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月の蘇る-5-  作者: 蜻蛉
第三十一話 永遠
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 手習は簡単な漢字へと進んでいた。

 春音はかなり正確に横に書かれた手本を書き写す事が出来るようになっていた。最初は書けなかった『あ』の字も、今は難なく書く事が出来る。

 その手本を書く龍晶の筆も震えが止まっていた。ここ数日、かなり調子が良い。自他共に驚く程に。

 薬を飲まずとも熱が無い。ほぼ寝たきりだった身も、庭を歩ける程になった。

「悪い所は全部鵬岷が持って帰ってくれたんじゃねえの?」

 冗談に朔夜は言う。だが本当にそうなのだ。鵬岷と別れてから病は軽くなった。

「気が楽になったのかもな。あいつに言うべき事は言ったから」

 龍晶はそう応えながら筆を動かした。

 『龍起』、と。

「とーと、これなんてよむの?」

 突然難しい漢字が現れて春音は首を捻っている。

「リュウキ、これがお前の名だよ」

「しゅんおんじゃないの?」

「それは子供の間だけ。お前が俺の子として名乗るのは、この龍起という名前だ」

「ふうん…」

 分かったような、分からないような。

 龍晶は己の名を横に書いた。

「分かるか?この龍の字は同じだ。俺の父も、この龍の字を持っていた。その父も、またその父も」

「みんなおんなじ?」

「そう、同じ。戔王家の証だ」

「みんなおうさまなんだね」

 素朴な感想に父は黙り込んだ。

 本来、龍は王となる者の証。王家の全員に付けられる名ではない。

「…済まん」

 幼い息子に頭を下げる。

「とーと?」

「王となれぬ恨みは俺に向けてくれ。他の誰も恨まずに」

 まだ今は意味が分からないだろう。だがそのうち、必ず持つであろう恨みだ。

「お前は恨んでなかったろ」

 朔夜の声。

「王になれないからって、お前は兄貴すら恨めなかった。ましてや両親にもさ。そもそもお前は王位すら望んでいなかっただろ?」

「俺には分不相応だと分かっていたから」

「いや、お前は望むべきじゃないって自分に言い聞かせてたんだ。それで誰かを犠牲に出来ないから」

 横目に友を見る。この友に言われた。俺はお前に王様になって欲しいな、と。

 あの時は有り得ないと思って聞いたが。

「春音は賢いから、お前と同じ事を思うんじゃないか?恨みなんてしないよ。寧ろ…」

 澄んだ大きな目を見ながら。

「王になりたいと願うなら、その(すべ)を探し出して実行すると思う」

 龍晶は苦笑して返した。

「妙な事を吹き込むなよ」

「妙じゃないよ。なあ春音、お前は父さんのようになりたいよな?」

「うん!」

 迷いの無い返事。父は苦い顔をしている。

「頼むから俺のようにはならせるな」

「お前ほどの苦労をするとは思わないけどさ」

 表情を明るくして続ける。

「このまま病が治れば苦労させる事も無いだろ。お前はお前の思うようにこいつを育てりゃ良いんだから」

「たまたま熱が下がってるからって楽観し過ぎだろ、それは」

「楽観する方が病は良く治るもんだぜ?」

「道理で俺は治すのが下手な訳だ」

 冗談に丸め込みながら、また筆を動かす。

 『戔』。

「これはなーに?」

「俺達のふるさとだよ」

 空の彼方に目をやりながら。

「お前と俺が帰る場所だ」


 庭で砂遊びをする春音を縁側から見ている。

 最近は道場に入り浸っている波瑠沙が帰って来て、ちょっと笑って声を掛けた。

「調子良さそうだから、明日は朔を借りて行って良いか?」

 朔夜が近頃あまり道場に行かず波瑠沙に任せているのは、自分の調子が悪かったせいだと薄々察してはいた。

 今ならもう大丈夫だろう。尻を叩いて仕事をさせるべきだ。

「当然だ。首根っこ捕まえて連れて行ってやれ」

「分かった。今どこ?」

「畑じゃないか?芋掘りするって言ってた」

「坊ちゃんも庭じゃなくて畑を掘れば良いんじゃねえの?そこじゃ何も出て来ないだろ」

 確かに、と苦笑いして頼む。

「連れて行ってやってくれ」

「了解。ほら春音、どうせ地面掘るなら芋を掘り当てるぞ」

「うん!おいも!」

 長屋の裏へ声は遠退く。

 静かな秋の日。

 隣の長屋から華耶と十和が糸を繰りながら話し笑う声が微かに聞こえる。

 ふと、隣に人の気配が現れた。

佐亥(サイ)…」

 彼は隣に座って微笑んだ。

「良き日ですね、龍晶様」

 うん、と素直に頷く。

 暑くもなく、寒くもない。優しい秋風に花が揺れる、そんな日。

「あなた様も、良き人となられましたね」

「そう思うか?」

「ええ。祥朗共々、立派な大人になってくれて、私は報われました」

「そう言ってくれると嬉しいよ」

 赤蜻蛉が立てた膝の上に留まった。

 これを捕まえる術を、昔この人に教わった。

 そっと羽を摘み、顔の前に翳して笑って見せて。

 放って、空へと飛ばす。

 青い空に赤が映える。

「母上様もお喜びです」

「本当か?」

「はい。近く、お迎えに来られますよ」

 秋空が滲んで、微笑む頬に雨が落ちた。

「心よりお待ちしている…けど、どうかゆっくり来て頂きたいと、伝えてくれ」

「分かりました。お伝え致します」

 気配は消えた。

 一人、泣きながら。

 蜻蛉の行き交う秋空の向こうに居る、あれだけ会いたかった人の面影が描けなかった。


「華耶、俺はいい加減これを返さなきゃと思うんだ」

 その晩の閨で龍晶は妻に右手首を見せながら言った。

 苴に行く前に彼女が括ってくれた組紐。お守りに、と。

「どうして?良いよ、持っておいてくれたら」

「でもこれは、お前と朔夜の思い出の品だろ?俺がずっと持ってるのは筋が違う」

「そうかなあ?」

「お前のが似合うし。括ってやるよ」

 右手首から解いて貰い、華耶の髪へ(ゆわ)える。

 朔夜の髪も同じ紐で括ってある。ずっと二人がこうしてきたものだ。

「ありがとう、仲春。でも本当に、朔夜とあなたのものにしても良いんだよ?」

「どうして俺があいつとお揃いで喜ばなきゃならない」

「またそんな事言って。素直じゃないんだから」

 笑って。紐を括り終えた手を、彼女の肩に回す。

 首筋に鼻を押し付ける。愛しい匂いを胸いっぱいに嗅いで。

「久しぶりだね」

 華耶は言いながら帯を解いた。

 露わになった胸へと手を伸ばしながら。

「前は死ぬ気で抱いてたけどさ」

 くすっと笑った息は、続いて嬌声となった。

 吐息の合間で彼女は問う。

「今は生きる気って事だよね?」

「うん…次いつこんな奇跡のような日があるか分からないし」

「無理しないでね」

「大丈夫」

 腕の中で彼女は身を捩り、正面に向き直る。

 確かめ合うように口付けを交わして。

 そうしながら彼女の手は夫の服を脱がして、二人を隔てるものを無くした。

 ここまで来るのに要した長い時間。

 それは全て、愛しい時間。

 過去にしてしまいたくなかった。

 ずっと続いて。

 貴女の中で。

「仲春」

 細い彼の指で上り詰める、激しい息の中で。

「ごめんね…私だけ幸せになって。あなたに失わせながら、私だけ…」

「そんな事無いから」

 一際高い声を上げさせた後、優しくその体を抱き留める。

「必要な物だけが俺に残ったんだ。今ここにある皆が俺に必要だったもの。あとは、手放して良かった。もう後悔してない」

「ほんと…?」

 うん、と肩の上の顎を引いて。

 背中に回した腕に力を込める。

「ありがとう、華耶。幸せな一年だった。全て華耶のお陰だ」

「ううん…。でもそれは、ちょっとだけ嘘でしょ?」

「ん?」

「ここがあなたの故郷だったら良かった」

「そうだけど…。もう良いや、そのくらいの事は」

 頭を起こして頬を擦り寄せる。

「あなたの居る場所が、俺の帰る場所」

 いつかの朔夜の受け売りだけど。

 これ以上ぴったりな言葉が無くて。

「最期の頼みを聞いてくれる?」

 身を引いて顔を見合わせる。彼女の目が驚いている。

 生きると思わせていたから。それが申し訳なくて、泣きたいのを堪えて。

「少しでも良い。骨は北州に連れて帰って。母や祖父と同じ場所に埋めて欲しい」

「…やっぱり帰りたいんだね」

「こんな国に置いて行かれたくない。あの場所が故郷だと思ってるし。…でも」

 堪え切れずに落ちる雫は、彼女の肌に吸い込まれる。

「必ずまた貴女の元に帰る。生まれ変わって、また、必ず」

 もう一度、固く固く抱き締め合う。

 彼女の涙が背中に伝う。

「待ってる。ずっと、待ってるから」

 頷く。それもまた罪なのかも知れないけれど。

 永遠の時の中で、またもう一度巡り会える。

 そう信じている。心から。

「ここまで俺を捨てないでいてくれて、ありがとう。華耶…愛してる」

「私の方こそ。愛しています。ずっと、永遠に、あなただけを」

 小さく首を横に振った。

「俺の為を思うなら、誰とでも良い。また幸せになって。俺があげられなかった分も、誰かに貰ってくれたら…俺はその方が嬉しい」

「そういう人が居たら、それはきっと生まれ変わった仲春なんだよね?」

「うん…そうだと良いな」

「分かった。そうやって探すね、あなたの事」

 ふっと笑い合って。

 抱き合ったまま、褥の中に倒れる。

 まだ続く温度を感じながら、眠った。


 朔夜は渋々な表情を僅かに滲ませながら、でも愛する波瑠沙には逆らえない。それは怖いから、ではなく。多分。

「ったくもう、お前にずっと付き纏われる俺の気にもなれ。少しは離れろ。行って来い」

「行くし!そんな事言われなくても行ってくるっての!」

 ムキになって言い返す顔を見たら、どうしても言いたくなる。

「餓鬼」

「そっちこそ」

 笑いたい口をわざと不機嫌に曲げて。

「波瑠沙、この糞餓鬼とっつかまえて連れて行ってくれ」

「はいはい。しょうがねーお二人だな、全く」

 文字通り首根っこを掴まれた朔夜が喚きながら遠ざかっていく。

 やっと我慢していた分を笑って、その姿が消えるまで見ていた。

 消えてしまうと、縁側に座って、手で目元を覆った。

 思い出したい事がいっぱいある。

 初めて罵り合ったあの日から。やっぱり餓鬼の一言で始まった。

「本当は一緒に居たい癖に」

 笑いながら華耶が横に茶を出した。

「もう十分だって」

「嘘だあ。あなたが朔夜を大好きなの、知ってるもん」

 苦笑が照れ笑いになって、隠すように湯呑みに口を付ける。

「とーとはさく、すきー」

 春音にも言われてしまって、いよいよ湯呑みが離せなくなる。

 膝によじ登ってきた体を湯呑みを置いた手で支えて言った。

「俺が好きなのは春音だよ」

「うん!しゅんおんもとーとがすき!」

 笑って。でも切なくて。

 これで良いんだろうか。後で辛くならないだろうか。こんな事なら知らないで居た方が良かったって、そう思わせるのでは。

 いくら考えたって、優しい失わせ方が思い付かない。

 そんなもん無いって、そう言われるんだろうけど。

「俺はずっとお前のそばに居るからな。お前が大人になるまでは」

 多分、母も、そうだったのかも知れない。

「見えなくても、そばに居るから。忘れるなよ?辛い時はどうにかして助けてやるから、父を呼ぶんだぞ?」

「とーと、たすけてーって?」

「ああ。そう言ったら、いつでも助けてやる」

「しゅんおんもとーとをたすけるよ」

「優しいな、お前は。ありがとう」

 華耶も横で微笑む。

 もう一つ、大事な事。

「母さんの事も助けてやれよ?お前が頼りだ」

「うん!たすけるよ!」

「これなら安心だ」

 夫婦顔を見合わせて笑う。

 戻した視線の先に。

 人影を見た。

「…華耶」

 穏やかな笑みのまま。

「この子と隣に行っててくれ。祥朗を道場に走らせて…朔夜を呼んでくれるか?」

 我が子を抱きしめて、妻に差し出す。

「頼む」

 華耶は顔色を変えて頷いた。

 二人の姿は中へと消えた。代わりに庭先に現れたのは。

珠音(シュオン)…来たか」

 その存在そのものが刃のようになった少年は、ゆっくりと頷いた。

「よく来たな。待っていた」

「殺されるのを?」

「ああ。それでお前が救われるのを」

 一歩一歩近寄りながら、殺意を込めた目で見返される。

「でも、済まないが、命まで救われるとは思わないでくれ」

「何を…今更」

「ああ、そうだな。本当は生きて欲しかったんだが」

 目前まで来て、少年は短刀を抜いた。

藩庸(ハンヨウ)様の恨み、その身に受けるが良い」

 龍晶は頷いた。

 朔夜の声が耳朶に蘇る。

 あれは俺だった、と。

 思わず微笑む。

 やっと、お前に殺して貰える。

「仲春…!」

 華耶の悲痛な叫びを聞いた。

 刃は胸を貫いた筈なのだが、即死ではなかった。

 駆け付けた燕雷が珠音の手を捻り上げていた。お陰で少し逸れたのかも知れない。

 だけど、もう。

 もう良い。もう、十分。

 充分生きた。幸せだった。

「待って…待ってよ仲春!朔夜が来るから、それまで…」

 華耶の顔。隣に春音。こうして看取って貰える程の人間か?俺は。

 罪を犯して幾度も重ねた、その罰を受けたのに。こんなに幸せで良い筈無いだろ。

『そうだ。お前は地獄に行くべき人間だからな』

 兄は、元の人間らしい彼に戻っていた。

『でも、約束は約束だ』

 彼が振り返り、消えた。その同じ場所に。

 会いたかった、ずっと会いたくて身を削っても痛みも感じなかった、その人が。

 迎えに来てくれた。

『よく、頑張りましたね。あなたは私の誇りです。自慢の宝珠です』

「母上…」

 仲春、と呼ぶ声は。

 どちらの愛しい人のものだったか。

「龍晶!」

 叫ぶ声が頭を少し現実へと引き戻した。

「待てよ!治すから!もう少し耐えろ!」

 傷口に手が触れる。

 その手に、手を重ねて。

「朔夜」

 大好きな間抜け(づら)を笑って。

「またな」

 目を、閉じた。




  挿絵(By みてみん)

最終部へ続く

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