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月の蘇る-5-  作者: 蜻蛉
第二十六話 情欲
18/72

6

 苴哥二国からの攻勢は日に日に激しくなっていった。

 壬邑での膠着状態は破られた。止むを得ず宗温は兵を退いた。

 斥候によれば更なる敵援軍が向かってきているという。その隊こそが敵主力だという。

 峯旦(ホウタン)まで退却して陣容を整えると、宗温はその場を副官に任せ都へ帰った。王との約束がある。

 また遠く南部から聞こえてくる戦況も思わしく無い。

 すっかり雪の解けた都へ帰還して、花の蕾が綻び始めた美しい街を見、切なく溜息を落とした。

 春は希望を運んでくるものだと思っていた。

 僅か一年前は戴冠、婚姻、そして御子の誕生と喜びに満ちた季節だったのに。

 その幸せを全部手放させねばならないのだろうか。

 それは己の不甲斐なさのせいだと思い返してまた溜息が出る。

 せめて、少しでも彼の意に沿うように戦を進めようと、城の中へ入った。


「待っていたぞ、宗温」

 意外な朗らかさで王に迎えられた。

 室内には桧釐との三人のみ。他は人払いがされている。

「陛下…約束を果たせず申し訳ありません」

 まずは跪いて詫びた。龍晶は小首を傾げた。

「約束?俺は必ず帰って来いとしか言ってない。こうしてお前は約束を果たしてくれたではないか」

「私は敵の数を減らして帰ってきますと申し上げました。味方の数だけを減らしてこうして御前に参上する事は心苦しくあります」

「それは仕方ないだろ。蹴散らしても蹴散らしても敵は数を増やしてくる。お前が悪い訳ではない。寧ろ善く戦ってくれた。礼を言う」

「勿体のうございます…!」

「頭を上げてそこに座ってくれ。せっかくの密談だからな」

 冗談ぽく言って、桧釐の横の椅子を薦めた。

 円卓を三人で囲む形だ。立ち上がりながら懐かしいと思った。戴冠直後はよくこうして王と話をした。

 主従の立場無く話をしたいという心の表れだ。それはのっぴきならない今の状況がそうさせるのだと思えば矢張り心は痛い。

 同じ目線に座れば、近頃見なかったほど王の顔色が良い事に気付いた。

 窶れていた頬が膨らみを戻して血色を戻している。朱色の唇は常に僅かな笑みを湛えていた。酷い時には落ち窪んでいた目もぱっちりと開き、白眼は青く澄んで長い睫毛の影を落としている。

 改めて美しい人だなと感じ入った。少年の頃のような――否、あの頃にも無かった涼やかさが今の彼にはある。一言で言えば、幸せそうなのだ。

 そういう顔をして彼は言う。

「さて、そろそろ俺の首を差し出す時が来たと思うんだが、意見を聞きたい」

 表情と言っている事の落差に疑いすら持ってしまう。この人は本当に分かって言っているのだろうかと。

 当然のように桧釐は受けた。

「これ以上戦を長引かせるのは得策ではありませんな。陛下のおっしゃる通りですよ。南部は国境線が破られ成州の半分が敵の手に落ちています。穣楊(ジョウヨウ)に敵が達する日も近い。そうなれば多くの民を戦に巻き込みます。それは本意ではないでしょう?」

「ああ、当然だ。穣楊に達するまでも、多くの民を巻き込んでしまうだろう。敵の手に落ちた地区では、民が家を追われ農地を奪われ、逃げられなかった者は殺され、女子供は犯され攫われていると聞く。それだけでも許し難い。今すぐ止められるものなら止めたい」

「今後そういう者は更に増えるでしょう。さすればその止め方ですが」

 桧釐は腕を組んで宗温に視線を投げた。

「今後善戦出来そうな見込みはあるか?」

「身命を賭します」

「いや、根性論じゃなくて」

 大真面目に誓いを立てたのに二人から失笑されてしまう。

 苦笑いのまま龍晶が言った。

「要は俺をどっちに差し出すのが良いか、だよ。流石に両国へ首を渡す事は出来ないからな。まあ別に半分に切ってくれたって良いけど」

「瓜じゃないんですから、陛下」

 全く笑えない。

「そうせねばならぬのでしょうか」

 宗温は深刻に問い返した。

「ん、半分に切る?」

「そうではなくて!矢張り陛下を敵に差し出して戦を終わらせるというのは武人として…いえ、私個人としても悔しいのです。避けられるものなら避けたい。他に手は打てぬのでしょうか。戦ならば私が命懸けでなんとかします」

「なんとかならないからこうして話してるんだろ」

 身も蓋も無い桧釐の言葉を、まあまあと止めて。

「お前の気持ちは有難く受け取っておくよ、宗温。だけど俺がそう望むのだから好きにさせてくれ。これまでよく我儘に付き合ってくれた。感謝している。これが最後だ。堪えてくれ」

「陛下…」

「参ったな。あまりしんみりとしたくないんだよ。桧釐、なんか面白い事を言え」

「はあっ!?そんな無茶な!陛下の我儘がこんな所で極まってますけど!?」

「良い良い。お前はその顔だけで十分面白い」

「ひどい」

 桧釐のしょんぼり顔に笑わせて貰い、仕切り直して龍晶は問う。

「まあ俺としてはな、敗戦後の交渉をまさか自分でやる訳にもいかんから哥に行くのはどうかと思うんだ。桧釐が今から北方語を習得してくれれば良いんだが、ちと時が足らんだろ」

「無理です。百年あっても無理です」

「そうなると、哥との交渉は言葉を使わぬ方が良い。要は剣で語ってやって欲しい。宗温、出来るか」

「如何程の戦果をお望みで?」

「北州に手を掛けさせない事だ。壬邑は向こうにやっても良い。峯旦へ永久的に防衛線を張る。どうだろうか」

 宗温が頷くより先に桧釐が口を挟んだ。

「良いんじゃないですか?北州の若い奴らも張り切るでしょうよ。数は少ないが腕の良い奴らだ。宗温、お前の駒として使うと良い」

「それは心外だな、桧釐。彼らは駒として使われる訳じゃない。俺の民にそういう言い方はしないでくれ」

「ああ、それは失礼致しました。以後気をつけます。しかし陛下、まだ俺の民だと言えるんですね。安心しましたよ」

「どういう意味だ」

「だって、一時あなたは民に対して冷めてたでしょう?また裏切るんだろうって。その猜疑心が消えたって事でしょ、そう言えるのは」

 龍晶は素の青年の顔に戻って考えている。

 そして微苦笑を浮かべて呟いた。

「そうかも知れないな。人の手の温かさを知ったら憎めなくなった」

 命を助けた手の温もりは、意識が混濁していても感じられ、身に刻まれた。

「だからこそ、これからのあなたの治世を見たかったと…まあこれは宗温の繰り返しになるので止めておきますが」

 少し意外に思えて宗温は横を見た。

 桧釐はもうとっくに王の命を惜しむ気は無いのだと、そう思い込んでいた。

「宗温、全軍で当たれば峯旦を防衛する事は可能だな?」

 改めて桧釐に問われ、宗温は頷いた。

「峯旦ならば兵站も伸び過ぎず確保出来ます。壬邑よりはずっと守り易い。桧釐殿の言われる通り近隣住民からの支援も期待出来るでしょう。しかし全軍を向かわせられるかどうかは疑問です。苴の出方次第ではありませんか?」

「だから、苴は俺が抑えるよ」

 龍晶が言った。

「向こうは義戦…俺が憎いだけの感情で戦を仕掛けてきているんだ。この首を取れれば戦を続ける理由が無くなる。王や軍の上の者が野心を持っていても、民がついて来なくなるだろう。ただでさえ向こうは兵が足りないんだ。民が満足すれば誰も新たに兵とはならんさ」

 ただし、と龍晶は続けた。

「その前に苴軍を押し返してくれ。苴の民まで野心を持ち始めれば面倒だし、この首の価値を吊り上げたい。どんな手を使っても構わん、まず一つ勝つ事だ」

 宗温は頷いた。

「私はこれより南部に向かいましょう。兵の士気を上げ、現地を見て策を練ります」

「俺も行けば士気は更に上がるだろうか」

 すかさず王が自ら提案した。

「それが可能ならば良いのですが、お体に障りありませんか?」

「おいおい、死ぬ人間の体調を心配して何になる?それに言ったろ、俺は都の水が合わないんだ。もう一度南部に身を置いてみたい」

「お気に入りなんですな、あの地が」

 にやにやと笑いながら桧釐が言う。

「良いのではないですか?都に鵬岷様を置いて、別荘で夫婦水入らずの時を過ごしては」

 ちらりと目をやって、龍晶はやり返した。

「お前は身重の妻を看てやらねばならんだろ?供は無用だからな。ところで於兎は春音以外に四人子が欲しいと言っていたが、望みを叶えてやれるのか?あと三人だぞ?」

「えっ、陛下がそれを気にします?」

「想像したら絶対面白いだろ?お前が四人の子と妻に振り回されてる家庭。見てみたかった。あの世から観れると良いんだが」

「やめて下さいよ陛下ぁ。しんみりしちまうでしょ!?」

「いや?腹抱えて笑えるだろ。お前は於兎の尻に敷かれながら幼子を二、三人背中に乗せて馬にされてるんだ。ひいひい言いながらさ。別の子が自分もと泣き出す、それで於兎に怒られるんだろ。全部お前のせいになって」

「ひどい」

「あ、そういう時は是が非にも春音を混ぜてやってくれ。実父の情けなさを見て育てば自然と俺を敬するようになるだろ?」

「そういう事ですか?ひどい」

 冗談に包んでは居るが本音は分かる。賑やかな所で伸び伸びと育てば、春音は己の出自をさほど気にせず育つだろう。

「まあ冗談はこれくらいにして…明日には南部に発つか、宗温」

「御意に」

「華耶に早く知らせねばな。まだ早いが俺は戻るよ。後は善処してくれ」

 は、と桧釐は頭を下げる。

 頭を上げると、驚くほど真摯な瞳で見つめられていた。

 南部に行けばこの人はもう二度と帰って来ないかも知れないと、桧釐は悟った。

「長く世話になったな。よくここまで振り回されてくれた」

 そうだ。一番、我儘に振り回されたのは宗温より自分だという自負が桧釐にはある。決して有難くない自負だが。

「嫌だなあ陛下。そう思うなら少しは報いて下さいよ」

「もう十分報いてやっただろ。お前の為に前王を倒した。出世もさせてやった。妻に出会わせてやったし、子も授かった。これ以上何を望むんだよ?罰が当たるぞ」

「全部あなたのお陰ですか。まあ、そうかも知れませんけどね」

「それ以上に何度もお前の肝を冷やさせたかも知れないけどな」

「何度あなたを見捨てようと思ったか知れません」

「別に見捨ててくれて良かったんだぞ?」

「またまた。どうせ泣いて縋って来る癖に」

「いつの話だよそれ」

 にやりと桧釐は笑う。

 従兄弟で主従だが、根幹は悪友なのだと思う。反乱という悪だくみを成功させた悪友だ。

「俺に礼なんて似合わない事は良いですから、早く後宮へ帰って皇后様と睦み合って下さい」

「…お前な」

「はい?」

 言い返す気が失せた。尤も、何も良い文句が浮かばなかった。

 背を向けながら言ってやった。

「最後くらいは負けてやる。有難く思え」

「思いませんよ、そんな事で」

 扉は閉められた。呼び出しも無く急に出てきた王を従者達が慌てて追う騒ぎが聞こえた。

「不思議な方ですね。今が一番充実しているように見える」

 宗温が首を傾げるのを、ちょっとかなり品の無い笑みで見返して。

「お肌つやっつやだろ?そりゃ毎晩奥方を抱いてればそうなるよ。後宮はその話題で持ちきりだぞ。家に居る於兎の耳に届く程だからな」

 仲良しの女官が遊びに来て報告すると、於兎は黄色い声を出して喜んだ。華耶ちゃん良かったわねぇ、苦労した甲斐があったわねえ、と。

 彼女達はその理由まで思い至ってはいないかも知れない。本当は単純に喜べる話ではないのだから。

 裏返せば、周囲の耳目も気にせぬなりふり構わなさで龍晶が必死になっているという事だ。これまでの彼なら絶対に出来なかった事だ。

 死ぬまでに何かを遺したいから。愛する人の手に、何かを。

「ここに至って漸く人並みになれたと言うか。本当に惜しいけどな。もっと早く気付けば良かったのに」

「どうにかならないでしょうか」

「まだそれを言うか、お前」

「あの幸せそうなお顔を見てそう思わない方が嘘ですよ。あの方の苦労や不幸に報いる時間としては余りにも短過ぎるでしょう」

「まあ…それは確かだな。救ってやれるものなら救ってやりたいよ、俺も」

 沈黙が降りた。

 宗温もまた明日の為に準備をせねばならないのではと桧釐が気を揉んだ時。

「灌王から皓照様へ取り成して頂くというのは駄目でしょうか」

「皓照だと?」

「ええ。陛下の言われる通りこの戦の裏に皓照様が居ると言うのなら、それが最善ではありませんか?そうでなくとも苴王は皓照様の力を頼みにしている。影響は絶大です。助命は聞き入れて貰えるかも」

「陛下は怒るぞ。あいつの力を借りるのは御法度だ。戔の今後に関わる」

「ええ。ですから、陛下のお耳に入らぬよう秘密裏に動いてくれませんか」

「俺が?」

「灌王に書状を」

 桧釐は腕を組んだ。

「だが、苴がそれで良しとしても陛下は哥へ行くと言い出すと思うが。繋がった首の差し出し所を探すと思うんだよ、あの人」

「苴が戦を止めれば恐らく哥もそれに倣うと思いますよ。二国が通じている可能性は高いのですから」

「そうか?あの大臣は強欲だと見えるが」

「強欲でも慎重にならざるを得ないから今回こういう策を取ったのでは?大臣には朔夜君の他に恐れているものがあるのでしょう。或いはそれが皓照様だと考えられませんか?」

「あいつの力が哥にまで及んでいるって?」

「陛下が届けられた苴灌の書状の裏を見ればそれは明白だと思いますが」

 桧釐は唸って頷いた。

 それは確かだ。南方諸国を国を超えて統べる何者かが居ると、大臣は気付いただろう。

「分かった。書状は出してみよう。それだけの価値はある」

「ええ。陛下の為に」

「あの人の幸福の価値か。素直に受け取ってくれれば良いんだが」

 今なら、要らん事をと苦笑いしながらも受け取ってくれそうな気はする。

「そうか…この春で二十一か…」

 春に産まれた子だと、朱華は目を細めて教えてくれた。

 蝶々のような子。弱々しく儚いけれど、その姿は美しく芯は強い。

 そう叔母は言っていた。

「あと五十年は生きて貰いましょう。ね?」

 宗温の言葉に桧釐は笑った。

「どうなってんのかな、俺達」

 自分が八十まで生きているとは思わないが、そうなったとしても変わらない気がする。

 悪友が悪いジジイになって含みのある悪口を言い合っているのだろう。

 そこに変わらず美しい華耶が居て、一人だけ置いてけぼりのように子供のままの朔夜が居るのかも知れない。

「そう言えばあいつどうしてるんだろ」

 すっかり存在を忘れていた。生きているとは教えられていたが。

「誰が?」

「朔夜」

 あ、という顔を宗温も見せた。忘れていた共犯だ。しかも宗温は朔夜の誠意を買っているのに。

「哥に居る?」

「だろうな。死んでなければ」

「哥王を救っている?」

「そう動いているとは思う」

「成功しますかね?」

 桧釐は一呼吸置いて宗温を見返した。

「させるんでない?」

 二人は笑った。軽口だし何の根拠も無いが、一つ荷が軽くなったような気がした。

「矢張り私は南方に集中した方が良さそうですね。北から救世主が現れるとなれば」

「大袈裟な。せいぜいあいつは小悪魔ちゃんだろ?」

「見た目はそうですね」

「中身もだよ」

 もし成功させたら今までの事は水に流してやっても良いかなと桧釐は思った。

 世間は父親の首に向いている。悪魔はもう去ったと。

 ならばこの機にあいつも変われば良いんだと思った。悪魔だの何だのと呼ばれない、普通の子供に。


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