6
渡すものがあるから後で来いと言われた。
先に出て行った友を見送ってから、血の臭いを落とすべく入念に体を洗う。
渡す物の見当は付かない。何か大事な事を忘れている気がするが、さて。
そこに波瑠沙が入ってきた。
「釜の前に居たら余計に汗かいた」
汗と、ちょっぴり煤で汚れた顔を見上げて朔夜は笑んだ。
「ありがとな。いろいろ」
まずは頭から湯を被り、朔夜の背後に座って背中を流してやる。
「あいつと話せたか?」
「うん。久しぶりにゆっくり話せた」
「そうか。そりゃ良かった」
何にせよ、自分を元気付ける為の彼女の気遣いだった事は分かっている。
「灌に行ったら波瑠沙と家族になろうと思うって、言えた」
「家族か。良いな」
彼女は家族代わりの人は多くとも、本当の意味で家族と言える人は居なかっただろう。
自分がその最初になれると思うと、嬉しかった。
「暫くはこんな事無しに、楽しく暮らすんだ。龍晶だってそれを望んでる。あいつの願いも叶えてやりたい」
「あいつの為か?」
問われて、仰け反るようにして彼女を見上げる。
「波瑠沙の為でもあるよ」
「別に私はどっちでも良いんだが。刀を握るのが普通だし、危険は嫌いじゃない」
戸惑う顔を見下ろして、額を小突く。
「お前がどうかって事が一番重要だろ」
「俺?」
「お前がその生活を望むなら、私もそれを望む。だけどまだお前、そういう顔をしてないぞ」
「どういう顔?」
「無理して周囲の期待に応えてるんだろ?本当のお前自身の気持ちは、もっと別の所にあるみたいだ」
誤魔化す笑みの消えた顔を、下に背けた。
肩から腕が回された。胸の前で組まれて、肌に包み込まれる。
「私はまだ何も説明されてないぞ。夜の事」
溜息。
組まれた腕を、そっと掴んで。
「洗いざらい吐き出せよ。こうして包んでてやるから」
頷いて。
「…殺したのはこの国の王子の一人と、その取り巻き。それと、王だ」
「国王を殺ったのか」
「親父が仕留め損ねた男だ。俺がやらなきゃいけない相手だった…」
「だから、親の仇か」
「母さんもあの男の命令で死んだようなもんだ。同胞の皆も。あの王は、梁巴の住人を皆殺しにする命令を出した。そうじゃないと、苴軍はあそこまでしなかったと思う。俺達は人間だと思われてなかった」
「そうか。そうだろうな。私も軍人だから分かる。敵国の人間は人と思うなと叩き込まれる」
「俺達は敵対する気なんか無かったのに。ただそこに居ただけなのに、奴らは踏み荒らしに来た。だから戦わざるを得なかった」
「…ああ」
「俺達が何したって言うんだ。楽しく穏やかに暮らしていただけなのに。悪いのはあの王だ。そうだろ?」
「ああ。そうだ」
「殺されて当然だったんだ。あの野郎自身、最悪な男だったよ。本当は龍晶を狙ってたんだって。でも皓照が代わりにって俺を用意した。それが運の尽きだな。ただ息の根を止めるだけじゃ足りないから、存分に痛め付けてやった。切り刻んで、それから殺してやった。滅茶苦茶怯えて謝ってきたけど、許してやらなかった」
一息に喋って、また苦しげに息して。
波瑠沙の腕を掴む手に力が入っていた。
「…ごめん」
手を解こうにも、戦慄いて力が取れない。
「お前の力なんてどうという事無い。そのままで良い」
「痛くない?」
「全然。お前の方が痛い思いしてるだろ」
頭を横に振ったが、がくりと首を落として呟いた。
「胸がずっと疼いてる。苦しくて、痛い」
「そうだろう?」
掌が痛みの上を撫でる。それだけで傷口を触れられているように、悲鳴を上げそうで。
「強がってもお前の本質は変わらないんだよ。残虐な事をすればするだけ、自分に返しちまう」
「…強くなりたい」
「それはもうお前じゃない」
言葉に詰まる。
そうならなければならないものが否定されて。
「他人の痛みを我が事に出来るのが、お前の強さだよ。強さってのはな、優しさだ、朔」
撫でられる痛みが、優しく染み込んで傷を塞ぐ。
「お前は優しいからお前なんだ。それで良いんだよ」
手の強張りが取れて、波瑠沙の腕から離れた。
体中が弛緩し切って、蕩けてゆくような。
自由になった腕を今度は脇から回して、波瑠沙は耳元で囁いた。
「暫く何もかも忘れさせてやるよ」
下腹部を手が滑る。
掴まれ、握られて、小さく鳴いた。
痛みに蓋をされるような心地よさ。それを頭の隅々まで味わいながら。
確かに何もかも忘れていた。愛ってこういう事なんだって、そんな事を思ったりした。
ぱちりと目が覚めて、初めて眠っていた事に気付いた。
辺りは暗い。朝の風呂場から意識が飛んでいる。焦って身を起こして、足の痛みに呻いて立ち上がる事は一度断念する。
酷い筋肉痛。と言うかもう筋がやられている。あんな男を蹴り上げたんだから自業自得だ。
はーと息を吐きながら、裸体の上に掛けられているだけの衣を引き上げた。波瑠沙には分からないのだろうが、もう結構寒い。
焦るのは龍晶との約束があるからだ。後で取りに来いと言われて夜まで待たせたら、どんな文句を言われるか分からない。
もう一度ずるずると起き上がって衣を着る。当然ながら隣は空だと確認した。何処に行ったのか、若干心細くはある。
手探りで上衣も羽織って、それでやっと人心地がついた。ついでに毛布も羽織って、震えながら立ち上がる。
ふらふらとした足取りで部屋を出て、龍晶達の寝室に向かう。
波瑠沙の豪快な笑い声が聞こえて、ちょっと安心した。
「お、おはよう朔ちゃん」
揶揄うように波瑠沙が言った。
「どうしたの朔夜。寒い?」
華耶が異様な姿を見て笑いながら問う。その頬が赤い。
酒が入っているからこの寒さが共有出来ないんだと知って、素面である筈の龍晶の隣に陣取った。
「風邪でも引いたんじゃねえか?お前」
常と逆に龍晶に額を触られる。こいつに言われると妙に説得力があって自分でも額に手を伸ばす。
手が冷え切っているお陰で何も分からない。
「肉が付いて無いから寒いんだろ。ほら食え」
波瑠沙が乱暴に皿を押し付けてきた。仕方なく受け取って、ぼーっとその中身を見る。
「やっぱり変だな。寝とけよ。そこ使って良いぞ」
夫婦の使う寝台を龍晶は指すが、それは流石に気が引けた。
「ここで良いよ。丸まっとく」
言って、膝を抱えて毛布を身に巻き付ける。
「波瑠沙さん、朔夜と一緒に帰ってあげたら?多分寂しくてここまで来ちゃったんじゃない?」
華耶の言葉に波瑠沙は肩を竦めて朔夜に問う。
「良いよな別に。寝ちまったらまた抱えて帰ってやるから。今朝みたいに」
龍晶がにやっと笑ったのを見て、何があったか知ってるんだと頭を抱えた。
何もかも筒抜けの同居も困るものがある。喜んでいたのも束の間だった。
「お前に用があって来たんだけど」
その龍晶に問うと、やれやれと言いながら立ち上がった。
「俺はあの後すぐ来ると思って待ってたんだけど?」
この皮肉。いや揶揄か。何にせよ知っている癖にわざとこんな事を言う。
「許してやれよ。まだ足腰立たねえ坊やなんだから」
波瑠沙が一応取り成してくれているのか、一緒に揶揄っているのか。微妙な所だ。
「ま、それは良いんだけどな」
言いながら取り出してきたもの。
朔夜は目を見開いて固まった。
「華耶に感謝しろよ。彼女が肌身離さず持っててくれたから、今ここにあるんだ」
差し出された短刀。
虎の彫刻のなされた鞘。
忘れていたものは、これだった。
「早く返しに行け。下手したら明日にでもこの国を出る事になる。そうしたら再びこの地に帰って来る事は無いだろう」
手を伸ばして受け取った。受け取ったが、それからどうすべきか頭が働かない。
「どういう刀?」
波瑠沙が訊く。華耶も同調して頷く。
「私も知りたかった。ずっと朔夜が持ってるのは知ってたけど、何か事情があるんだろうなって。だってその刀だけ自分で研がないんだもの」
「へー?なんで?」
女達の疑問の目から逃げるように口元を毛布に埋めて。
「これは年貢の納め時だよ、朔夜。ちゃんと自分で説明しとけ」
龍晶にもそう言われて、諦めて。
今まで華耶に隠してきたのは、彼女を悲しませない為なのだ。今となってはその言い訳は通用しないだろう。
「…これは苴の将軍のものなんだ。千虎っていう、物凄く強い奴が居た」
波瑠沙の言う、強さとは優しさだという理論で言うのなら、まさしく彼は強い男だった。
「繍に居た頃、俺はそいつの暗殺を命じられたんだ。ほら、前に於兎が言ってた楽士に化けて寝所に入った、その時の的だよ。だけど見事に見破られてさ。なのに、俺の正体まで知りながら、あいつは許してくれた。それで言われたんだ。一緒に苴に戻ろうって。父親になってやるからって」
顔を伏せて、目元まで隠して朔夜は続けた。
「嬉しかった。そうなりたいって思った。自分の感情なんて完全に麻痺してた頃だったけど、あいつの元に居たら自然に本来の自分に戻れて。でも繍がそんな事を許さないのは分かってたし、それをすれば千虎も俺も命は無いだろうとは思っていた。でも俺は、繍兵を殺しまくる事であの国を一度裏切った。本気で苴に行こうと思って」
自分の笛の音が、耳鳴りのように耳朶へ蘇る。
「苴に帰る前の晩、宴が開かれた。千虎に請われて笛を吹いていて…あいつは気付いたんだ。これは梁巴の音色だと。千虎は、梁巴を攻めた武将の一人だった。俺が悪魔となった夜に偶然その場に居なかったから助かったんだと言ってた。けど、俺は、仇の一人だと思って…気付いたらあいつを斬っていた。家族になろうとまで言ってくれた人を」
鞘の中の虎が真っ直ぐに見詰める。
お前はこの刃に込められた願いのままに、生きて来れたのかと。
「その瞬間、周囲の全員が敵になった。その中で、事切れる間際で、千虎は俺にこの刀を渡した。これを使って逃げ延びろって。…それで、あいつの部下をこの刀で斬りながら、逃げて、生き延びた。生き延びちまった。糞みたいな繍に戻る為に」
かちりと軽い音をたて、刃は鞘から抜かれた。
「研がなかったのは、あいつらの血を落として無かった事に出来なかったからだ。一瞬でも仲間だと思った人たちをこの手で斬ったんだから。その罪を背負いたかった。それで自分が苦しむ事でしか罰を受ける術が無かったから。でも、孟逸からこれは千虎の息子が受け継ぐべき刀だと聞いて、返さなきゃって…」
「それで、研いで貰ったんだね」
優しく華耶が話を纏めてくれて、朔夜は頷いた。
まだ何処かで逃げようとしている情けない目が刃に映っている。
「藩厳が明日来る事になっている。あいつも孟逸から聞いて事情を知ってて、千虎将軍の家に案内してくれるそうだ」
龍晶の説明に溜息を吐いた。
「あいつかあ…」
一度裏切った男だ。良い気はしない。
「でも、お前を助けたのもあいつなんだろ?」
「そうらしいけど、意識が無かったからなあ」
「とりあえず、諦めろ。お前に選択肢は無い」
「分かってるよ。行くよ。行くけど」
「私もお供してやるぞ?また一人で何かやらかすかも知れないし」
波瑠沙の申し出は素直に有難い。一人、もとい藩厳と二人では多分目的を果たせない。
「でも朔夜、大丈夫?熱は無い?」
対角に座る華耶が食器類を跨ぐように身を伸ばして額に触れてきた。
「ちょっと熱いね。早く寝た方が良いよ。薬作ってあげる」
すっと立ち上がって湯を沸かしに行く。
大丈夫だからと断るべきだったのに、その暇も無かった。
龍晶も波瑠沙も苦笑いだ。
「だって…しょうがないだろ」
何も言われないうちから言い訳する。
「ああ、ああ、しょうがないな。確かに、しょうがない。それがお前らの関係だからな」
波瑠沙が含みを入れまくって言う。
「言っとくけど、このくらいで目くじら立ててたらキリが無いからな」
龍晶が波瑠沙に忠告した。
「分かってるって。妬くつもりも無えよ。こっちは大人なんだし?」
「俺が子供みたいに」
「あれ?否定するのかお子ちゃま」
久しぶりに言われると悔しい。
華耶が椀を手に戻ってきた。
「はい、朔夜。仲春にはまた後で作るね?」
「あ、ああ」
いきなり素に戻って龍晶は頷く。
せめて友のその顔を笑って、朔夜は薬を飲んだ。
飲み終えるなり体が持ち上げられる。
「じゃ、姫を連れて退散するわ」
「後はよろしくお願いします、波瑠沙さん」
「任せとけ」
「朔夜、おやすみ。ありがとう、話を聞かせてくれて」
「え…あ…」
まともな返事を考えつく前に部屋から運び出された。
歩きながら波瑠沙は言った。
「華耶が言ってたぞ。お前は何も言ってくれないから困るって」
「困るものなのかな」
「目の前で鬱々した顔を見せられて、何も手が出せないのは辛いだろ」
「俺そんなだった?」
「だから私は毎回吐き出させてやるんだよ。お前はすぐ作り笑いで誤魔化すけど、そんなもんすぐバレるからな」
部屋に入って下されて、そっかと呟く。
波瑠沙は顎で朔夜の手にしている短刀を示した。
「この時もそうだったんだろ?訊いても訊いても何も喋らなかったって言ってた」
「話せなかったよ、あの頃は。華耶だって苦労してるのは分かってたから、自分だけ苦労話はしたくなかった。知れば繍の連中が何するか分からないし」
「そうかも知れないけどな。ま、今は私に言えるようになったから安心したってよ」
「みんな同じ事言う」
「それだけ心配かけてたんだよ、お前」
毛布越しに抱かれて、その温もりに安心する。
「寝るぞ。ちょっと分けろ」
一枚の毛布を二人で分ける。彼女の体温のお陰で震えは収まった。
そうやって守られている状態だから、言える事もある。
「本当は刀を返しに行くの、すっげえ滅茶苦茶嫌なんだ。どうして俺が親の仇だって名乗りに行かなくちゃいけないんだって思ってしまう。自分が逆の立場だったから、余計に」
「代わりに行こうか?なんか、適当に言い訳してさ」
「いや…それは駄目だよ。自分で行くけど。それが責任って奴だと思うけど。でもしんどい」
「そりゃそうだろうな」
「龍晶の言う通り、年貢の納め時なんだろうな。お前と幸せになる為には、それくらいの事はしなくちゃいけないんだ。それだけ罪を犯してきてるから」
背中を抱く腕の力が強くなる。
「そう思うなら、まだ壊れるなよ?」
「うん…大丈夫。壊れても治るから」
治らない所もあるだろ?と思ったが。
腕の中で眠る顔を見て飲み込んだ。
朝方の事を思えば、確かに治っている。




