第15話 眠れない夜
今までにも、沢山居た。
『魔術を使ってみたくはないかい?』
『君は他とは違うんだ』
『アナタだけが、特別なのよ。だからこうして――』
身体の中でエコーするように聞こえる、今でも思い出せる。味方のフリして、よからぬことを企む敵は沢山居た。
でも結局、最後はいつも一緒だった。
『簡単に騙されちゃってさ』
『違うさ。使えないもんね、君』
『ああ、アナタは特別に出来損ないだものね』
誰も彼もが僕を嘲笑って。蔑んで、魔力のない、何も出来ない奴だと。
『我が弟子』
だけど、師匠が僕を呼ぶ声は。神秘を見せてくれたあの人は。
『ナナミ君?』
僕を呼ぶ声は柔らかく、穏やかだった。だからこそ、頭の片隅で警鐘が鳴り響いている。
『ナナミ君』
身を以て、知ってるだろうと。信頼なんてのは、容易く裏切られるものだと。
地獄への道は、見せかけの善意で舗装された一本道だ。気が付いた時にはもう遅い、なんてのは当たり前で、何度も早苗先生や家の皆に迷惑をかけてしまった。
「はぁー」
窓の外、薄い雲の切れ目から紅い月明かりが見える。時間はもう、十時か。明日も師匠の所には行くから、寝ないといけない。分かっている。
だけれど、どうにも目が冴えて。当分、眠れそうにないや。
仕方ない、もう少しやるべきことを片付けるか。
「……ん?」
聞こえる、コンコン、と控えめなノック音。夜更けだし、早苗先生だろうか。一つ伸びをして立ち上がって、音を立てないように静かに扉を開くと。
「っ!」
「や、七海」
「……絢香か」
自分の事ながら、驚愕が小声ながら滲んでいた。まさか絢香だとは思わなかったな。普段よりもラフな格好で、いつも結っている黒髪は下ろされている。まあそりゃそうか、もうよい子は寝る時間だし。
「どうした?」
「光が漏れてたの、見えたから。眠れないのかなって」
笑いながら、両手に持ったマグカップの内一つを差し出される。これは、ホットミルクか。わざわざ作ってくれたんだろう。慎重に、受け取る。
「ありがと。入りなよ」
「それじゃあ、お邪魔する」
部屋の灯りは、組み立て型机の上、白色灯デスクライトだけにしてたんだけどな。ホットミルクを零さないようにしつつ、部屋の隅から座布団をもう一つ、机を挟んで並べる。
「どぞ」
「ありがと」
あー、作業中だったから机いっぱいに紙やらノートやら、散らかってるから片付けないと。とりあえず寄せて、空いたスペースにマグカップを置く。紙を集めていると、その内一枚取って絢香が内容を見た。
「何……『魔術陣の使い方について』? 魔術学の復習?」
「ああ。夏休みもそろそろ終わるし、僕には必要なことだから」
持っていた紙も受け取って書類を纏め、机の下に置く。
まあ、復習ついでに師匠に明日出すための魔術学の勉強内容をまとめていたってのが実のところだ。今日の昼間のあの手記のこととか、色々考えてたら遅くなったけど。
「ほんと、アンタのそーゆーとこは尊敬するわ」
「そりゃドーモ」
「本心だよ?」
「わーってる」
マグカップを手に取って、傾けた。ホットミルクは熱すぎない温かさで、ちょっと甘くて、なんだかリラックスするような味だ。ちょっと、心が軽くなる感じがする。
「蜂蜜入り?」
「そだよ。よくわかったねー」
「まーな」
砂糖の甘さと蜂蜜の甘さはなんだかちょっと違うんだよな。ま、砂糖じゃなくて蜂蜜を入れてるのは、僕好みで良いセンスしてるわ。流石幼馴染。
ゆっくり味わっていると、じいっと向けられた視線がこそばゆい。
「いや、なんだよ?」
「……なんか、悩んでる?」
心配そうにじっと、目を合わせられる。伺うような目。昼間のあの言葉がフラッシュバックして、思わず目を逸らし窓の外を見た。
いや、気まずかったのもある。長い付き合いで気心が知れてるのはいいけど、その分知られたくないとこもお見通しで。加えてずばずば口に出すから良くない。ほんとに。
「……別に」
「あ、図星ね」
「んなわけ」
ちらり、と少し視線を戻す。当たり、とでも言いたげな悪戯っぽい笑みを浮かべてから、絢香はホットミルクを飲んだ。
「七海は悩むと眠れなくなる。でしょ?」
確かに、何回かこうして夜更けに絢香が訪れてきたことがあったな。んで大体お悩み相談会してたわ。
ズズズズ、とホットミルクを飲む。
「……うっさい」
「はいはい。んで、何に悩んでんの」
心底どうでもよさそうに聞くなよ。まあ、これが彼女なりの気遣いだってのは、分かってる。
「悩んでるってほどのことじゃない」
窓の外、月明かりを見る。そうだ。悩んでいる訳じゃない。
あの手記を読んだことで、気が付いた事実があるというだけで。
「……ただ」
「ただ?」
『壊れた神秘』の店主が斡旋した仕事だ。胡散臭いところもあるけど、信用に値する、探偵でありながらもどちらかといえば凄腕の魔術師だと思っていた。
思って、いた。
「人を信じるってのは、難しいなと思っただけ」
でも、手記を読んだ今。店主には悪いけれど、少し揺らいでいる。
よくよく考えてみれば、僕は師匠の仕事内容と、探偵であり魔術師であるということしか知っていないという、事実があるだけで。
師匠という存在は、何を目的に僕を弟子にしたのか。本当に信用に足る人物であるのだろうか、と。思ってしまった。
掛け値なしで、信頼することができない自分がいるだけで。
「なぁに、それ」
ふふっと笑みを零す音が聞こえる。黙ってホットミルクを飲んだ。
「アンタって、いつのまに修行僧になったんだっけ?」
思わずホットミルクを吹きそうになった。うん、こーゆーところが絢香のアレなところだ。
「……喧嘩売ってるんだな? いいぞ表に出ようか」
「冗談に決まってるでしょーが」
「こっちの台詞だ」
「あっそーですか」
「あっそーですよ」
それきり、絢香は静かになって。
ごおおお、と扇風機が回る音と、遠くで蝉の鳴いている声が聞こえる。
心地いい沈黙が続いて。
次に口を開いたのは絢香。
「まあ、さ」
「何」
「信じられるものを信じればいいと思うよ?」
信じられるものを、信じる、か。
信じたいものじゃなくて、信じられるものを信じるってのは良いかもしれない。
「ま、言うのは簡単なんだよな」
「とか何とか言いつつ、勝手に信じちゃうのが七海でしょ」
「……どういう意味さ、それ」
「……なんていうかな。ただ信じるっていうより、信念に従って信頼を寄せる、みたいな?」
「なんじゃそら」
本人も言っててよく分からないって顔してるな。聞いてても全然分からないけれど。
「大丈夫だよ、例え何があっても」
声色の変化に視線を向けると、そこにはちょっと普段と違った――なんというか、決意に溢れた笑顔がそこにはあった。
「私はアンタの味方だからさ」
ね、という何故か有無を言わせないぞという顔に、自然と笑みが溢れる。
何だかんだ言いながら、結局は幼馴染で大切な家族な絢香が、一番の理解者には違いない。
「……イケメンだな」
「そりゃあもう」
にいっとした僕みたいな笑い方をして、自慢げで加えてご満悦だ。
「愛しの教授殿には負けるけど、七海よりはよっぽどイケメンですよーだ」
「師匠は関係ねーだろーよぉ」
ココで師匠を出してくるあたり意地が悪いというか何というか。いや違うな、僕の胸中なんて知らないからこその言葉、か。
「でも、まあ」
ごくり、と最後の一滴までホットミルクを飲み干す。ほんのりとした蜂蜜の甘さが口の中に残った。
「お蔭さまでよく眠れそうだ」
「そりゃ良かった」
非常に不服ではあるが、悩みっぽいものがあると眠れなくなるのは本当らしい。ホットミルクを飲んだってのもあって、不思議と目が冴えることなく良い感じに眠くなってきたし。
あー、欠伸も出てきた。
「それじゃ、私は部屋に戻って寝るよ」
立ち上がった絢香に合わせて、立ち上がる。蜂蜜入りだったし、流石に歯磨きしてから寝ないと……。
「ホットミルク、ご馳走さん」
「どーいたしまして」
「片付けとくよ」
「さんきゅー。じゃ、おやすみー」
「おやすみ……ふぁ」
マグカップを両手に、欠伸を噛み殺した。
心は、決まった。
「ありがとな、絢香」
部屋を出る後ろ姿に言っても、返事はない。ま、調子に乗らないように小声で言ったからだけどさ――。
* * * *
あの手記を書いた誰かは、御影と思われる街に対して迷い込んだと称した。
僕の師匠となった魔術師は、御影市へと依頼によって引っ越してきた。
共通しているのは、逸話の調査をしていること。
明らかに違うのは、偶発的か計画的か。
普通に見えて異常。逸話の存在意義。魔術学で習った知識の穴。作為的で杜撰な手記の妨害。
事象が発生するのには理由がある。それが何かは分からないけれど……師匠の依頼と少なからず繋がりがあって、神秘が関わっている以上僕一人ではたどり着けない理由なのは確かだろう。
だけれど、心は決まった。僕は僕の信じられるものを、信じる。
あの手記の筆者も、師匠についても、その素性の仔細なんて全然知らないけれど。
多言語力と。魔術の腕と。
信頼を含んだあの――僕を呼ぶ声は信じられると思った。
「ん」
少しだけ冷えた風が通り抜けて、髪型が乱れる。今日は天気が下り坂だと早苗先生が言ってたから、冷たい空気が流れ込んで来てるのか。どうりで昨日より汗をかいていない訳だ。
時折雲が、陽射しを陰らせる。帰るまでに雨が降らないといいんだけど。
インターホンを押すと、聞き慣れたベルの音が聞こえる。
「ナナミ君かな?」
扉を開きながら聞こえた言葉。目が合うと、ふっとその青い瞳が、表情が綻ぶ。
「はい、おはようございます。師匠」
「おはよう、我が弟子。さあどうぞ」
優雅に亜麻色の長髪を揺らしながら、中へと誘致をする。靴を脱ぐことなく入ったその中で、ふわふわと浮遊する魔力の玉。ゆったりと明滅をしている。
「今日はね、アールグレイを淹れてみたんだ」
「いつも有難うございます」
「うん。自信作だから、よーく味わっておくれよ」
「勿論!」
師匠の紅茶、本当に美味しいんだよな。今日も今日とて楽しみなんだ。
いつもの応接間に、昨日と同じように向かい合って座る。ローテーブルの上には、昨日とは別の絵柄のティーセットが置かれていた。お茶請けはボックスクッキーで、毎度ながら好待遇過ぎる。
「じゃ、味見をしてもらえるかな?」
ティーポットから注がれるアールグレイの良い香り。頷きで返して、差し出されたティーカップを手に取る。
「頂きます」
カップを近づけると、柑橘類の爽やかな香りが強くなる。縁に口付け、一口。
「……美味しい」
昨日のダージリンとはまた違った味付けで、まろやかっていうか、苦味が少ない感じだ。柑橘系の香りが鼻にスッと通って、僕はこっちの方が好きかな。
「ふふふ、今までの中でこれが一番ナナミ君の反応がいいね」
「どういうことですかソレ……」
「美味しそうに飲む度合い、かな」
真意の見えない笑みを浮かべる師匠。どうにもはぐらかされてるけれど、今に始まったことじゃない、か。
「そーですかー」
本題に入ろう。肩掛け鞄の中からファイルを取り出して、師匠へと差し出す。
「おや、これは」
「昨日言っていた、魔術学の授業で習った内容一覧です。とりあえずまとめてみました」
「有難う。早速見てみるよ」
受け取ると、ファイルから紙の束が取り出された。小学校から高校の今に至るまでの魔術学の内容をまとめていたら、紙が七枚分になってしまった。改めて、沢山のことを学んでたんだなと思わされる。
「あの、師匠」
「なんだい?」
書類から視線を上げた師匠を、しっかりと見つめる。息を吸って。
「……よろしく、お願いします」
「嗚呼、――勿論だとも!」
一拍おいて、花が咲くように笑った師匠。つられて、僕の口の端も上がった。




