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月の蘇る-5-  作者: 蜻蛉
第三十一話 永遠
67/72

5

 冬の寒さは矢張り病状を悪化させた。

 灌の冬が厳しい事は嫌と言うほど知っている。救いはここが地下牢では無い事だ。

 巡宗の手によって室内に囲炉裏が作られた。これで部屋の空気を温める事が出来る。

 また、桧釐の仕送りで生活は随分楽になった。綿を買い込んで、華耶は厚めの布団を作った。

 祥朗には薬代を遠慮無く支払える。それで彼は高価な薬を仕入れ、兄に飲ませた。

 そうやって皆に生かされながら、龍晶は床から動けずに居る。

 もう何日も寝込んでいた。高熱は薬無しには下がらず、目を開けば視界が歪む。

 布団の脇で春音が遊んでいる。

 枕元に転がってきた鞠を、布団から手を出して押し返してやる。それを受け取って、小さな手を差し出して父の額を触る。

「あっちーね」

 大人の真似をしているのだ。皆が同じ事をするから覚えた。

「熱いか?春音」

 横から朔夜が笑って問い返した。

「あっち。とーと、あっちー」

 意味が分かっているのかいないのか、彼なりに真剣に説明している。

「そうかあ。早く元気になれって言ってやって」

「げんきなれー」

「上出来」

 褒めて、盥の水で冷やした布を額に乗せてやる。

 女達は里に出ている。買い出しと、研いだ刃物の返却だ。もうすぐ道が雪に閉ざされそうなので、暫く籠もれるように支度をせねばならない。

「治るとは思えないが」

 苦しげな息の合間に龍晶は呟いた。

「まーたそんな事言って。治らなくてもまずは熱を下げろよ。肝心なのはこの冬を乗り越える事だって、祥朗も言ってたろ?」

「それってつまり、冬の間は危ないって事だろ」

「これだけぬくぬくしてたら冬も何も無えよ。弱気になるなって。それが悪化の元だ。なあ春音?」

「とーと、げんき」

「ほらあ。春音も言ってるぞ?」

 頷いたが、咳込みが始まって口元を手で覆った。

 朔夜はまず即座に春音を抱え上げて隣の部屋に離した。病を感染してはいけない。

「祥朗、頼む」

 彼は待ち構えていたように薬を煎じ始めた。咳止めの薬だ。

 朔夜は戻って、友の上体を支え起こしてやる。仰向けで咳をするのはきつい。俯き、体を丸めるように止まらぬ咳を続ける。

 口元を押さえた指の隙間から血が流れ出る。

 朔夜は額に置いていた布を手に、その手を包んでやった。

 喀血の染みは布団の至る所に、まるで模様のように作られている。冬になってから日常化してしまったせいだ。

 祥朗が器を持って来た。咳が収まった口に少量、流し込む。

 ぐったりと身を預けられる。肩で息する背中を摩って。

 幾分か体が小さくなったようなのは気のせいだろうか。

「…もう駄目かも知れない」

 朔夜の懐の中で龍晶は呼気だけで言った。

「だから、そういう事言うなっての」

 横で祥朗も頷く。悲しそうな目で。

「頼むからさ。春音が大きくなるまでは居てやってくれよ。俺達と同じ思いさせるなよ。なあ?」

 小さく頷く。思いは同じだ。

「…寝るよ。暫く大丈夫だ」

 頭を枕に戻してやり、布団を掛けてやる。

 その僅かな間に、力尽きたように意識を手放していた。

 息を吐いて、祥朗を見遣る。

 同じように難しい顔をして見返される。

 つまりはそういう事だ。この身を生かすのは、限りなく難しい。

「さくー」

 幼子が呼ぶ。朔夜は眉間の皺を揉みつつ立ち上がった。


 年が変わった。寒さは相変わらずだが、日差しに春の気配を感じるようになった。

 病状は相変わらず、否、徐々に悪くなっているのは確かだが、まだ龍晶は細い息を続けている。それが重要だった。

 春になれば。それだけに希望を抱いて、誰もが生活している。

 春音はますます活発になった。朔夜は仕事以外の時間は彼を追いかけている。何をしでかしてくれるか分からない。

 先日は居ないと思ったら、火の消えている竈の中に潜り込んで灰だらけになっていた。それだけで済んだのが寧ろ幸いだが。父親に代わってこっぴどく叱っておいた。

 叱っても本格的に嫌われる事は無いのが彼の賢さだろう。その代わり暫く拗ねて口を利かなくなる。誰かさんみたいだ。

「誰よりも親みたいだぞ、お前」

 波瑠沙が呆れ笑いで言ってくる。

 返す暇は無かった。今度は箪笥によじ登っている。

「いいかげんにしろっての!」

 剥ぎ取りながら歯を剥いて怒る。

 抵抗して取手を掴んでいる。お陰でがしゃんと引き出しが落ちた。朔夜の足の上に。

「いぃぃったー!!」

 悶えても獲物は投げ出さない。

 その獲物を波瑠沙がひょいと取った。

「なんかもう、ご苦労様というか何というか。大変だな」

「他人事ーっ!?」

 床に転げ回って悶えながら叫ぶ。

「さくー、いたいいたい」

「お前まで他人事かいっ!」

 波瑠沙がけけけと悪く笑う。春音もその笑い方を真似て笑う。

 戸板が開いて華耶が顔を覗かせた。

「ごめんねぇ朔夜。大丈夫?」

「だっ、だいじょうぶ…。このくらい、なんとも…」

「知ってるか春音。さくーはな、お前の母さんに今だに惚れてっからああやって強がるんだ」

「子供に何言うっ!?」

「だって本当じゃん」

 またけけっと笑われる。悪戯小僧よりタチが悪い。

 起き上がって頭を掻き、痛む足を引き摺って華耶の開けた隙間から中を窺った。

 これだけ騒いでも龍晶は目を覚まさない。

 胸の辺りの布団が大きく上下している。呼吸をする事だけに必死になっているように。

「もう少し。もう少ししたら春音の産まれた日だから、その時には…」

 華耶は言い淀んで口を閉ざした。

 その後を受け継いで、はっきりと言葉にしてやった。

「一緒に祝うんだよ。皆でさ」

 振り返って、そうは言っても可愛い子供を見上げて。

「春音、何歳になるんだっけ?」

「しゃんさーい」

 指で示しているのは二本。

 華耶の顔に笑顔が戻った。

 朔夜も笑い返す。

「春音、よーく見とけよ。伴侶にこういう事されても怒らない器のでかい男になれよ」

「だから何を子供に…」

 呆れながら妻の手から子供を取り返した。

 土間から人の入る気配がある。

 開いた戸の向こうに十和が居た。

「華耶様、お客人です」

 告げる顔が明るい。

「どなた?」

 怪訝な顔で問い返した時。

 燕雷と祥朗が荷物を持って入ってきた、その後に。

「先生…!」

「お久しぶりです、華耶様。お二方にお会いしたく、老体に鞭打ってここまで参りました」

 救民街の医師は上がり框に正座し手をついて頭を下げた。

「どうぞ、お入り下さい!寒い中の遠路をいらして下さって、感謝の言葉もありません」

 華耶は老医師に走り寄り、肩に手をかけて中へと促した。

 その後ろを入ってくる若い男。師の供として来た要馬(ヨウマ)だ。

 二人は龍晶の眠る枕元に案内された。

「容体は祥朗の手紙で聞いておりました。それで是非に直接診させて頂きたいと思い、ここまで参った次第です」

 華耶に説明しながら、医師は弟子から道具を受け取る。

 筒状の道具。それを袂を緩めた患者の胸の上に置き、反対側に耳を付けて呼吸音を聞く。

 誰もが息を詰めて医師を見詰める。

 朔夜は懐の春音に人差し指を口元に当てて見せた。賢い彼はそれで理解したようだ。大人しくしている。

 医師は耳を浮かせた。続いて脈を取り、熱を確認して。

 静かに微笑んだ。

「この冬の峠は越したようです。今は弱った体を元に戻そうと努めておられます。何としても生きようという意志のある脈動です」

「本当ですか…!?」

 頷き返されて、華耶は両手で口元を覆って涙した。

 彼が、生を(なげう)たずに掴み直そうとしている。それを今までどれだけ望んだか。

 老医師もまた、これまでの苦渋の日々を知るが故に言った。

「変わられましたな。立場を捨てられたのは辛い事ばかりでは無かったという事でしょう。華耶様のお陰です」

 彼女は嗚咽しながら首を横に振った。

 その膝元に、朔夜の手から這い出た春音が手を置いた。

「かーたん、げんき」

 華耶は涙を頬に流しながら微笑んだ。

「そうだね春音。元気出さなきゃ。お父さんも頑張っているものね」

「とーともげんき」

 言って、父の元へ近寄り、顔を小さな手で撫でて。

 その手元の目が、薄く開いた。

 春音、と口が微かに動く。

「仲春!」

 華耶がいち早く気付いて息子の手の上から夫の頬を包んだ。

「お目覚めになりましたな。是非とも今のうちに薬を。祥朗、湯を用意してくれ」

 彼はすぐさま動いた。二人の弟子が着々と準備をしていく。

「先生…」

 微かな声で呼ぶ。客の存在に気付いたのだ。

「もう大丈夫です、龍晶様。必ず快方に向かいますから、安心してお休み下さい」

 ふぅと飛びそうな意識をなんとか保ち、朔夜に体を起こされた。

 その口に、匙で薬が運ばれる。

「肺臓に効く薬を持参致しました。祥朗に持たせますから、毎日欠かさずお飲み下さい」

 説明を聞き、小さく頷いて、元通り寝かされる。

 何か言いたげに開いていた目は、喋る気力を持たずすっと閉じられた。

「とーと、ねたったぁ」

 残念そうに春音が言う。遊んで欲しかったのだろう。

「またすぐ目覚めるよ」

 朔夜は懐へやって来た幼子に言ったのか、はたまた華耶へ言ったのか。それとも自分に対してだったのか。

 とにかく春に向けて希望は見えた。

 龍晶が生きようとしている。それが何より大きな希望だ。


 目覚めると、ずっと付き纏っていた体の不快感が消えていた。

 頭を締め付けるような痛みも、目を瞑っても視界を掻き混ぜるような眩暈も、どれだけ吸っても空気が胸に入らぬ息苦しさも。どれも消えている。

 春の音を聞いて龍晶は目を開いた。

「とーと」

 視界いっぱいに、愛しい顔。

「とーと、おきて。わっこしゃんさいだよ」

 ふっと笑って。頷いて。

 春の使者が、目覚めを誘いに来た。

 死の冬を越えて、生の春が。

「そうだな。三歳だな」

 幼子が笑う。その向こうに、愛しい人の姿が見えた。

「仲春…おかえり」

 帰ってきた。彼女の元へ。

「ただいま、華耶」

 手が、頬を撫でる。

 逆の手で、彼女は自分の顔に流れるものを拭った。

 また泣かせてしまった。

「心配かけた」

「いいの。帰ってきてくれたから。それで」

 二人の居る反対側から、また聞きたかった声が響いた。

「起きた!?」

 華耶が顔を上げて頷く。

「龍晶!」

 どたどたと枕元にやって来て覗き込む。

 煩くて照れ臭くて、追い払うつもりで言った。

「水をくれ」

「あ、うん!すぐ持って来る!」

 言葉通り即刻踵を返す。顔は嬉しげに口元をふにゃりとさせて。

 呆れるような、嬉しいような。

 本当にすぐに器に水を入れてきて、上体を起こされ水を口に含んだ。

 自分の意思で物を口に入れる事自体、随分久しぶりだった。

 生き返った心地。実際そうだ。

「やっと祝いが出来るな」

 横で朔夜が満足そうに言った。

「祝い?」

 問い返すと、祝われる本人が答えた。

「さんしゃい、おめっとー」

 大人達に笑みが浮かぶ。

「ごめんな春音。俺のせいでお預け食らってたんだな」

「そんな事無いよ。仲春はちゃんと間に合った」

「そうだよ。ほら、今からが春本番だ」

 朔夜が指差した縁側の向こうで、鳥達が鳴き、花が咲き誇る。

 厳しかった――あまりに厳しかった一年を、生き抜いた。

 そしてこれが最後の春かも知れない。

 次の冬を乗り越えられる体力は、もう無い。

「…美しいな」

 彩り溢れる世界。その象徴に愛情を傾けるように。

 春の使者を抱き締めた。


 朔夜は龍晶の(とこ)の傍らで小刀を動かしている。

 もう片手には木の枝。それを削って、真っ直ぐな一本の軸にしていく。

 筆を作るのだ。春音の長く伸びた髪の毛を切って穂先にする。散髪は向こうの長屋で華耶と十和が手を焼いている。

「物を遺された所で救いになるんだろうか」

 身を横たえた龍晶が天井に向けて呟いた。

「何。どういう意味」

「いや…」

 言ったそばから後悔しているのかと思ったが。

「三歳の記憶なら、まだ残らずに済むんじゃないかって」

「だから、お前…」

「他人のままの方が後々幸せじゃないか?わざわざ失ったものを思い出させる必要は…無いんじゃないかって」

 呆れて見下ろす友の顔。

「失わせなきゃ良いんだよ」

 小さく息を吐いて、父親名義となる贈り物を見詰めた。

 まだ節くれだった桜の枝。

「作るぞ。お前が何と言おうと俺は作るからな」

 朔夜は言い切って手の動きを再開させた。

「…俺に選べる事じゃないから」

 呟きは無視して枝を削り続ける。

「死にたい訳じゃない。誤解しないでくれって言っても前科があるから説得力無いんだろうけど。今は心底思うよ。このまま生きていたいって」

「じゃあ生きろよ。あいつが大きくなるまで見守っててやれよ。俺達の分まで親の愛情を注いでやれよ」

「俺達みたいに、下手に記憶の残る所で死んだら可哀想だから」

「お前な…」

「それだけの体力も無いよ、実際。今回生き延びたのは奇跡だ。二度は無い」

 朔夜は削りかけの枝と小刀を叩き付けるように置いた。

 友に向き直り、食ってかかるように言う。

「奇跡が欲しいなら起こしてやるよ!」

 胸元を掴む。乱暴に衿元を開いた。

 青白い程の胸。まだ痣が所々に浮かぶ。

 その上に両の掌を当てた。

 龍晶は虚ろな目で友を見る。なされるがままになりながら。

 二人の呼吸だけが音として存在する。

 少し引っ掛かるような苦しい呼吸音と、食い縛った歯の間から鋭く鳴る呼吸音。

 どれだけそうしていたか。

 朔夜の歯の間から漏れるものが、嗚咽に変わった。

 見上げる龍晶の目が、ふっと優しいものに変わる。

「…良いんだよ、朔夜」

 首を横に振って再び集中しようとしたが、もう気持ちは千々に乱れていた。

 震える手を持ち上げて、嗚咽に震える肩を撫でて。

「手放したかった力なんだろ?無くなったなら結構な事じゃねえか」

「違う!」

 叫んで。それでも掌は離さずに。

「お前を救えるならこの先一生地獄に落ちても良いんだよ!なんだよこの役立たずな手は!」

「そうやって何もかも俺のせいにして自分の幸せを棒に振るなって言ってんだよ!」

 怒鳴られ返されて。喫驚して見返す。

 そんな声を出せば必然的に咳き込む友を。

 命を削りながら、彼は。

「ずっと…そう言ってんだよ…。刀を置けって、そういう事なんだよ。…朔夜」

 口の端に流れた血を手の甲で拭き取って。

「分かってくれ。…頼む」

 朔夜も自分の顔を乱暴に掌で拭いた。

 食い縛った歯の間から出せる言葉は無かった。

 悔しさで脳味噌が焦げつきそうになりながら、衿元を直してやる。

 そうするしかなかった。

「…頭冷やしてくる」

 言って、立ち上がって、戸を開ける。

 そこに居た波瑠沙と目が合った。

 そっと閉めて。あいつの目の届かない所で。

 彼女は磨いていた刃物を退かして朔夜を見上げた。

「良いぞ。受け止めてやる」

 崩れるように懐に落ちる。縋り付いて、声を出さず、泣いた。


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