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月の蘇る-5-  作者: 蜻蛉
第二十八話 切望
35/72

3

 寒くて寒くて堪らない。

 毛布一枚では足りない悪寒に震えている。南方にあるこの都はもう夏に近いと言うのに。

 薄衣一枚に覆われた己の体を抱いて震えていると、灌の牢屋を思い出す。

 あの時は朔夜が毛布を何枚も重ねてくれた。のみならず、自分の体温も重ねて。

 それで何とか生き返れた。

 今は、独り。ただし必要なのは毛布でも厚い衣でもない。

 祥朗の作る薬。熱を冷ますにはそれが何よりだ。

 逆に言えば、高熱が出せるまでに快復してしまった。

 本当に必要なのは死である筈なのに。

 生きてしまう。

 環境が変わり、磔も無くなった。乱暴を働く連中も来なくなった。そして範厳は一日一回必ず訪れて、粥と戔から送られてきたという薬を飲ませる。

 そうやって生かそうとする意味が全然分からない。

 範厳は孟逸との約束があるのだろうが、国はそれを容認していて良いのか。そもそも二人の約束にされる程の価値も無い。

 溜息が出る。震えが止まり、気怠くなってきた。

 意識が蕩け始める。浅く呼吸を繰り返しながら、重い右手で痛む頭を押さえて。

 手首の飾りが目に入った。

 華耶が別れ際に結んでくれた組紐。

 その中に編み込まれた銀色が、獄中の光に反射した。

 朔夜の髪。

 華耶が切った髪を編み込んでもう一度結ったのだ。苦しい口元に笑みが浮かぶ。

 こうしてずっと傍に居る。

 それをこの右手に付けて、彼女は祈った。

 二人は常にここに居てくれる。

 するりと右腕が落ちた。

 その手首を抱えるように、眠りに落ちた。


 夕闇が迫ってきて波瑠沙は馬の速度を緩めた。

 半馬身前を行っていた朔夜もそれに気付いて手綱を引いた。

「ここらで野宿といかないか?」

 波瑠沙の提案に朔夜は首を傾げた。

「まだ行ける。そんなに遠くないから」

「だから一晩で行こうって?それは無茶だよ。馬も疲れてるし、お前の身も持たないぞ」

「俺は大丈夫」

「昨日まで昏睡してた奴が何言ってる。焦っても良い事は無い。戦場に立つ気なら今夜ぐらい休養しておけ」

 朔夜は顔に不満を残しながら馬首を返した。

 波瑠沙は嬉しげに林の中を指差す。

「あそこ、川が流れてる。一夜過ごすには絶好の場所じゃないか」

「あ…ああ」

 浮かない返事は置いておいて波瑠沙はもう馬をそこに向かわせていた。

 朔夜はついて行くしかない。

 戦の行方が心配だった。こうしている間にも宗温達は苦戦をしている。兵が散ってゆく。それが共に過ごした子供達だと思うと堪らない。

 龍晶は?華耶は?どうしている?

 目前まで迫ると一刻も早く会いたかった。心配というより底の見えない不安に襲われる。明紫安は何も言わなかったが、本当に無事なのか。

「おおい、朔!」

 呼ばれて今この場に意識が戻り、馬腹を蹴った。

 考えても仕方ない事は分かっている。哥王のように見えるのならともかく、朔夜に遠い場所の出来事を知る術は無い。

 ならば目前の大事な人の望みを叶えるのが優先だと思い直した。

 波瑠沙は早速丁度良い河岸に馬を繋ぎ、薪を集めて砂地の上に置いていた。

 朔夜も馬を並べて繋ぐ。二頭は頭を低めて川の水を好きなだけ飲む。

「ずっと砂漠だったからな。この光景を待っていた」

 行軍中人馬が飲む水は運ばれていたが、当然無駄遣いは出来ない。どれだけ汗をかいても井戸のある場所に辿り着いてから、布を浸して体を拭く程度で我慢をしていた。

 それが今、滔々と流れる川がある。

 薪に火種を落とすと、早速身に付けているものを全部脱いでまずは洗濯を始めた。

 夜に近いとは言え、残照はまだ残っているし、焚き火が眩しい。

 朔夜は習い性で目を覆っている。

 胸を潰していた晒を洗い終わり、木の枝に干しながら、やっと相方の様子に気付いた。

「お前、まだそんな事やってんのか」

 心底呆れて声をかける。

「…だって、なんか、こう…」

「今更何の言い訳があるんだよ?もう全部見てるだろ」

「見るって言うか…目には入ってはないから…」

「あーあー、確かにあの時ほっとんど目ぇ瞑ってたな」

 声にならない抗議の声。顔を覆っていても真っ赤なのが判る。

「ま、美しさのあまり目が潰れそうってなら止めないけどよ」

 洗い物を終え、そのままざぶざぶと川に入っていく。

「来れば良いのに」

 前と同じように誘って笑う。

 目を開けて、その背中を見て。

「だって、今襲ってくる奴が居たらどうするんだよ」

「このまま戦ってやるよ。ま、居ないと思うけど?北は壊滅したんだし、残党はこんな所ほっつき歩いてる余裕は無いだろ?」

 それはそうなのだが。

「断る理由なんか探すなよ。それじゃあ大人になれないぞ」

 むー、と口を尖らせて。

 そもそも川に入るのは大好きなのだ。夏になれば華耶を連れて毎日のように遊んでいた。

 そう言えばあの頃は恥ずかしいなんて思わなかった。華耶も別に普通に見ていた。いつの間にかこうなっていた。

 濁流に流されたせいで川に行くのを止められて、その後から色々な事が変わっていった。

 今目の前にあるのは、輝くような梁巴の流れの続きなのかも知れない。

 そこに居る好きな人は変わったけれど。

「おい、朔…」

 振り返った波瑠沙はそのまま固まった。

 姿が消えている。さっきまで河岸で所在無げにしていたのに。

 何かあったかと岸に戻ろうとした時、水底を滑る銀の魚を見つけた。

 魚は隣まで来て水面に顔を出し、ぶはっと息を注いだ。

 続いて犬のように首を振る。髪から水が飛んで顔に散った。

「おまっ…何すんだよ!」

 波瑠沙の抗議に朔夜はけらけらと笑った。

 その顔にざぶりと水を掛けてやる。大口を開けて笑っていたから絶対に口の中まで水が入った筈だ。朔夜は咽せながらやり返した。

「ったくもう、餓鬼の遊びか!」

 先に馬鹿らしくなった波瑠沙が朔夜の体を抱え込んで止めた。

 朔夜の笑い声がそれでふいに止まる。

 濡れた肌の奥の温度を感じて。

 そのまま動きを止めていた。

「…本当に良いのかな」

 不安が迫り上がってきて、耳元に囁いた。

「俺だけこんな笑ってて。きっとみんな苦しい思いをしてるのに」

「ばーか」

 笑いもせず罵って。

「お前が心配する人の中に、お前が笑う事を止める奴なんて居るか?居たら私が殴ってやる」

 それでも戸惑う顔を撫でて。

「自分の幸せを断る理由を探すなって言ってんだよ。お前の仲間は皆それを願ってる筈だ」

「…そうなのかな」

「私が戔に行くのはその為だろう?戔王夫妻がお前の幸せを見たいから…」

 大事な二人の願いを思いながら。

 口付けを受け、手足を絡ませて水中に沈む。

 空気を共有しながら水面を目指して。

 ぷはっ、と波瑠沙が息と水を吐いた。

「あのな、お前は魚だから良いかも知れんが、こっちは人間なんだよ!」

「押し倒して沈めたのはそっちだろ!?ていうかこっちも人間!!」

 人間だと言い切ってしまった自分に気付いて。

 いや魚よりは人間だろとよく分からない言い訳を自分にする。やっぱり頭が混乱している。

「知ってるよ。知ってるから人間同士、続きは岸に上がってするぞ」

「え?あ?ええ…!?」

 片手で小脇に抱えられた。浮力がある分、地上より軽いのだろうが。

 砂の上に放り投げられる。足はまだ水に浸かって。

「やっぱ、その…拙いんじゃ…」

 馬乗りになられると弱気の虫が出て来て言い訳を始めようとする。

 波瑠沙はにやりと笑った。

「良いのか?やめても」

 ごくりと、唾を飲み込む。

 両手を浮かせて。体の求めに操られるがまま。

 彼女は笑って、初めて見せた欲情に手を伸ばした。

 何処かで保ったままの意識で、友の体の不自由さを初めて知った。

 我を忘れる程の快感の中にも渦巻く罪悪感は、全てあいつの為のものだ。


 人の気配を感じて意識が戻った。

 範厳が持ってきた薬を飲んで寝ていた。お陰で少しは楽になった気がする。まだ熱は下がりきってはいないが。

 だからまだ夜中の筈だ。実際、明かり取りの窓からは闇しか見えない。

 なけなしの体力を惜しむ気より、また何かされるのではないかという危機感が勝った。

 音の方へ首を巡らせて重い瞼を押し上げる。

 廊下の壁に手燭の輪が出来ていた。

 その輪の中に、ぞろぞろと人影が浮かんだ。

 終わりなのだと思った。

 夜陰に紛れて処刑台に運ばれるのだろう。しかし、何の為に?

 自分なら公開処刑にする。それで民の溜飲は完全に収まるから。

 否、自分の考えなど浅はかで、だからこそこういう事態を招いたのだろう。苴王には苴王の考えがある。尤もそんなもの考えても仕方ない。

 鉄格子の前に並ぶ人影をぼんやり見て、いよいよ来た時を受け入れるだけ。

 もう死んでいるも同然だから、覚悟は要らなかった。

 魂だけの存在になれば、あいつらの所に行けるのではないかと、寧ろ希望を抱いている。

 鉄格子の挟んだ視界の中に床几(しょうぎ)が置かれて何かおかしいと気付いた。

 無数の人影は身を低めて控えている。

 この光景。よく知っている。

 自分は面倒だし性に合わないので止めさせていたが。

 息が詰まって体が震えた。そして疑問は解かれた。この為に生かされていたのか。

 一際大きく見える人影が、ゆっくりと視界に入ってきた。

 身を起こさねばと藻掻いたが、見えぬ力に圧されているように起き上がれない。

 苦しさに紛れてその意味も見失った。あれは俺を殺そうとしている相手だ。

 喉を締めらているような呼吸を繰り返しながら、仰向いたまま首だけを向けて大きな影を睨んでいた。

 手燭の灯りがまともに顔にぶつかる。眩しい。

「戔王よ、初めて相見えるな。文のやり取りをしていたせいか初めてである気がしないが。儂が苴王 泰伯(タイハク)じゃ」

 濃い影の中にある苴王の姿を注視する。

 白髪白髯。だが巌のような顔形。成程、長く大国を治めていればこのような威厳が身に付くのかと、納得せざるを得ない姿。

 虫けらの如く転がっている自分とは全く別の種類の人間なのだと思い知った。

「噂には聞いておったが、確かに母君によう似ておるの。あれは南方諸国一の美女だと評判であった」

 母の顔を知っているのかと思い、当然かと驚きを打ち消した。苴とは歴代、外交上の付き合いがあったのだから。

 この先がどうなるのか。苴王の目的はその話ではないだろうか。

「その顔、もそっと近くで見たいものじゃ。こちらに来れぬか?」

 無理だ。起き上がる事さえ出来ないと言うのに。

 牢の扉が開いた。二人の男が入ってきて、彼らの手によって身を起こされ、後ろ手に縄を括られた上で両腕を掴まれ引き立たされた。

 進まぬ足を縺れさせながら牢の外へと出される。

 王の前で、鉄格子を背凭れにするように座らされた。

「ご苦労。済まんな、苦しかろうに」

 分かっていて言ったのかよと腹の中で毒付く。自分で動いた訳でもないのに息が上がっていた。

「病んでいても美しい顔じゃの。健康体ならば母と瓜二つじゃろうて。惜しいのう。おぬし、生きて儂の(そば)に侍るか」

 冗談は止せ、と首を横に振った。ただの好色からの謁見だったかと落胆する。

 苴王は低く腹で笑った。

「嫌か。国の為に死にに来たと言うのは本当だったか。その高潔さ、我が(そく)達に分けて欲しいものじゃ」

 何となく耳には入っている。苴王の息子は五人居るが、揃いも揃って遊蕩を尽くす暗愚な王子なのだと。

 大国の世継ぎとして生まれて贅の限りを尽くす事が運命付けられているからだろう。同じ立場であった筈の自分には何故か縁遠い生き方だ。

 この王が(たお)れれば、苴という国の先も分からぬのではないか。

 そんな未来を考えても無駄だが。

「おぬし、歳はいくつになる?」

 二十一、と吐息だけで答えた。

 それ以上に大きな溜息で苴王は応えた。

「我が嫡男より二十も下か…。流石に目眩を覚えるのう。甘やかし過ぎたか…」

 死ぬ相手なら自国の弱みを喋っても良いという事か。龍晶は老王の愚痴を聞かされるより無い。

 こんな国に屈さねばならぬ我が身を呪う。

 否、これから必ず戔は苴を追い越す。その為の礎だと思えば。

 相手を滅ぼす必要は無い。ただ強くなってそこに在れば良い。それだけで、戦は無くなる。

 問題は鵬岷にそれが出来るかどうかだ。彼だけが判断をするのなら危険も有るが、桧釐ら臣下を龍晶は信用している。必ず正しい道に若き王を導いてくれる筈だ。

 従兄と繰り返してきた喧嘩は無駄では無かったと思いたい。

「欲は無いのか、おぬし」

 問われて、沈みかけていた頭を何とか持たせた。

 だが、問われている意味が分からない。

「不遇から脱する為に兄王を討ったのではないのか。ならばこれからがその見返りを受ける時であろう?だのに、聞くところでは戔王室は倹約を第一にしているそうではないか。側室も全て断っているとか。おぬしは一体、何の為に生きたのか?何も欲が無いから死のうと言うのか?」

 そんな考えをした事が無かった。

 生き方が違えばこんなにも世界の見え方が違うのかと、それだけは面白く感じた。

 だけど苴王の言う事は分かる。そして正しいのかも知れない。

 何も欲が無いから死ねる。確かにそうだ。

「…早く首を落として頂きたい」

 喘ぐ息の中で漸く声を出した。

「我が欲する所はそれのみ…」

 伸びた眉の奥にある目が僅かに見開かれた。

 その目を射抜くような鋭さで睨み返し、しかし限界を感じてがくりと頭を落とす。

「良い目だ。…実に惜しい」

 うるせえな。惜しまずとも良いから早くやれよ。

 内心は勢い良く毒付いているのだが、肩で呼吸する息に違和感を感じた。咳が込み上げて止まらなくなった。

「陛下、お戻りを。この者は肺を病んでおります。伝染(うつ)るやも知れません。危のうございます」

 黒子達が苴王を立たせ、帰途へ追いやる。

 龍晶は咳の止まらぬ口を顔ごと布で覆われて、再び牢へと放り込まれた。

 数日ぶりに血を吐いた。糞がと罵り続けながら、這って毛布の中に戻る。

 再び震えが襲う。薬の効果が切れたのか、一連の出来事のせいか。

 悪寒は無い。それで気付いた。悔しさに震えているのだと。

 国も立場も忘れて一人の人間としてあの言葉を振り返った時、震える程の悔しさを覚えたのだ。

 贅沢な暮らしをして好きなだけ女を抱きたいから兄王を討ったのだと、本気でそう思われていたらしい。他国の反乱などその程度にしか見えないのか。

 それともそこまで苴が暗愚なのか。

 愚かな者達に他者の辛苦は見えないのだ。

 毛布に埋めた顔を歪めて嘲笑う。

 こんな国は放っておいても滅びるだろう。そうなってしまえば良い。俺に怨念が残せるとしたら、もっと酷い方法で消滅させるだろう。

 良い気味だ。

 息苦しさの中で笑いは消えた。

 もう他者を呪う力も無い。否、呪ってはならない。呪いは形を変えて戔に返るから。

 疲れた。早く。

 早く、最後の願いを聞き届けてはくれないか――

 明かり取りの窓に白い月が覗いた。

 ふと、考え直した。

 最後の願いは、一目でも良い、あいつに会う事だ。



  挿絵(By みてみん)

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