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月の蘇る-5-  作者: 蜻蛉
第三十一話 永遠
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8

 夏空に軽快な金属音が響き渡る。

 長屋の庭で朔夜と波瑠沙が打ち合っていた。手にはいつもの得物ではなく、一般的な刀が握られている。

 道場に教えに行くようになって、互いに得物で付いた癖を修正すべくこうして打ち合うようになった。理由はともかく、楽しいからやりたいだけだ。

 ただし有益ではある。朔夜はつい片手で扱おうとして力負けするし、波瑠沙は力で押そうとするから隙が出来やすい。

 そういう欠点を確かめながら補強するには持って来いだった。互いの短所と長所が噛み合う二人だから余計に。

 そういう友人達を龍晶が寝ながら見ている。暑さは暑さで体力を奪う。夏に入ってから起き上がるのも辛くなった。

「とーと、うりたべよー」

 春音が両手に切られた真桑瓜を持ってやって来た。その後ろから華耶が盆に同じものを盛って続く。

「朔夜、波瑠沙さん、瓜を切ったから食べよ」

 庭に声を掛けて二人の動きを止める。

 龍晶は春音の為にどうにか怠い体を起こした。食欲こそ無いが、全て息子の為。

「どーぞ」

「ありがとう」

 得意げな幼い顔が可愛い。近頃また一段と自分に似てきた。そう自認せざるを得ない程に。

 華耶に言わせれば何気無い仕草が全く同じなのだそうだ。時々笑われる。また同じ事してる、と。

 親子の絆は血縁を超え始めた。これだけ互いにくっついているのだから当然にも思えてくる。

「あっちー」

 朔夜が顔を顰めながら縁側にやって来た。瓜に手を伸ばす前に衣を寛げて汗の落ちる上半身を晒す。何ヶ月も動けなかった一年前と比べれば、歴然として肉付きが良くなった。

「あっ、狡い。お前だけ」

 波瑠沙の不満の声ににっと笑う。少しむっとした顔をして、彼女も袂を緩めて袖を外した。

「えっ、いや、待っ…」

 動揺したのは寧ろ朔夜だけだった。龍晶はと言えば当たり前のようにすんとして瓜を口に運んでいる。当然だがその隣の春音もだ。

「水風呂でも用意しておこうか?」

 気を遣った華耶の問いに、波瑠沙は裸の肩を竦めた。

「いいよいいよ。自分らでやるから。こいつに力仕事させないと細っこい腕が治らない」

「そんな事無いよ。だいぶ太くなったって。ほら」

 差し出した二の腕の横に波瑠沙の腕が並ぶ。

 こうして比べると負ける。

「まだ子供みたいな腕しやがって」

 むー、と膨れて瓜に手を伸ばした。

 甘い水分が口いっぱいに広がると、一瞬暑さを忘れる。

 畑に植えていたものだ。道場の仕事をしながら畑仕事もしているのだから、もう少し筋肉が付いても良さそうなのにと自分の体に恨み言を言いたくなる。

「朔夜は元々が細いから、仕方ないよねえ」

 苦笑しながら華耶が言った。

 その間に龍晶は瓜を食べ終えて、再び体を横たえる。その隣にちゃっかり春音が並んで寝転がる。

「とーと、しんどい?」

 小さな手が額を触る。こうするものだとすっかり覚えている。

 微熱は慢性化していた。それに伴って頭痛も。薬の飲めばそれらを忘れて眠れていたものが、効かない日が増えてきた。

 加えて咳の発作も増えた。こうして春音が隣に居るとそれが怖い。少しでも気休めになるよう、口元に自分の腕を乗せて袖で覆った。

 そうしていると意識が朦朧としてくる。暑い筈なのに、横にくっつく春音の体温が眠気を誘う。

「あ、誰か来た!」

 朔夜の声が意識を戻した。

「早く!上着て!」

 波瑠沙を必死に促している。流石に全くの他人に裸を晒させる訳にはいかない。

 対して当人はのんびりと言った。

「良いじゃん別に。減るもんじゃないし」

「じゃあ風呂!風呂行こう!な!」

「しょうがないなあ。そういう所は相変わらずだよな朔ちゃん」

「早く早く!」

 奥へ引っ込む足音と、庭から聞こえる複数の足音。

「誰だろう」

 華耶が立ち上がった。

 薄く目を開ける。お腹いっぱいで満足した春音は隣ですやすやと寝ている。

「失礼致します。戔より参りました、要馬と申します。龍晶様の薬を師より預かって参りました」

 あいつか、とぼんやり思う。

「どうぞ、お上がり下さい。皆さんも」

 一人ではない。それは気配で分かっていたが。

 何故。薬を持って来ただけではないのか。

 要馬が枕元まで近付いてきて、そこに座った。

 龍晶は見るともなく男の顔を見上げる。一度は憎み、一度は己の命を救った男だ。

「お久しぶりです。龍晶様」

 返事を返す息が惜しかった。ただぼんやりと見上げるだけ。

「脈を取らせて頂いても?」

 空白を埋めるように男は訊いた。矢張り医者である。

 龍晶は自ら腕を差し出した。

 まるで触れれば壊れる繊細な細工を扱うかのように腕を支えられる。先刻の朔夜達の話ではないが、もうこの腕は肉という肉を失って骨の形を露わにしていた。

 要馬は暫く黙って脈動に集中し、それを終えてそっと褥の上に腕を戻すと、失礼致しますと言いながら今度は額に触れた。

「熱がお有りですね。薬は?」

 茶を出して横に座った華耶が答えた。

「祥朗の煎じてくれるものを毎日飲んでいます。でも近頃効きが悪くなって」

「この体が悪くなっているせいだ」

 やっと龍晶は口を利いた。祥朗のせいだと聞かせたくなかった。

 落ち着き払って要馬は言った。

「師の指示で新たな薬をお持ちしました。これを飲めば熱も下がりましょう。祥朗にお渡し下さい」

「分かりました。今あの子は里に出ていて。帰って来たらすぐに煎じて貰います」

 華耶が受け取りながら言った。

「先生は?」

 龍晶は問うた。どうしてこの男が来たのか。冬には二人で来ていたのに。

「伏せっております」

「何故…!?」

 要馬は初めて相貌を崩した。何ともやりきれない、悔しげな表情。

「王府は救民街の支援を打ち切りました。それどころか、生活の為に皆が働いて作った作物にさえ税を課し始めたのです」

「そんな…」

 声を出したのは華耶だった。龍晶は黙して聞いている。

 そうなるだろうとは思っていた。

 あの街を支援していたのは龍晶自身の勝手な事情からだ。今の王府がそれを続ける訳が無い。

 だがそうと予測していながらどうする事も出来ずにここに居る。あの街を見殺しにするように。

「師は王府に改善を求め何度も掛け合いましたが、取り合われず…疲労から倒れてしまって」

 龍晶が唇を噛むのは、恩人を自ら追い詰めてしまった嫌悪からだ。

 結局、恩を仇で返す事しか出来ない。

「龍晶様、お願いです。戔を元の姿に戻して下さい」

 要馬が手をついて頭を下げた。そうしながら続けた。

「ここに集う者は志を同じくした仲間です。あなたが立てば皆ついて行きます。国にはまだ多くの仲間が居ます。皆願いは一つです。再びあなたが王となる戔を取り戻したい」

 きつく目を閉じる。

 見たくない。何も。

 故国の惨状も、彼らの切実な願いも。

 叶えてやれない己の体も。

「お前なら判るだろ。この身がもう立てない事は」

「そんな事はありません!」

 要馬は叫んだ。この男は分かっている。

 それが可能か否かを判断しに来たのだろう。

 そして結論は考えていた以上にはっきりと出てしまっているのではないか。だがそれを否定したくて。

 春音が驚いて目を覚まし、泣きだした。

 華耶が手を出そうとしたが、それを許さず自らの手で息子を腕の中に包んだ。

「…帰ってくれ。怖がってる」

「龍晶様…!?あなたは戔を見捨てるような方では無かった筈だ…!」

「俺の何を見てたんだよ、お前」

 春音の頭越しに、乾いた目で恩人を睨む。

「何もかも捨てて川に飛び込んだのも知ってるのに?都の民を憎んでいた俺も知っているだろう?お前達が期待する王など、ただの幻想だ」

「お止め下さい、そんな事は…」

「今はただ妻子の為だけに生きていたい。どうせ近く息絶える身だ。お前達の勝手な期待に沿える事は絶対に無い。帰れ。戦うのなら、自分達で立ち上がれ」

 要馬は後ろに身を退いた。

 まだ立ち上がる気にはならず、縋るように龍晶へ視線を置いたまま。

 表情を柔らかくして龍晶は最後に言った。

「ここまで来てくれた礼に、王府へは物を言おう。どうせ握り潰されるだろうが、何もしないよりマシだ。どうか先生によろしく。もう無理をするなと伝えてくれ」

 要馬はもう一度深々と頭を下げ、ぱっと立ち上がった。

 仲間らを促し、長屋を辞していく。

「泣くな、春音。あいつらは帰ったぞ」

 まだぐずっている子を撫でると、小さな手が首に回された。

「とーと、とおくいかない?」

 問いに面食らう。目を見開いて、思わず華耶を見て。

「行かないよね?」

 華耶にも念押しに問われた。

「ああ。…ずっと、ここに居る」

 行きたくとも行けない。

 次に行ける場所は、もっと、もっと遥か遠く。


 新しい薬は確かによく効いた。

 床から抜け出し、縁側で夏の夜の月を見上げながら、故国へ送るべき言葉を考えている。

 傍らでは祥朗が文机に向かっていた。代筆を頼むとしたら彼しか居ない。

 懐に座って一緒に月を眺めていた春音は、いつの間にか寝息をたてていた。

「俺は薄情な人間だろうか」

 祥朗に問う。当然彼は首を横に振った。

 昼間の出来事は全て話した。

「お前も知ってる癖に」

 呆れた笑いを向けて言う。この弟もまた、己の非情さを見てきている。

「俺は何もかも捨てた。母の希望をも。捨てて、一人だけこうして平安の中で生き永らえてる。皆が苦しむのを分かっていながら」

 月の光が滲む。まだ迷っている。

 この身が動けば行けた。行っていた。何も迷わず。

 韋星は直接彼らには会わなかったが、何か察して見張りを厳しくした。庭には今も彼の手下が立っている。

 自由は無い。分かりきっていた事だが、突き付けられると苦しかった。

 今書こうとしている書状だって。

 恐らく灌と戔でそれぞれ検閲されるだろう。それが政に口を出す内容だと判れば握り潰されるのは明白だ。例え一つの街を救って欲しいという小さな願いであっても。

 そう考えれば王になる前よりも無力となった。あの頃は力が無いなりに、自分に出来る事は出来ていた。

 祥朗と共に実際に街へと行って、人々と話をし、どうにか物品を調達して運んでいた日々。

 全て、母の笑顔が見たいが為に。

 思い返すと、辿り着いたこの場所が余りに虚しく思える。

 否。

 腕の中の小さな温もりに目を落として。

 今の全ては、ここに。

「お前の子はいつ産まれる?」

 弟に訊いた。

 もうすぐの筈です、と彼は答えた。

「そうか。早く会いたいものだな」

 名を付けて下さい、そう言われた。

 ゆるゆると息を吐きながら月を見上げる。

 無茶に振り回してきた弟の願いを叶えてやるとしたら、それは造作も無い事だ。

 最期に彼に贈れるもの。

「分かった。その子の顔を見て考えてみよう」

 まだ男女も分からない。全ては産まれてからだ。

 間に合えば良いが。

「このくらい小さかったお前も親になるんだな」

 例えは腕の中の春音へ。ちょうど初めて出会った祥朗も三歳だった。

『兄様と母上のお陰です』

 音の無い声で彼は返した。

「俺は役割を果たせたんだろうか」

 怪訝な顔を傾けて問われる。龍晶は言い直した。

「母に言われた。俺はこの子の言葉となるように、と。何も持たざるお前に全てを与えよ、と…。兄として、王として、持たざる民に与えよと、母はそう言った」

 だから、少年時代どんなに己自身が失おうともその歩みを止められなかった。

 持たざる人へ、己を分け与える。

 必死に。ただ、母の言葉に近付きたくて。

『母上は後悔しているかも知れません』

 意外なことを祥朗が言った。

 目を見開いてその口の動きを注視する。

『兄様はその言葉に忠実になり過ぎて、御自分を損なう事まで良しとしてしまった。その姿を見て苦しんでいたのは母上も同じでしょう。だから、言わねば良かったと…そう考えているに違いありません』

 思わず目を逸らした。

 俯けば、我が子の寝顔に行き当たる。

 だから嫌でも理解出来る。

 この子に同じ事が言えるかと問われれば、無理だ。己を削って他者を助けろなんて、口が裂けても言いたくない。

 自分勝手に生きて欲しい。全てを持ったまま、ただ笑って、幸せに。

 だけどそれでは与えられない幸せもあるのが現実で。

 それがこの手の中の温もりなのだろう。

 悪いのは、加減を知らなかった己だ。

「済まなかった。お前の苦しみまで考えられなかった俺が浅はかだった」

「兄様」

 掠れていたが、確かにそれは声だった。

 驚いて振り返る。

 その声を聞かねば、俯いたままで終わる所だった。

「共に子供時代を過ごせて、僕は幸せでした」

 微かに震えていた口元に、笑みが灯った。

 与えてやれた。取り戻してやれた。その証がこの声だ。

「俺もだよ、祥朗」

 突如現れた小さな弟をどう扱おうか悩んでいた日も。

 長じても声の無い事に戸惑い苛立っていた日も。

 全てが暗転して、この弟を貧民街に置いて去ったあの日も。

 城の中を彷徨った挙句、厩の中で行き倒れて佐亥に救われたあの日も。

 二人で居たから幸せだった。今ならそう言える。

「なあ…俺の子供達を託して良いか?何かあったら診てやって欲しいんだ。お前より頼れる医師は居ないから」

「有難きお言葉です。しかし、鵬岷陛下は私が触れる事も許されますまい」

「いや…。あいつも今後どうなるか分からない」

 驚く目で見返される。龍晶は小さく頷いた。

「俺と同じように落ちぶれて行き倒れるような事があれば、拾ってやってくれ」

 祥朗は深く頷いた。同じ経験をしてきたからこそ、それは有り得ると。

 そしてそれこそが母と兄に報いる瞬間なのだと、祥朗は知っている。

 勿論、そんな事態にならない事をまず何よりも願うのだが。

「いい加減、あいつへの書状を作るか」

 白紙のままの紙に祥朗は向き合った。

 伝える事は一つだった。

 最期に会いに来て欲しい、と。

 それだけならば握り潰される事は無いだろう。そして鵬岷は必ず来る。

 言うべき事は、直接言うのみだ。

 足枷を嵌められ、手の自由をも奪われていても、叫び吠える口はまだ残っている。


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