3
周囲の雑音から耳を塞ぐように眠り続けた。
現実に生きる価値は無かった。否、現実から己の存在を拒まれている。この世界に居場所は無い。
目が覚めると己が生きている事に怯え、死ぬ方法を探った。
でもこの部屋にその方法は無い。かと言って出て行くのはもっと恐ろしかった。
華耶だけがこの空間に踏み込んできて、憔悴し切った心身を抱いて共に寝てくれる。
それでどうにか現実を忘れられる。
だけど悪夢が心を休める事を許さない。
何度も、何度もあの夜に戻される。早く忘れたいのに、同じ事を夢の中で追体験して恐怖の中で目覚める。
粟立った腕を、華耶の手が撫でる。
「また怖い夢を見てたんだね」
囁く声に安堵した。
もう一度目を瞑ろうとして。
声が聞こえた。
――その女が居なければお前は死ねていたぞ。
鋭く息を吸って目を見開く。
華耶の口が動く。が、声が聞こえない。
亡者の――否、己の作り出した声が、頭の中を満たした。
殺せ。今からでも遅くないだろう。
殺せ。共に死にたいんだろう?
殺せ。お前から全てを奪うよう画策したのはその女だ。
殺せ。
殺せ。
殺せ――
起き上がって。
躰の上に馬乗りになり、首に手を伸ばした。
指先に力を込めて、気道を塞ぐ。
一度喘いで、彼女は真っ直ぐに己を殺そうとする夫を見上げた。
そして、苦しげに微笑んだ。
指先の力はそれで奪われた。
思い出した。過去の自分にそれが重なって。
兄に戯れで首を絞められた。同じように抵抗せず、殺してくれと懇願する代わりに笑んでいた。
心底それを望んでいた。
同じ笑みだった。
「…ああ…」
口から声が漏れた。逃げるように彼女から離れた。
正気が襲う。お前は何をした、と。
出られなかった部屋を飛び出して、足を縺れさせながら走った。
何も考えられなかった。気付いたら一つの扉を開けていた。
「龍晶?」
きょとんとした朔夜の声。
隣に寝ていた波瑠沙も起き上がった。
「華耶の首を絞めて…殺そうとした」
荒い息の中で己の所業を正直に口にした。
「様子を見てくる」
波瑠沙がすぐさま走って行った。
朔夜は何も言えずに目を見開いていた。
龍晶はその場に座り込んだ。酷く体が震えて、己の足で立ち続ける事も敵わなかった。
頭を腕で抱えて、何も見えぬようにしながら友に言った。
「殺してくれ」
「…嫌だ」
「頼むから…殺してくれ」
語気強く叫んで、手の隙間から友を見る。
動けぬ朔夜の顔は怒っている。
「こっち来い。そこじゃ手が届かない」
聞き届けてくれたという事だろうか。
言われるがままに傍らへ這ってゆく。
朔夜が顔を顰めながら上体を起こし、隣の布団を指した。先刻まで波瑠沙が寝ていた場所だ。
そこに乗れば、まだ温もりが残っていた。
「どうしてそんな事を」
問いかけに、首を横に振った。
説明など出来なかった。そして無意味だった。
何の言い訳も出来ない。ただ断罪してくれる事を待つ。
「華耶が嫌いになったから?」
今度は激しく首を振った。決してそれは当たらない。
朔夜は溜息を吐いて、腕を持ち上げた。
殴られる痛みを覚悟して待った。
ふわりと。
頬に手が当てられた。
「…お前の事、俺が責められる訳が無い。俺がもっと酷い事をする可能性があるから、お前の所に行って貰ったんだ」
「でも…」
それを裏切った。
「大丈夫だよ、龍晶。それがお前の意思じゃない事は分かってる。華耶も分かってるよ。あいつは俺の事を散々見てきたから」
何も言えなかった。開きかけた唇が震えた。
「お前のは治るから。いつか絶対に治るから、だから生きろ」
頬に重ねた手の中に涙が落ちた。
頭を下げるように俯き、しゃくり上げながら、龍晶は言った。
「生きなきゃいけないのは分かってる…。でも、この頭は死を選ぼうとする。もうどうして良いのか分からないんだ。…朔夜」
手に手を重ねて。握りしめて。
「助けてくれ…」
自然に、伸びきっていた足が動いた。
正面に向き直って、頭を抱え、肩を抱いた。
この一言を、ずっと待っていた。
真正面から伸ばされた手を、やっと握って。
「勿論だよ。今度は離れないから。目隠ししてても歩けるように手を引いてやるから」
肩を支え上げて、正面から見据えて。
「だから、生きろ。頼む、生きてくれ。そうじゃないと、俺も華耶も崩れちまうから。お前が居ないと…」
言いながら溢れた涙に自分で笑って。
「駄目だな。想像出来ないや。そんなの」
泣き笑いをそのまま向けて、友に言った。
「大丈夫だよ。何とかなる。生きてるお前が居る事が、俺たちにとって一番重要なんだ」
雫の乗った唇が、少しだけ笑んだ。
ふっと力の抜けた体を抱き止めて。
「朔夜」
「うん?」
「お前が居てくれて良かった」
「…うん」
友の深い呼吸音を、耳元で聞いて。
「俺も」
これ以上、何も失わせない。
華耶は寝台に仰向けになったまま、暗い天井を見詰めていた。
燭台に火を入れると、瞳に強い光が宿った。
「大丈夫か?」
波瑠沙の問いに、小さく顎を引く。
首には手形が赤く付いていた。
顔が見える位置に座って、波瑠沙は教えた。
「あいつは朔の所に自分で来た。だから大丈夫だ。これ以上変な真似はしない」
「…正気に戻ってましたか」
「ああ。今ごろ大反省会だろうよ」
華耶はふうと息を吐いて微笑んだ。
そして起き上がって、波瑠沙に並んだ。
「本当は怒ってるけど、表に出せないから、こういう形で現れるんだろうなと思って」
「怒ってる?何を?」
「私が彼から王位を奪い取った事」
波瑠沙は膝の上に置いた腕を頬杖にして、考える顔をした。
「あいつを生かす為だったんだろ?」
華耶は頷いて、しかしすぐに首を振った。
「狡い方法だったと思います。結果的に。本当は一緒に死のうと思ってた。心からそう思ってたんです。だけど、私が死ぬ事を彼は許さなかった。だから、私が全て奪ってしまった」
「それで怒ってるって?だとしても、あいつの選んだ事じゃねえか」
「選べなくしてしまったんです。私が」
「ま、そりゃ人として当然の選択だな」
華耶は頷いたまま項垂れた。
「させてはいけない選択でした」
波瑠沙は不満そうに鼻から息を吐いた。
天井を睨んで言い捨てた。
「死ねば良かったって?ふざけんなよ」
驚いた顔の華耶を、横目で捉えて。
「お前ら二人とも死んだら、朔も死に急ぐだろ。こっちからしたら大迷惑だ、そんなの」
「あなたが居れば、そんな事…」
「あるよ。あるから大迷惑だって言ってんだ。止めるこっちの身にもなれってんだ」
怒った顔から、にやりと笑って。
「何を犠牲にしても生きてるに越した事は無い。お前らの選択は正しかった。それは確かだ」
華耶も、涙をいっぱいに大きな目に溜めながら、笑って頷いた。
「さてと、美味い飯でも作ってやろうや。あいつらにたんと食わせるぞ」
勢い良く立ち上がって、まだ寝台に座ったままの華耶へ手を伸ばす。
彼女は頷いて、笑顔でその手を取った。
豪勢な朝飯となった。
波瑠沙は華耶から握り飯の作り方を教わり、華耶は波瑠沙の北方料理を習った為だ。
それらを盆に敷き詰め両手に持ち、波瑠沙は扉を器用に足で開けた。
「おら、野郎ども、食え!」
勢いよく入り込んだは良いが。
「は?」
「え?」
その体勢に疑問を呈する「は?」と、何が問題か分かっていない「え?」である。
朔夜は横たわる龍晶の上を跨ぐ形で四つん這いになっていた。
はたと気付いて、顔を赤く染める。
「いいいや違うって!たまたま!ちゃんと寝かせようとしただけ!!」
がばりと体を退けて、あっ、と顔を明るくして。
「足、動くようになったよ!」
「そーみたいだな」
棒読み。
「いや、違っ、誤解…!ほんとに誤解です!」
また焦りだして、忙しい。
華耶が後ろで堪え切れないとばかりに噴き出して笑っている。
「どう思う?この男ども」
呆れ顔で波瑠沙が問うと、華耶も笑いで顔を赤らめながら。
「良いんじゃない?私は良いや。朔夜なら」
「待って華耶、それは、ちょっと、おかしくないですか?」
「誤解されとけ。もう手遅れだ」
「何だそれーっ!?」
絶叫を他所に盆を床に置き並べて。
華耶は空いた手で夫を揺すり起こした。
開いた薄目に、とびきりの笑顔を映させて。
「仲春、ごはん食べよ!」
何度か瞼を瞬き、目を丸くする。
新婚の頃に戻ったかと錯覚して。
「食おう、龍晶」
「おう、食え食え。細っこい男子どもが」
朔夜の誘う声と、波瑠沙の煽る声に、これは現実だと気付いて。
もう一度、華耶の笑顔を目に入れて。
心から、笑い返した。
「華耶」
名を呼び、浮かした手を握る。
そのまま引っ張り起こされた。
その力の強さに瞠目している間に抱き付かれて、口付けを受けた。
「うわーい」
「あっつー」
冷やかしの声なんて耳に入っていないかのような華耶と、ただ目を見開いて受けるしかない龍晶と。
離れると華耶は声を立てて笑った。可笑しくて仕方ないという風に。
龍晶は染めた頬を俯けて、まるで少年のように恥じらっている。
「良かったなぁ龍晶。これで一件落着、元通り。なーんも気にする事無いからな?」
言う朔夜の後頭部をはたいた。調度良い位置にあった。
「いってぇ…な!なんで手が出るかな!?」
「そこに居るからだ」
「りふじん!!」
女達が笑い、笑ったまま華耶が言った。
「朔夜もこのくらいの事はするようになったんでしょ?前なら見てるだけで真っ赤だったもの」
「おお、違いないな。お返しといくか?朔」
「いや待っておかしい。それはちょっと」
「照れてるのか、好きな男の前では出来ないのか」
「は?いや、だから」
「真顔になってるぞ」
また笑われる。喋っても良い事が無いので握り飯を口に入れておいた。
「ん…華耶のじゃない!」
黙るつもりが思わず喋る。
「お前それ食って分かるのかよ」
突っ込みながら齧った龍晶は黙った。
二人で目を見合わせる。
「何それ。不味いって意味?」
目を細めた波瑠沙が問う。
二人して必死に首を振った。
「美味いよ。すっげー美味い」
「なんつーか、こう…人によって握り方って違うんだなって…」
「で?」
にっこりと問い詰める。怖い。
「いや、ほんとに、美味いから…」
たじたじの二人。
「これ、波瑠沙さんに教わった哥の料理!食べて!」
華耶だけ無邪気に皿を差し出す。
「おお、美味そう!」
小麦を練って平たく焼き、間に野菜や肉を挟んだものだ。
朔夜はすぐに取って口に運んだ。
「うっまー!これめちゃくちゃ美味いよ!」
「良かった」
「私が教えたからな」
「うん、さすが波瑠沙!」
機嫌を取る事を覚えた。まだまだわざとらしいが。
華耶は自分で一つ取って、夫の口に運んだ。
「どうぞ」
二人きりなら食べるけれども。
「あ、ええと、後でも良いか?いきなりこれだけ食ったら腹が…」
「あ、そうよね。まだお粥をちょっとしか食べた事無いもんね」
握り飯一つで十分過ぎた。それよりも華耶の行為だけでお腹いっぱいだ。
あと問題は、向かいの二人のにやにや顔。
「照れるなって」
「そこは愛妻の手作り料理を食うべきだよな」
「あーん口開けてってさ」
「口移しでも良いよ」
「てめーら自分でやれ」
怒り混じりの返しに目を見合わせて。
「やっても良いぞ?」
「え?やる?本当に?」
乗り気なのは当然波瑠沙で、いざとなるとちょっと及び腰の朔夜。
「あ、見たい見たい」
華耶に囃し立てられる。本人はそんなつもりは無いのだが。
「うん、じゃあ朔、選べ」
「へ?握り飯を?」
「それもだが、どうやって食いたいか」
「えええ選ぶ?えっと、普通に食いたい」
「はあん?分からねぇ奴だな」
「じゃあ口移し」
しれっと横から龍晶が答える。
「おまっ…!?」
「冷やかした罰だ。当然だろ」
何も言えずにぱくぱくする口を、波瑠沙が捕まえた。
華耶は両手を頬に当ててにこにこと見ている。龍晶は横目に確認して、鼻で笑った。
「あー、やっぱり朔夜だねえ」
「顔がウブなままだな」
赤い顔をして目を回している。
「だいぶ修正したんだけどな。二人の前だと駄目か」
波瑠沙が指先で頭を掻きながら言った。
「でも朔夜の奥さんが波瑠沙さんで良かった。お姉さんみたいな人じゃないと朔夜はここまで出来なかったと思う」
華耶の言葉に龍晶も苦笑いで頷いた。
「年下は無理だよな、こいつ」
「そうだよね!?想像出来ないもん」
「主導権握ってくれる強い娘が居れば別だけど」
「いや、でもやっぱり私は波瑠沙さんが一番お似合いだったと思う。こんなにぴったりの人に出会えるなんて、朔夜は幸せだよ」
「不幸の分だけ幸福って回って来るんだろうな」
「そうだね。私もそうだった」
龍晶は朔夜から華耶に視線を移す。
信じきった目を向けられている。
波瑠沙が空咳をした。
「お二人さん、あとは自室でごゆるりと過ごしたら?」
「いや、でも」
龍晶が尻込みした。流石にまだ二人きりは怖いらしい。
「大丈夫だよ。変だと思ったら突入するし、お前もいつでもこっちに来たら良い」
「…じゃあ、そうする」
「華耶もいつでも逃げて来い」
「逃げる事無いけど、遊びに来るね。ありがとう波瑠沙さん」
笑顔の二人を見送ると、まだ目を回している朔夜の頬を引っぱたいて。
「いつまでそうしてるんだよ」
「うーん」
起き上がって自分でも頭を叩いて。
「仲直りしたね」
「ああ。無事解決…かな?」
「とりあえず、今日はな」
言いながら華耶の作った方を掴んで食べる。実に美味そうな笑みで。
「朔」
「ん?」
「足が治ったならやって貰いたい事の一つや二つや三つはあるんだがな…?」
朔夜は無言で口に引き攣った笑みを貼り付け、口の中のものを飲み下した。
寝台に座って誘う意味で横を空けたのに、彼は壁に背を預けて床に座った。
二人きりになると現れる、微妙な距離感。
苴に行く前、懸命に埋めてきたものが、今また露わになっている。
四人の時は埋められたと思ったのに。
同じ事を思ったのか、夫は首を横に振った。
「…そうじゃない。ただ、隣に居る資格はまだ無いと思うから…。説明させてくれ」
「説明?」
今度は縦に首を振って。
「正気である内に。俺がこうなった理由」
華耶も頷いて、先を促した。
それでもまだ言い淀んで、長く息を吐いて。
「…芥子の薬ってものがあってな…」
一度言葉を切る。
華耶の顔は怪訝そうに少し傾けられる。
やっぱり知らないのだと思い直して。
己の口で全てを告げねばならない。
今まで逃げていた代償だ。
「それを吸うと苦痛を全て忘れられる。その代わりに頭も体も蝕んでいく、そんな薬だ。それを、吸わされてた。子供の頃、体を切り取られた時から始まって、兄やその取り巻き達に甚振られる時、必ず。そうやって俺から王位を継ぐ為の能力を奪ってたんだと思う。俺もそれに甘んじた。生きていく辛酸を舐めるより、兄に壊される事を望んでた」
それが本心だったと思う。
薬に誤魔化された快楽の為に、身を売り汚す事を選んだ。それ以外に息詰まる現実から逃げる方法が無かった。生き残る為の唯一の術でもあった。
「戴冠の前、兄と母を失って、あまりにも絶望してしまって、今度は自分の意思であの薬を吸った。それで更にこの頭は壊れた。幻覚も幻聴も、その代償だ。処刑場からの帰りに倒れた事があっただろう?あれは己の作り出した幻に惑わされ、自死しようとした所を朔夜と桧釐に止められたんだ。朔夜は誤魔化してお前に説明してくれたけど…でも、もう一度あったら自分の口で説明するって約束した。これがその約束だよ」
「そうだったの…」
華耶の言葉に頷いて、膝を抱える腕には更に力が入った。
本当は逃げたかった。何も言わずに目も耳も塞いでいたかった。
「苴で…また吸わされた。兄の時のように。俺ももう死ぬと思ってたから、抗わなかった。壊れれば良いと思って。実際壊された。でも死ねなかった。…それが一番怖い。もうどうしようもない所まで来てるのは自分で分かる。多分これからも狂っていくし、治らない。また華耶に何かするだろうし、自傷や自殺行為も繰り返すと思う。本音を言えばまたあれを吸って楽になりたいって思ってる。もう駄目なんだ。廃人なんだよ。ただ息をしてるだけで苦しい。…華耶」
腕の中に埋めた顔の、切実な瞳が、救いを訴えていた。
「これでもまだ一緒に居たいって言える…?俺と会えて幸せだったなんて、そんな事言えるか…?」
やっと教えられた距離感の正体。
華耶は安堵の息を吐いて、微笑んだ。
「どうしたら楽に息ができるか、一緒に考えていこう?」
龍晶は動かなかった。動けなかった。守れない己の体を守るべく固く膝を抱いたまま、その不思議な人を見ていた。
皆、己を置いて消えていくか、攻撃するか、どっちかだった。
どっちにも当て嵌まらない人が、ここに居る。
その人は寝台から降りてきて、隣に座った。
「もう大丈夫。あなたは安全な場所まで辿り着いたの。もう自分を壊して削り落す必要は無いから。ゆっくり治していこう?ね?」
背中を抱く温もりに心が震えた。
全て知って包んでくれる手は、これまでと違った。
目を閉じて。その感覚だけを信じて。
手を引かれるままに歩もうと決めた。何も考えず、何も恐れず。
頷いて、彼女の中に身を委ねた。




