「此処まで送ってくださって有難うございます、師匠」
「弟子を守るのも大事な師匠の役目だよ。それに、逸話の件もあったからね。付いてきて良かったよ」
「ちょっ……!?」
にっこりと笑みを浮かべると、また頭をぐしゃぐしゃと撫でられる。や、本当に師匠は壊滅的に人の髪を撫でるのが下手だから、ほんとだめですやめてくれ。
抵抗して抜け出して、乱された髪を軽く整えながら尋ねる。
「ところで、明日は何時ぐらいに行けばいいですか?」
一応予定を聞いておかないとな、どうすればいいのか分かんないし。と思ったが、視線の先の師匠は驚いたように目を丸くした。
「え、急な話だったのに、明日も来れるのかい?」
「嗚呼、はい。……一日中空いているので」
急な話だったけれど、盂蘭盆会の間は他の仕事は休業させられているからな。正直なところ暇しているし、チビッ子の相手も大事だけれど、勉強になる仕事で有意義に過ごしたいのが本音のところ。
「うーん、じゃあそうだな。明日はそうだね……午前十時頃に事務所に来ることはできるかい?」
「勿論です。では、午前十時頃に伺います」
「うん、そうしてくれると助かる」
師匠は、ふにゃっと笑みを浮かべる。あ、また花が咲いてるや。
「それじゃあナナミ君、おやすみ」
「はい。お気をつけて、おやすみなさい」
そう挨拶を交わすと、先生は背を向けて来た道を戻って行く。その背が見えなくなるまで、そこに立ったまましみじみと思った。
これは、好機だ。僕と魔術の関係性が変わる、好機。
色んなことがあった一日だった、明日は何を教えてくれるんだろうか。期待が胸で膨らむってのはこういうことなんだろう。口の端が上がる。にやけた顔をしたまんま、家の扉を開けた。