7
渋々ながらも起きて身なりを整え、出立を知らせようと部屋を訪れた。
「おはよう」
華耶が爽やかに挨拶する。龍晶の姿がすぐには見当たらず、部屋の中を見回した。
「おはよう。あいつは?」
問うた方が早いと思って口に出す。
華耶は少し困ったように笑って、寝台を指差した。
「ああ、まだ寝てる?」
華耶は朔夜の横を擦り抜けて廊下に出ると、小声で言った。
「二人の前では無理してるけど、また熱が下がらなくなって。よく譫言を言ってるし、二人きりの時は誰かを見てる。私には分からないけど」
「…まあ、まだ治らないよな」
この浅い日数で治る症状ではない。
「夜よく寝れないみたいだから無理に起こしたくもなくて。ごめんね?後で伝えておくから」
「良いんだよ。帰ったら話せば良いんだし」
「うん。…朔夜」
「ん?」
華耶は少し逡巡して、視線を落としながら言った。
「私一人じゃ彼を支えきれないから…帰ってきてね?必ず」
「えっ…華耶、なんでそんなに深刻になってるんだよ…?ただ借り物を返しに行くだけだって」
顔を上げて、恥ずかしそうに笑う。
「そうよね。そうだった。可笑しいね、私」
「俺のせいだな。昨日変な話したから」
「ううん。私がせがんだから。朔夜は思い出したくなかったよね、きっと」
言われて、手にしている短刀を少し持ち上げる。
「いや、これがある以上は忘れられない事だから。でもこれで清算出来る。ありがとな、持って来てくれて」
「ううん。この刀があれば彼とも朔夜ともまた会えそうな気がしたから。私達のお守り」
「ああ。…守ってくれた」
「今度は持つべき人を守ってくれたら良いね」
「ああ。ちゃんと返してくる」
「いってらっしゃい」
手を振って、そこに待っていた波瑠沙に目配せした。
華耶は元通り部屋の中に入る。
その気配を背中で受けて、波瑠沙は言った。
「顔に出てんだよ、お前」
「…何が?」
「仇を討たれるつもりか?」
笑みが消えて、溜息を吐いた。
「そんな事にならないように気をつける」
「頼むよ」
頷く。が、すぐに例の誤魔化し笑いが浮かんだ。
「そうなってもさ、相手は女と子供だよ?いくらなんでも俺に一矢報いるなんて無理だろ」
波瑠沙は横目にちらりと見ただけで反応しなかった。
構わず朔夜は続けた。
「だから、ちょっと離れた所に居てくれよ。一人で行くから」
「はあ?何の為に一緒に行くと思ってんだ」
「物陰から様子見てくれたら良いんだって。大勢で行ったら向こうも構えるだろ?これは俺一人の問題なんだし」
今度は波瑠沙の方が大きな溜息を吐いた。
「何かあったらすぐ駆け付けるからな」
「何も無いって」
目を合わせず言う。歩きながらの会話だから不自然ではないが。
庭に藩厳が居た。
「よお」
挨拶を受けて。
正面に立つと、予備動作無しに朔夜は顔面を殴っていた。
流石に避けきれず、ニ、三歩よろけて。
「随分な挨拶だな…」
口の中を切った血を吐き出して言う。
「普通におはようなんて言うと思ったか?彼女を死の危険に晒しておいて」
朔夜は朔夜で殴った拳を振っている。
「だけど俺からはこれで済んだ事にする。波瑠沙からはまた別だけど」
本人は肩を竦めた。
「お前の気が済んだならそれで良いんじゃない?」
「良かったな。じゃ、よろしく頼む」
呆気に取られている藩厳を促して、波瑠沙が横を歩きながら言う。
「そこまで痛くないだろ?あいつ今、足元へろっへろだからさ。踏み込みなんか効かない筈だ。お前のお陰で」
「俺のせいなのか」
「そうだろ。私がお前の罠にかかるなんてヘマをしなければ良かったんだが。ちなみに私が殴ってやる方が断然痛いと思うが試してみるか?」
「いや、遠慮しとく」
「なーんだ。残念」
笑って、数歩下がって朔夜に並んだ。
足を引き摺るように歩いているせいで速度が追いつかない。
「おぶってやろうか?」
「流石に今はいいや…」
「どいつもこいつも遠慮しいだな」
「あ、でも人目の無い所なら頼みたいかも」
「やっぱり無理してるな」
「昨日の今日だしさ。寧ろ悪化してる…」
苦笑いで言う顔は時々痛そうに顰められる。
「ああもう、見てられん。おぶされ」
波瑠沙の方が限界点が早く来て、強制的に背中に乗せた。
幸いまだ人通りも少ない。
「変な風に見られないかな」
「どう見られたって別に良いだろ。目的地の前で降ろしてやる」
「なんか、ごめん」
「無茶をするのはこれで最後だろ?」
「うん…とりあえずは」
「なら付き合ってやる」
彼女の背中の温もりに安心して眠ってしまいそうになる。
そのくらいまだ疲れきっている。灌に行ったら龍晶に負けないくらい眠り続けそうだ。
そういう平穏がすぐそこまで来ている。それがちょっと不思議だった。
「お前らはこれからどうするんだ?」
藩厳に問われて、波瑠沙は答えた。
「龍晶と共に灌に行くつもりだ」
「良かった。寝首を掻かれずに済む」
「要望があるなら応えてやるが」
「いやいや、そういうつもりじゃない」
両手を振って、頬を掻く。
「あいつ、灌に行って体は治りそうか?」
「さあ?そういう事はこいつの方が…」
背中を揺さぶってみたが反応が無い。
「本当に寝るか?普通」
危機感が無さ過ぎる。
藩厳は苦笑いで教えた。
「まあ、こいつも普通は死んでる状況だったからな。無理も無い」
「お前は屍を探してたのか?」
あの高い場所から飛び降りたのだから普通はそうだろう。
「いや…燕雷って男にまだ生きてるかも知れないと言われて。死んでても蘇るから探すのを手伝ってくれってな。半信半疑だったが、本当だった」
「他人に言われた事をやるだけかよ」
「そう罵られても仕方ないかな。友のお陰で軍部から睨まれてたから、上に従順に見せなきゃならなかった。でもお前らを探したのは単に心配で現場に見に行ってたからだが」
「心配するかなあ、普通。自分が嵌めたのに」
「悪かったって。あんなに急展開になるとは思わなかったんだよ」
「信じられんな。この先も罠じゃないのか」
「おいおい、そこまで疑うか。お前らをどうこうしようとしていた派閥は消滅した。その餓鬼のお陰でな。だから俺も誰に諂う事も無い。これは孟逸の頼み事を叶えてやってるだけだ」
「どうだか。ああ、今日は刀を持ってるからな?先に言っとく」
「物騒だなあ」
「自業自得だろ」
ひと段落して、思い出したように最初の問いに戻る。
「龍晶は昨日は元気に見えたけど、どうなんだろうな。一日の殆どを床で過ごしてるようだし、時々変な咳もしてる。場所を移したからってすぐ治るようには見えないな」
「そうか…。まあ、そうだろうな。肺を患ったら治らないって言うからな」
「肺を?」
「医者はそう言っていた」
波瑠沙は遠くに視線を投げて、耳元の寝息を聞いた。
朔夜は龍晶にも海を見せたいと言っていた。どうもそれは叶う気がしない。
落胆する顔を見たくはないが。
「こう見えても心配してやってるんだよ」
波瑠沙の気など知らず藩厳は言った。
「あいつを最初に見た時から、この若者は死なせたくないと感じた。だから必死になってたんだ。他国の王を救おうなんて可笑しいけど、そういうものを超える何かをあいつは持ってる。地位が無くなったからってそれは変わらない。あいつは死なせちゃならない男だ」
居室が見えるように窓を開けて、その近くの木々に縄を張って洗濯物を干している。
特に頼まれた訳ではないけど、朔夜達の分も合わせて四人の服を洗い、乾かす。
戔に来てからこんな事は許されなかったが、本当は全部自分でしたい。だから誰も世話を焼いてくれないこの生活は楽しい。
時々振り返って、窓の中を窺う。
寝台までは見えないが、部屋の空気は動いていない。彼がまだ眠っている事に安心して、次の衣に手を伸ばす。
眠っていて安心するというのは本当は変だ。それは心身が弱っている証拠なのだから。
だけど本人が言った通り、起きて動いていると何をするか分からないのが現実だ。
正気の時は良いのだが、目が覚めながら朦朧としている時が一日の中に何度かある。そういう時が危ない。
実際に華耶も何度か止めた。隠しているが彼の左手首は傷だらけだ。その刃が他に向く事は無いが、止めると愕然とした表情で見上げてくる。
その悲しい目が刃を向けられるより痛い。
心の底の底。正気の時は本人も恐らく自覚していない部分で、死を望んでいるのだと。
それが見えてしまって、辛い。
だから今朝朔夜にあんな事を言った。とてもではないが、今二人きりにされたら共倒れになってしまいそうな恐怖はある。
だけど、その朔夜の目にも同じものを感じるのだ。
何処かで終わりを望んでいる。彼が生きる事の辛さは察しているつもりだが。
似たもの同士だと本人達は言っているが、その心の底が共通しているから通じ合うのだとしたら、悲しい。
そして彼らは自分にそれを察知されないようにあくまで明るく振る舞う。だから知らない振りをせねばならない。
だけど、分かっているんだよ?
空に向けて小さく呟いた。
背後で物音がした。はっと振り返る。
咳。華耶は走り出していた。
土間から回り込み、部屋の扉を開く。
夫は床に倒れ込んでいた。まだ咳が続いている口を腕で押さえて。
手近にあった椀を差し出す。意を受けて、彼は口の中に溜まっていた血をそこに吐いた。
背中を摩りながら、顔色を窺う。
焦点を結ばぬ瞳。その中で、己の血が揺れている。
発作が収まって、傍らの寝台にもたれかかった。
「…あまり近寄らない方が良い」
細い息で彼は言った。
「肺の病だ。感染るといけない」
「大丈夫。私は死なないから」
腕で囲った口元が、小さく笑った。
「そうだと良いんだけど…」
大きく息を吸って、吐き出す。
そこで感じる胸の違和感に、眩暈のするような落胆を感じながら。
「母と同じ病だ」
華耶が鋭く息を吸った。
彼の母の最期の手紙を読んだから知っている。労咳。彼女は幼い息子に獄中でこの病を伝染させる事を恐れて、世継ぎを儲けさせぬ体になる条件をも飲み、彼を手放した。
彼にとっては、幼い己の全てを奪った病とも言えるだろう。
「…そういう定めだったんだ。どうしようも無いよな」
そっと、肩を抱く。
死なないから大丈夫だとは言ったが、その苦しみを共有したかった。
そして出来る事なら、自分が全て引き受けたいと思った。
叶わぬ願い。
「これだけ恵まれた環境でも血を吐くんだから、もう相当進んでいるんだろう」
どうしてそうも落ち着いて分析出来るのか。問う目を向けるが、逸らされた。
言葉とは裏腹に震える体が、本心を表している。
「もう幾許も持たない。…ごめんな」
「なんで謝るの…?」
「だって、華耶の為の余生だよ。これは」
眉根を寄せる。
そういう思いだったのか、と。
全てを奪って生かしてしまったから。
逸らされていた視線が戻ってきた。
優しく笑って。
「残りはずっと一緒に居よう。でも、捨てたくなったら捨てて良いから」
「そんなの有り得ないよ…」
頬を寄せ合う。一度終わりかけた、その続きがあるだけでも幸せなんだと再確認しながら。
「ごめん。本当にごめん。お前をもっと幸せにしなきゃいけなかったのに。もっと、ずっと、横で笑ってて欲しかったのに。泣かせてばかりで…ごめん」
首を横に振って、掌で目を拭って。
「泣いてない。大丈夫。これからいっぱい一緒に笑おう?笑ってたら、病の方から逃げていくから」
泣き笑いの顔に、微笑んで応じて。
彼女の信じる未来だけ、自分も信じていようと決めた。
背中から下ろされて目が覚めた。
くらくらとする頭を抱える。まだ立ち上がれずに、地面に座り込んだまま。
「分かった。お前本当に熱出してるから寝こけてたんだな?薬で下がってたものがまた上がってきたんだろ」
言いながら波瑠沙が前髪を掻き分けて額に掌を当てた。
「ほら、やっぱり熱い。返してきてやるからここで待っとけ」
刀を渡せと手を差し出されたが、朔夜は首を横に振った。
「そういう訳にはいかない。…終わったら大人しくしとくから、これだけ行かせて」
横の塀に手をついて立ち上がる。
「俺が先に行こう。奥方と話して来る」
藩厳が言って、角を曲がった先の家に向かった。
戸を叩き、暫く待つと、女の顔が覗いた。
それを遠目に見ながら朔夜は歩き出した。
「本当に大丈夫か」
波瑠沙に頷いて、緊張した笑みを向ける。
「ちょっと待ってて」
一人、その家に向かう。
玄関先に居る千虎の妻の顔がこちらを向いた。
いつか帰る筈だった場所。家族になる筈だった人達。
運命が少しでも違っていたら。
否、今の運命こそ必然だった。
これで良かった。そうでなければ龍晶にも波瑠沙にも出会えなかった。何より、華耶の身は無事では済まなかった。
手の中の刀に悪いなと謝る。
お前の強く優しい手は一生忘れない。
だけど俺は別の手を取った。だからもう後悔しない。
こうなる、必然だった。
「朔夜、この方が千虎将軍の奥方と…」
近くまで来て藩厳が分かり切った事を説明した。
言葉を切らした向こう、戸の奥に、男の姿があった。
「ご子息の涛虎だ。俺の隊へ入る事が決まっている」
息子は出て来て母の隣に並んだ。
思いがけず自分より頭一つ二つは大きい彼に朔夜は面食らった。想像では千虎の語っていた子供のままだった。
あれから八年も経っているのだから当たり前の事だ。自分が大きくならないせいで、他人の成長をつい忘れる。
しかし、千虎の息子が軍に入るような男になっているとは。それも当然なのかも知れないが。
「藩厳殿、この子供が…?」
妻が戸惑い気味に問う。
「ええ。将軍が養子にしようと願った子供ですよ」
そういう事で話が通してあるのか。
だが何があったかは全て知っている筈だ。
その証拠に、涛虎の己を見る目が鋭い。その名に違わぬ、父に似た虎の目。
朔夜は何も言えずに両手で短刀を差し出した。
「この刀…」
相変わらず戸惑い気味に妻は言った。
「返しに来ました」
漸くそれだけ言って、視線を避けるように頭を下げた。
そのまま、気の重い告白をせねばならなかった。
「俺が、千虎将軍を殺しました。それでも彼は、今際の際にこの刀を渡してくれて…これを使って俺は生き延びました。生きろと言ってくれたのだと受け取って。でもあなた方から大切な人を奪った罪は消えません。許して欲しいなんて言いません。ただこの刀を受け取って下さい。持つべき人に持っていて欲しいから」
言うだけの事を言って、歯を食い縛って待った。
溜息が聞こえた。
ずっと手の中にあった刀が、離れていった。
だらりと手を下げる。頭も下げたまま。
「あの人は…千虎は、あなたを本当の息子のように想っていたからこの刀を渡したのですね」
母の声は優しかった。
この声音に泣かされた。
落ちる涙を拭いもせず、更に深く頭を下げる。
目前で、鞘から刀を抜く音がした。
「綺麗なもんだな」
冷たい声音で涛虎が呟いた。
かつて血錆だらけだった刀は、その過去を払拭して輝いている。
その分、刀身は痩せた。
己の心と同じだった。
後悔はしない。だが、確実に何かが削れている。
それも含めて、それで良かった。
「行って下さい。もう来ないで」
母の言葉に頷いた。
もう言うべき言葉も無く、背中を向ける。
顔も見たくないのだろうと思えば、無駄な言葉を吐かずこの場を去った方が正解なのかも知れない。
数歩歩んで。
背後の足音と。
殺気に。
目を閉じた。これは、必然だ。
「涛虎!」
母親の甲高い叫び。
朔夜は倒れていた。
あの時から己の身を守ってくれていた刃に、背中を突かれて。
胸まで貫通した傷から流れ出る、眼前まで迫ってきた己の血を見た。
小さく笑う。
望んでいた。この罰を。




