第06話 散策と休憩
御影タワーを出てから三十分ほど経つ。
あの後、御影タワーの近くにある目ぼしい建物を巡った。僕の通う高校――御影南高校や、行けば欲しいものはほとんど手に入る品揃えを誇る七星デパート。
特に七星デパートの存在は衝撃的だったらしい。師匠は、最寄りのスーパーしか利用していなかったようで、七星デパートの品揃えの豊富さに目を輝かせていた。年甲斐もなく。
「時に、ナナミ君」
「何でしょう」
隣の師匠がつくる日陰にさり気なく入りつつ、返答する。
風が吹くと、焦げたアスファルトの匂いがした。
少し時間が経って陽射しは弱まった気もするが、気のせいかもしれない。兎にも角にも、暑かった。
「ちょっと休憩しないかい? 暑いし、喉が渇いちゃってね」
どうかな、と言いながらも、紫外線で顔が火照ってきた僕なんかとは違い、相変わらず爽やかな顔がそこには合った。ここまでくると同じ人間じゃないのかな、とさえ思う。割と本気で。
「確かにそうですね……」
「ね? 一息つく事にしようよ」
ほんわかとした笑みを浮かべる師匠。その顔に向かってとびっきりの笑顔を見せて言ってやる。
「ご馳走様です!」
「……はいはい、奢るから!」
出会ってからそこまで長い時を過ごした訳ではないが、取り敢えず分かったことがある。
師匠は、押しに弱い。
「我が弟子はちゃっかりしてるよ、本当に」
「お褒めに預かり光栄でーす」
呆れながらも何だかんだ言いつつ奢ってくれるのは、御影タワーで実証済みだ。
さて、何処で何を奢ってもらおう。どんなものが良いのだろうか。
「何か飲みたいものとかありますか?」
「そうだね。それなら珈琲が飲みたいな」
「珈琲、ですか。んー」
珈琲、珈琲か。珈琲を飲むとなると何処があるだろう。
僕自身、珈琲や紅茶といったものが好きで、休日でお金に余裕があるときは色々なところで飲んでいる。有名どころから、ひっそりと街角に佇む隠れ家カフェまで、網羅していると思うが、さて。
あ、そういえば。
この辺りで珈琲を飲めるところ、そこで脳裏によぎったのは一軒のカフェ。口の端が自然と上がるのを感じた。
「……近くに美味しい所、知ってますよ」
確か、この辺りだったはずだ。絢香の働いている喫茶店、『珈琲&砂糖』。確か、今日は久しぶりの丸一日休みだー、と言っていたから出会うことも無いはずだし、久々に飲みたい気分。コクがあり後味すっきりな美味しい珈琲は、今この瞬間において垂涎もの。
「ほう」
その味を期待できるものだと思ったんだろう、師匠の笑みが深くなった。
「『珈琲&砂糖』って喫茶店です。知り合いが働いているんですけど、そこの珈琲がとても美味しいんです」
「ふふふ、それは楽しみだ! 何処にあるんだい?」
師匠よりも少し早歩きをして、先導する。この角を曲がったら、看板が見えるはずだ。
「直ぐそこですよ。ほら、見えるでしょう?」
「あっ、彼処かな?」
やっぱり、見えた。僕の視線の先には、オープンテラスのある趣深いカフェ。しかし暑いからか、オープンテラスの席はがら空きだった。近づいていくと、周囲の自然の匂いをかき消すように珈琲の芳ばしい香りが漂ってくる。
「確かに、良い香りだね……! じゃあ、入ろうか」
「はい」
カラン、とドアベルを鳴らす。冷たい空気、少し抑えられた照明に、珈琲独特の香り、雰囲気を醸し出すスローテンポなジャズ。『珈琲&砂糖』は、数あるカフェの中でも僕のお気に入りだった。知り合いに出くわしたくない為、行く機会が余り無いのがとても残念だけど。
「いらっしゃいませ-」
「いらっしゃいませ、って……」
店員さんが揃って挨拶を投げかけてくる。その中に一つ、聞きなれた声がした気がした。いやだな、気の所為、気の所為。
「あれ、七海じゃん?」
「うげ何故此処に」
はい、気の所為じゃなかった。思わず苦笑いになるのは仕方なかろう。
「何よその顔」
「や……別に」
じとりと僕を見つめながらカウンターに立っていたのは、見知った顔だった。焦げ茶のロングヘアをポニーテールに纏めた、快活な女子――絢香。
「休みの筈なのに何で此処に居るんだろう、とか思ってないよ?」
「体調不良になった子が居たから、急遽ヘルプで入ったのー。何か文句ある?」
「ちっ、選択を誤ったか」
オフの日に偶然知り合いに会うのは、なーんか気まずい。
だから普段は下調べを行って、しっかりと時間をずらして誰にも会わないようにカフェと散歩には行っているのに。今回ばかりは失敗だ。しかも、よりによってこんな時に。
「ナナミ君、彼女が先程言っていた知り合いかい?」
「うぇえ……なにそのイケメン。七海、アンタどうしたのよこの人」
「あー、もぅ!」
前からも後ろからも挟まれて頭が痛い。ささやかに広がる騒めきと一緒に、店内の視線が此方に集まって来ているのをひしひしと感じる。
「師匠も絢香もお互い後で紹介するから! とりあえず、カウンターに案内、よろしく」
「それもそうね。……二名様、ご案内しまーす」
取り敢えずこの場を凌げた。グッジョブ自分。
さて、この『珈琲&砂糖』の最大の特徴は、カフェであるのに対面カウンター席がある事だろう。珈琲を入れる店員さんと会話をすることもできるという、非常に珍しい形態だ。
本来、基本的にバーとかでよく見られるものなのだが、オープンなコミュニケーションの場を提供するとかなんとか、で導入したらしい。
「此方の席へどーぞ」
「どーも」
「有難う」
座る頃には、人々の関心もなくなったようで、何事もなかったかのように店内の音楽が流れていた。空調の効いた涼しい空気に、汗が引いていく。
二人して椅子に座ると、少しきょろきょろと見渡してから師匠が口を開いた。
「良いお店だね。隅々まで手入れが行き届いて、豆も碾きたてを使っているみたいだ」
「僕のお気に入りですよ。タイミングさえ間違えなければ最高の一杯を楽しめます」
そう、タイミングさえ間違えなければ。心の中で反芻した言葉など露知らず、カウンターの内側に回ってきた絢香が見える。
「お待たせーっと。さて、それで?」
嬉々とした顔で此方を見てくるが、何を答えるべきだろうか。首を傾げて返す。
「それで?」
「しらばっくれないの! 何処でそんなイケメン引っ掛けてきたのかって話よー。ほんと、七海も隅に置けないんだから」
「……盛大な勘違いをしてくれてどうも」
そう溜息交じりに言う。引っ掛けるってなんだ、引っ掛けるって。僕をなんだと思ってるんだ全く。
師匠を手で指しながら、訂正をする。
「期待させて申し訳ないが、この人はただの新しいバイトの雇い主」
「へ、雇い主!?」
「雇い主のシエルだよ。よろしく」
そう言って師匠がふわっと笑みを浮かべて手を振ると、明らかに絢香が照れた。この面食いめ。
「え、えと。私、篠原絢香です! 七海とは幼馴染、みたいな」
「へえ、幼馴染なんだね」
「そうです! てか、七海。新しくアルバイト始めるってこと、早苗先生に伝えたの?」
「……いや。まだ、だけど」
このアルバイトは急遽決まったことだからなぁ。流石に予知なんて出来ないし。伝えられているはずがない。
「もしかして、アルバイトをするには学校の許可がいるのかな?」
ハッとして視線を向けると、師匠が眉尻を下げて心配そうに見ていた。そうだ、すっかり忘れていた。
「ナナミ君に、無理強いをするつもりはないんだけれど」
「あ、そういう訳じゃないですよ、シエルさん!」
しまった、という顔で絢香がフォローに回る。
成人男性には相変わらず似つかわしくない愛嬌が何故かあったが、それをやってのけて尚且つ引かれないのは師匠だからなんだろう。
「そうですよ、師匠。でもとりあえずその話は置いておいて、とりあえず注文しませんか?」
「そうだったね。すっかり忘れていたよ」
そう言うと、絢香がさりげなくメニューを開いて見せてくれる。まあ僕は既に頼むものは決まっているんだけどな。
「絢香、僕はアイスカフェラテで」
「わかった、アイスカフェラテね」
「うーん……どうしようか」
師匠は沢山ある飲み物の名前と画像の羅列をじっと見て、選び兼ねて悩んでいるようだったが。
「では、私もナナミ君と同じものを」
決め損ねたらしい。
「じゃあ、アイスカフェラテ二つね。かしこまりました!」
カフェラテを淹れる為に一旦離れる絢香の背を見送ってから、師匠に視線を向けた。
「すみません、騒がしくて」
「構わないさ。それより、よければ話の続きを聞いてもいいかい?」
「あ、はい。その、先生ってのは学校の先生じゃなくって……養護施設の先生なんです」
少しだけ声のトーンを落として僕が言うと、師匠の目が僅かに見開かれる。
僕は、僕自身の両親の顔を知らない。何故なら、僕が小さい頃に亡くなってしまっているから。
「『ひだまりの家』、というところが僕の住まいで。彼女――絢香も、僕と一緒に住んでいるんですよ。そこの園長先生が、先程言った早苗先生です」
だから、師匠の心配するようなことはないですよ。
そう告げると、またこの人は悲しそうな、心を痛めているような瞳をする。
「……そう、かい」
「そんな顔しないでくださいよ、師匠」
曖昧な笑みを浮かべて僕を見る師匠。しかし、場にそぐわない溌剌とした声が、そこで響いた。
「お待たせしました、アイスカフェラテ二つですよー!」
よし、計算通り。丁度良いタイミングでしっかりと絢香が空気をぶち壊してくれた。手に握られているのは、綺麗なグラデーションを描くアイスカフェラテ。
「はいどうぞー」
「さんきゅ!」
「どうも、有難う」
コースターを取り出して、一つずつ丁寧にグラスを置くとストローを差す。珈琲独特の良い香りが、鼻を掠めた。
「さあさあどうぞシエルさん! 一口飲んでみてください」
「美味しいですよ」
「そうかい、それじゃあいただこう」
まず、香りを楽しんで。ストローをマドラー代わりにして、グラスの中を二、三回掻き混ぜる。そして一口、嚥下して。
「……うん、美味しい!」
「でしょ!」
あ、また花が咲いた。でも、絢香が反応していないってことは僕にしか見えてないということか。余程口に合ったみたいだ。
ストローを咥えて、カフェラテを飲む。その味に、自然と頬が緩む。美味しい食べ物は正義なり。と、そこで絢香が口を開いた。
「ねね、バイトって何してんの? 七海は何でせんせい、って呼んでんの?」
興味津々な表情で、僕に質問している体で主に師匠を見る絢香。さて、どうやって説明したものか。何と無くでいいか。
「……基本は雑務だよ。師匠は御影に越してきたばかりだから、今は街を案内してた」
「私は、場所ごとの風土や文化の特徴について研究している教授でね。今は御影の逸話について調べているのさ」
僕の言葉を引き継ぐようにして、にこり、と笑みを浮かべて言う師匠。ちらりと見たが、どこ吹く風といった体だ。
「成る程、だから教授なんだ。面白いバイトしてんねー、七海」
何か考えがあってのことなのだろう、と深くは突っ込まないでおく。アイスカフェラテを一口飲んで、にっと笑った。
「楽しい仕事だよ」
たぶんだけれど。
「……そっかぁ」
絢香は嬉しそうに口角を上げた。此間早苗先生から多くのアルバイトを掛け持ちしてるのを心配していたと聞いた。まあ確かに、働きすぎだ、って盂蘭盆の間は半ば強制的に休みを取らされるぐらいには働いている。でも色々と入用だからな。友人というより家族意識が強いからこそ、あまり心配はかけたく無いんだけど。
「それにしても、逸話、逸話ねぇ……。『紅い月夜の魔物』は有名ですもんね、教授」
「そうだね、私も聞いたことがあるよ」
カフェラテを飲みつつ、素知らぬ顔で師匠が返す。やっぱり、絢香も僕と同じ認識をしているみたいだった。この街の中でのみ、通じる常識。本来なら発見されることない、違和感。
「他にも何か、知っている話はないかい?」
「う〜ん、どうだったっけ……あ」
何かを思い出したように声を上げると、徐に視線を向けてくる。
「あの話は?」
「あの話って、いやどの話だ?」
「ほら、アレだよ。えーっと……」
喉まで出かかってるんだけどな、と唸る絢香の顔を、二人して見詰める。多分、言われたら分かるんだろうけど、逸話についてはどうにもキッカケが無いと意識しずらい。
待つこと数秒間、その状態で静止する。アイスカフェラテを味わって待っていると、ぴこん、と絢香の頭の上にビックリマークが浮かんだのを感じた。
「分かったぁ!」
「……で、どんな名前のヤツ?」
そう尋ねると、にっと軽く笑みを浮かべて絢香は口を開く。出てきたのはやっぱり、知っている話の名前だった。
「『イツツ杜の扉』って話――、確かあったよね?」