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空気に秋の気配が漂い始めた。
一番暑い時期にあの一件があり、上体を起こせるようになるまでひと月掛かった。
まだ立ち上がる事は出来ないが、一切消えていた足の感覚は取り戻しつつある。
秋の初めの満ちつつある月が、傷の治癒を早めてくれているようだ。
十三夜の月を窓から眺める。
後ろで波瑠沙が、伸びた髪を拭き梳かしてくれていてる。
華耶に切って貰ってからほぼ一年。寝ている間にまた伸びて肩より下の長さになった。
「また髪切って貰おうかなぁ」
呟くと、後ろから不満気な声が上がった。
「えー。せっかく手入れしてやってんのに」
「それも面倒かなぁと思って。波瑠沙が良いなら別にいいけど」
「お前の綺麗な髪が好きなんだ。もうちょっと伸ばせよ」
「うん…じゃあ、そうする」
波瑠沙がそう言うなら、短くする理由なんて何処にも無い。
「お月さんと同じ色だな」
銀色の月明かりに摘んだ髪を透かして彼女は言った。
「だからかな。繍で月は悪魔の象徴だった」
「そうなのか?哥では逆だぞ?砂漠の太陽は嫌われ者だが、月は友達だ」
「そっか。太陽出てたら干からびちまうし」
「哥人は夜が好きなんだ」
「梁巴もそうだった。夜はみんなで楽しく過ごすものだったな。俺もよく笛を吹いてた」
「へえ。聞いてみたいもんだ」
「うん。お気に入りの笛があったけど、戔に置いて来たからなあ」
婚儀の時に吹いたあの笛だ。
いつかまた、この手に戻ってきたら波瑠沙の為に吹こうと思った。
戸の外から声がした。
「朔、俺だ」
「燕雷?」
「入ってくれ。今手が離せない」
波瑠沙が呼んで、戸が開いた。
二人の様子を見て、彼は意味深に笑った。
「良かった。こんな時間だから最中にお邪魔したら悪いなと思って」
「え?」
すぐには意味の分からない朔夜と、波瑠沙は鼻で笑って。
「足腰立つようになるまでお預けだよ。当たり前だろ」
「そうか。どうだ、具合は」
こちらに来て以来、燕雷と話すのは実は初めてだった。顔を合わす機会が無かった。
それでも何が起きたかは把握されているのだろう。
「あと足だけだよ。それももう少しって感覚はある」
「そうか。それは良かった。落ちた直後のぼろっぼろのお前を見てるからな。よくここまで治ったもんだと思うが」
「月に日々治して貰ってるから。あと、波瑠沙のお陰」
「そうだろ?私の献身的な看護のお陰だ」
「感謝してます」
目を見合わせて笑う。
「うわぁもう、惚気が過ぎるわお前ら」
燕雷も笑って、親指で後ろを指した。
「向こうのご夫婦はどうだ?」
動けないから龍晶には会っていないが、華耶から話は聞いている。
「あいつ、帰ってからほぼほぼ眠り込んでるんだって。目が覚めたら粥と薬を飲んで、また寝るって感じ。よっぽど疲れてるんだろうって華耶は言ってるけど」
朔夜から笑みが消えた。
「拷問で病が悪化したせいじゃないかと思うんだ。あと、芥子の薬の影響。華耶には言ってないけど」
「またあの薬を吸ってたのか」
燕雷が顔色を変えた。
「吸わされてたらしい。苴の王子って人に。そのうち一人は俺が殺した」
「…やっぱりお前だったか」
「頭に来て。薬を吸わせてあいつを虐めてたんだ。どうしても許せなかった…その結果がこれだけど」
「まあ、過ぎた事は言うまい。だがあの薬の影響があるとすれば、今後が心配だ」
「だよな。前もそれで散々苦労したし」
「だけどまあ、王位から外れたのは良かったかもな。余計な心痛からは逃れられる」
「…え」
「え?」
初めて聞いた顔をしている。寧ろ燕雷はそれにびっくりだ。
「王様、やめたって事?」
「やめさせられた、が正確だけど」
「誰に!?」
「苴王と灌王、それと皓照」
「…皓照…」
愕然と名を呟く。
この件に関しては、てっきり全面的に協力してくれるものだと思っていた。
「なんで…」
「生かす為の条件だそうだ。一度投降した王をそのままって訳にはいかんだろう。事前に灌王と華耶の間でそう取り決めていたらしい」
「華耶が!?」
「愛する男の命には変えられんだろう」
波瑠沙が横から口を挟んだ。
「彼女を責めるべきじゃない」
うん、と素直に頷く。
「責めたりしない。寧ろ感謝しなきゃ。あいつを生かしてくれたんだから」
でも、と顔を上げて燕雷を見る。
「灌王や皓照は、それを利用したんじゃないか?鵬岷を王にさせる為に…」
「そんなの火を見るより明らかだろ。皓照は最初からそのつもりだったんだ」
「最初って、いつ」
燕雷は一度口を噤んだ。
「俺が華耶を戔に呼びたいって言ったから?」
「違う。お前のせいじゃない」
きっぱりと言い切って、溜息を吐いて。
「あいつの頭は分からんよ。もしかしたら反乱の時既にその肚だったのかも知れないし、もっと前だったかも知れない。考えても仕方ない事だ」
「そっか…」
答えを知ったとしてもどうにもならない。
結局は、無意識のうちに操られるしか無かった。
「まあ、ここは良い方に考えよう。龍晶の事を想えば、ゆっくり体を治させてやった方が良いだろう」
「まあ、そうだな…」
それであいつが楽になるのなら。
だが、何か釈然としない。
「あいつ自身その事を知ってるのか?」
「ああ。流石に本人に黙って退位なんて事は出来ないからな」
「あいつがそんな話、飲むかなぁ。もう決まったんだから渋々飲んだんだろうけど」
自分の命と引き換えに、裏の見え透いた退位の話など、頷くとは思えない。
「本当は悔しくて仕方ないんじゃないかな。だから現実を忘れようとして眠り続けてるんじゃないかな…?」
「それは有り得るな。ま、大人しく寝ててくれるなら良いだろ」
「うん…」
頷いたが、果たしてこのままで済むだろうかと思った。
正直、自分ですら悔しいのだ。こんな形であいつに王位を譲らせる事が。
苦労して手に入れた、なんてものじゃない。あれだけ傷付き失いながら手に入れたものを、横から盗まれる感覚。
龍晶はどう感じているのだろうか。もう諦めたのだろうか。
「ま、それはそうと、お前に全く別の話がある」
「何?」
燕雷は改めて朔夜の正面に座った。
そして突然言った。
「墓を盗掘してきた」
「…は?」
朔夜と波瑠沙の声が重なった。
その反応は折り込み済みとばかりに笑って、燕雷は話を続けた。
「燈陰の骸を探してたんだ。だからここに顔を出せなかったんだが、漸く見つけた」
懐から掌より小さな巾着を出して。
「あいつの骨だ。ほんの少しだけど」
「…そんなの、どうすんだよ」
自分で思っていたより声は引っ掛かった。
頭の中を掻き回されるような。どの感情も当て嵌まらない。
「夫婦揃って眠らせてやるのが、俺の仕事かなと思って」
渡されるままに袋を受け取って、何も考えず開いた。
白い骨片。砕けて、もう何か分からないもの。
「お前は知らないと思うけど、あの戦の後、燈陰と俺とで梁巴の麓の苴領にお前の母さんの墓を作ってやった。それが俺達の出会いでもあった。あまりにもあいつが放心してるから、放っておけなくてさ。雪の中でずっと妻の亡骸を抱いてた。そのまま自分も死ねば良いと思ってたんじゃないかな。今のお前なら分かるだろ、その気持ちは」
波瑠沙の手が肩を抱いてくれた。
この温もりがあるから。
煙の中で波瑠沙を見つけ出した時、彼女の息がもう無かったら、きっと共に炎に巻かれて死のうとした。
そっと巾着を封して、差し出す。
「頼むよ。そうしてやったら、母さんも喜ぶ」
受け取らずに燕雷は問うた。
「お前も行くべきだと思うが?」
朔夜は俯いた。
まだ力の無い腕は、ぱたりと床に落ちた。
「まだ、動けないし」
「勿論、完治を待ってやる」
「いつまでかかるか…。いや、やっぱ、まだ無理だよ」
「無理か?」
「まだ梁巴は過去にならないんだ。俺の中で」
疼く胸を押さえて。薄く口元で笑って。
「何も終わってないから」
母の墓を見る事は出来ない。
それをしたら、あの夜を直視してしまう。
母の死を、認めてしまう。
その時自分がどうなるのか、怖い。
「駄目かな。逃げでしかないかな、こんなの」
波瑠沙に問うた。
同じく両親を亡くしている彼女の言葉は受け入れようと思った。
「お前が辛いなら、別に良いんじゃない?いつか、気の向いた時に行ってやれば」
頷いて、心の内で感謝した。
理解して、優しく包んで返してくれる。それが有難い。
「燕雷、あの馬鹿な親父の望みを叶えてやって。父に代わって礼は言う」
下げた頭を、ぽんと叩いて。
「親父って言えるようになったか」
「本人が居なけりゃ怒られる事は無いもん」
「そうだな」
遺骨を受け取って、それに向かって燕雷は言った。
「お前がもっと早く受け入れてやれば、朔も楽だったのに。お前のせいだぞ」
「それは無理だったって。急に方向転換されても居心地悪いし、信じられない」
「だからって素直になれなさ過ぎたよ、お前ら」
「良いんだよ。それは後悔してない」
「それは?」
他に何かあるのか。
朔夜は少し考え、口の端を上げて笑った。
「最後にちゃんとぶん殴っておけば良かったと思って。あの時は腕が動かなかったからなぁ。惜しい事した」
「ったく、お前は」
「仕方ないよ。そういう親子関係だったんだから」
波瑠沙が白い目で見ながら口を開いた。
「よく言うな。本当は大好きだったって泣いてた癖に」
「…それは誤解が…」
「事実を言ったまでだけど?」
固まる朔夜を他所に燕雷は大笑して立ち上がった。
「良かった良かった。お前がそこまで素直になれる相手が居て」
波瑠沙に視線を移して。
「お子様の世話を任せて大正解だったな」
「そういう事。今後も任せておけ」
「おお、頼んだ」
朔夜に向けて、骨の入った袋を少し持ち上げて。
「じゃあちょっと行ってくる。数日で戻るから」
「ああ。頼むな」
燕雷が出て行くと、また元通り。
艶やかになった銀髪を纏めてやりながら、波瑠沙は言った。
「いつか私の両親にもお前の事を報告に行った方が良いかな」
小さく、あ、と声を漏らして。
「そういうのってさ…」
「一生添い遂げる相手だから必要なんだろ?」
肩越しに振り返って、暫く見つめ合って。
「…俺でいいの?」
その一生が、何処までどのように続き、終わるのか、全く分からないけれど。
そこにずっと居てくれるのなら、こんなに嬉しい事は無い。
だけど同時に、怖くて。
再びこんな事が――否、自分こそが、彼女を傷付ける存在になる可能性は否定出来ないのだ。
その相反する二つの感情が、表情を複雑にする。
それら全てを問う。本当に自分で良いのかと。
「今更そんな事訊くのか?」
責められて、たじろいだ。
「だって、その…夫婦になるって話だと、こんなに相応しくない人間も居ないんじゃないかって、いやそもそも人間ですらないし…化物だから、俺は…」
「何言ってんだか」
一蹴されて、口を閉じる。目はまだあちこちに泳いでいるが。
「お前より華耶の方がよっぽどその気になってるぞ?彼女を止めるのは無理だろうよ」
「あー…」
情け無い声しか出ない。華耶は二人に式を挙げさせるべく楽しそうに計画を立てている。
「ま、この際だから言っておく」
後ろから肩に腕を回し、耳元に口を寄せて。
「私は何があろうがお前と共に居る。お前が悪魔だろうが化物だろうが、私はお前という存在を愛してる。子供は仕方ない。居てもきっと世話出来ないし。でも、お前が私を邪魔だと言うなら早く教えてくれ。きっぱり諦めて哥へ帰るから」
「そんな」
思わず身を捩って後ろを向いた。無理な動きに軋んだ骨が悲鳴を上げた。
痛みに力が抜けて、彼女の胸の中に身体を預けて。
涙で滲んだ目で、見上げる。
「嫌だ。一緒に居たい」
呆れたように彼女は笑って、目尻を指先で拭ってやった。
「そう言ってやってんだろ?本当に子供だな」
朔夜も情けなく笑う。
その口に、唇を落として。
「結婚とか、夫婦とか、正直よく分からないけど…俺、波瑠沙が望むなら、何でもするよ」
まだ鼻が触れる位置での言葉に頷いて。
「まずは早く体を治せ。そうしたら何でもして貰うからな?」
「…注文は俺に出来る事でお願いします」
「出来るようにさせてやる」
怖っ、と口元を引き攣らせる。
上でにやりと笑った口が、もう一度下ろされた。
墓標となった両親に言うべき事など一つも無い。それを親とも思えないから。
悪魔となった子の姿を見て二人共後悔しているに違いないだろう。父親はそもそも自分は 化物の親じゃないと言っていたのだし。
母は?この手にかけたであろう彼女に会う資格は自分に無いと思う。
だから、会いたいけれど、会わない方が良い。
今ごろ燈陰は妻に何が起きたのか説明しているだろう。だから自分から報告する事なんて。
あなた達のようになりたい相手が出来たなんて、そんな事言っても喜ばれる気はしない。
あの男に甚振られる夢を見て、声を上げて目を覚ました。
夢だと分かっても打ちのめされていた。それは変えられない事実でもあるのだから。
不気味なまでに静かだった。誰も居ない。闇の中に一人。
目を開けていれば亡者達が己を取り囲む。怨嗟の言葉が地中から湧き出るように。
まだ生きる気なのか。いい加減諦めろ。
役立たず。売国奴。
故国の滅びる様を、死して我々と見るが良い。
お前に生きる権利は無い。現実を忘れて生きようなどと、甘い事を考えるな。
死ね。国を滅ぼした罪を背負って。
「俺だってそのつもりだった…」
亡者達に口答えして、消えない幻覚を振り払うように固く目を瞑る。
そうしていると諦観が頭をもたげた。
これは己の本心なのだ。押さえつけた心がこうして外から聞こえるだけ。
ゆっくりと目を開ける。
声も姿も消えた。
部屋の中を改めて見回して寝台を降り、板の隙間から月明かりの漏れる窓を開けた。
ここから飛び降りれば、それで全て終わる。
窓枠に手をかけて。
ふっと、虫が鳴く声の近さに下を見た。
地面はすぐそこだ。ここは平屋なのだ。
「仲春?起きてたの?」
背中で華耶の声を聞いてもまだ呆然としていたが、笑いが込み上げて、同時に力も抜けた。
窓に手をかけたまま座り込む。華耶の手が身を包んだ。
「…月を見ようと思って」
妻に嘘を吐いた。
「綺麗だね。もうすぐ十五夜だよ」
無邪気に受け取って華耶は返した。
「朔夜はどうしてる?」
月の色を見ると自然にあいつの事を考える。
「まだ足が動かないけど、元気だよ。あなたに会いたいって言ってたから、行ってあげてよ」
回廊を少し歩けば着く距離なのだが、互いに酷く遠かった。
「…明日にでも行こうかな」
「そうしよう?私、二人の式の事を考えててね、仲春にも相談しようと思ってた。どうしてあげるのが良いかな。あまりに大掛かりには出来なくなっちゃったし」
「それはもう少し落ち着いてからでも…」
「うん。住まいが決まって落ち着いたらすぐにでも出来るように」
「…そうか」
そこに二人が共に来る前提なのか、そもそも本当に二人にその意思があるのか、朔夜はその点だいぶ怪しいぞとは思ったが。
楽しそうな華耶の顔を見たら水を差す気になれなくて、ただ頷いた。
ただ未来の計画に現実味が感じられないだけかも知れない。
現実そのものが曖昧だった。こんな今現在を望んですらいなかったのだから。




