13、夜鳴く鳥の歌を聞き
「まだどこかに、魔導師の残党がおるやもしれぬ。
ポータに結界を張らせておくが、人の手で扉を開ける時には気をつけよ」
先ほど王太子が言い残した言葉を思い出し、フライオはすぐに扉を開けなかった。
開きにくいふりを装って、わざと半端に隙間を開け、相手の顔をまず確認する。
闇の中から覗くルーラの顔には、どこと言って怪しい部分はなく、死体でもない証拠に、夜気に吐きだす息がわずかに白い。
その白い息の中から、微かな音が飛び出した。 一瞬、細い風のようなものが、傍らを通過して室内に吹き込んだような気がして、歌人は思わず室内を振り返ったが、何も発見することは出来なかった。
「何をやってるの? ねえ、早く中に入れて」
ルーラが焦れて、自分で扉を押し開けようとする。
「あっ、待ってくんな。 ちょっと開きにくいドアで」
フライオがドアを抑えにかかった途端、とんでもないことが起こった。 バキバキと音がして、ドアがあっけなく真っ二つになってしまったのだ。
「あらやだ、壊れちゃった」
「ル、ルーラ! いつの間にそんな怪力になったんだ」
「いやあね。 板が腐ってただけじゃないの」
ルーラは涼しい顔で笑って見せたが、壊れたドア板を片手のみで外に放り出したことを、本人は異常と思っていないようだ。
フライオは室内へと後退りした。 ルーラがニコニコ笑いながら踏み込んで来る。
「ええとそれで、ルーラ。 何の用事だい?」
「会いに来たらいけないの?」
「よ、夜もずいぶん遅いじゃねえか」
「だからいいのよ。 さあ、ベッドを開けて、温め合いましょう」
ベッド代わりになっている、ボロボロの寝椅子の上から、ルーラはフライオのマントや脚絆を払い落とした。
「ねえ、ここに来てあたしを抱いて頂戴」
寝椅子に腰を下ろして、熱い瞳で歌人を見上げるその顔は、確かにかなりの色気があり、イリスモントがいたら、お手本に見せてやりたいくらいの出来だった。 しかし歌人は放り出された荷物を拾い上げると、寝台から飛び下がって逃れた。
「あんた、誰だ? ルーラじゃねえな」
「え? 何を言ってるの、あたしを疑うなんて……」
すまして取り繕おうとする相手の言葉を、フライオは遮った。
「ルーラどころか、女とも思えねえ。 多分あんたは魔導師だ。
その様子だと、俺とルーラの関係を知ってるみてえだが、あんた自身は女を知らねえな。
男が逃げ出す支度をしてんのを見て、何にも言わねえ女なんかいやしねえんだよ!」
言い放ってから、フライオは身構えた。 攻撃ではなく、逃亡のためだ。
相手が呪術を使うのであれば、歌人には武器がある。 しかし剣を出されたらお手上げだ、逃げ出すしかない。
次の刹那、荒々しい咆哮が小屋を揺るがした。
底抜けルーラの白い顔がたちまち歪み、ふっくらした顔の表面が見る間に黒い剛毛で覆われて行く。 鼻先がぬっと突き出し、切り裂かれたように口が大きく開くと、そこには鋭い牙が上下にずらりと並んでいた。
「岩狼だ!」
後退しながら、咄嗟に腕で顔を庇う。 その腕を飛び越えて、岩狼は天頂から襲い掛かって来た。
自分でも情けない悲鳴を上げたのがわかった。
床に転がって住んでのところで牙を躱したが、相手は着地と同時に次の攻撃に移っている。
岩狼は、この世の獣ではない。 魔導師が使役する、いわゆる魔獣なのだ。 まともにやり合っても勝ち目はない。
長い牙が肩口に食い込み、全身を痛みが貫く。 無我夢中で相手の鼻づらを掴んで口を外そうと押し返す。
これはついに一巻の終わりかと思った、その瞬間だった。
「フライオ!」
ドアのない戸口から、小柄な人影が飛び込んで来た。
剣士の略装、月の光を放つ金の髪、握りしめた小さな短剣。
王太子イリスモンドである。
彼女は岩狼には見向きもせず、一直線に部屋の中央まで走り込んだ。 そして中央の丸太の柱に駆け寄ると、その真ん中に深々とナイフを突き込んだのだ。
恐ろしく低い、地獄を這うような唸り声が、小屋全体を揺さぶった。
人の口から発されたことを疑いたくなるようなその低い声を、歌人の聴覚ははっきりと記憶していた。
「ジャデロ、か……」
導師ジャデロの姿が、短剣の根元を中心に、ゆっくりと出現した。
彼はそれまで、柱にすがるようにして立ち、杖で体を支えていたらしい。 出現と同時に全身が傾いで、棒切れのように床に転がった。
胸に突き刺さった短剣の他にも、致命傷を疑うほどの傷が、魔導師の体の至る所を彩っていた。
額からも頬からも血が噴き出し、マントにもギリオンの心臓が破裂した時に受けた無数の穴が開いている。 おそらく体の方は、9割方死体である言っていい状態だっただろう。
ジャデロの体が床に崩れ落ちると同時に、歌人にのしかかっていた岩狼の姿も、唐突に消滅した。
後には、呆然とたたずむ二人の勝者の息遣いと、今更ながらに間の抜けたような、夜涸鷹の鳴き声が、取り残されて響いているばかりだった。
「歌人よ、私を褒めてくれ。
ようやく取ったのだ、父上の仇、そなたの兄の仇」
「モニー」
腕の中に飛び込んで来た王太子の体を、フライオはしっかりと抱き止めた。 外気を吸って冷え切った王太子のマントが、急速に温められて自分の体温に近づいてゆくのが心地良い。
「ありがとうモニー、命拾いした」
「間に合ってよかった」
王太子の腕に力がこもる。 フライオはハッとして体を引こうとしたが遅かった。
二つの胸の隆起が容赦なく歌人の胸板に押し当てられ、しかも官能的に揺さぶられた。
下半身も遠慮のない動きで、歌人の腰から下に密着してゆっくりと擦り捏ねられている。 明らかにこれまでとは違う何かを、フライオはこの抱擁から感じ取った。
「モ、モニー。 い、今何をやってるんだ?」
「やっと二人きりになったので、そなたをその気にさせておるところだ」
イリスモントの口元が可愛らしく引き上げられ、小さく笑みを作った。 そのままの形で、歌人の唇に短く押し当てられる。
「私をいつまでも、おぼこな娘と思うなよ」
「だ、誰が余計な知恵をつけやがったんだ!」
「チルダ、ミリア、ナナ、リアリス、ジュリエッタ。 私と同じ立ち場の者達だ。
みんな親身になっていろいろ教えてくれたぞ」
「ボッカルトの男装どもか!」
オーチャイスを訪問した時に知り合った、憲兵隊後方支援部の女兵士たちの名前を、フライオもちゃんと覚えていた。
「あの欲求不満の耳年増ども、よりによって王女殿下になんてことを吹き込みやがる……」
「彼女らを責めるな。 私が知りたくて聞いたのだ。
もしも彼女らが教えてくれなければ、場末の売春宿にでも調査に行ったところだ」
「か、勘弁してくれ。 教えた奴らの首が飛ぶ」
「そうだな。 これを最後にする。 あとはそなたが教えてくれればよい」
イリスモントの体重を支えかねてよろけた先に、先ほど旅装束を払いのけて使用可能にされた寝台が待っていた。 さっきよりももっと情けない悲鳴混じりに、フライオはその上に押し倒された。
「止せモニー、頼む。 ドアが……そうだここはドアが壊れてんだ。 外から丸見えだぞ」
「こんな時間に、誰も見には来ぬ。 よいから少し黙ったらどうだ」
イリスモントは歌人の上にうつ伏せになり、唇と指先を使って刺激しながら、ゆっくりと相手の胸元を開いた。
「あっ。 やめろ、なんてことをする。 あいつら、こ、こんなことまで教えやがったのか。
おい、脱ぐなモニー、脱ぐんじゃねえ」
「では歌人が脱がせてくれ」
イリスモントはフライオの手を取り、自分の胸元へ導いた。 同時に愛しい男の耳元に囁く。
「私を満足させたなら、今夜この国を去る権利を与えよう。
好きなところに行き、好きなところで歌を歌うがよい。 それがこのカラリアであろうと外国のどこかであろうと文句は言わぬ。
カラリアがこの先、どんな国家体制になろうと、豊穣祭だけは毎年行うと約束するから、その時に、私や私のこれから出来るであろう家族や友人たちに会いに来て、王城を歌声で満たしてくれれば良い。
それが私の最後の望みだ。 叶えてくれるな? 歌人フライオ」
フライオがハッとして見上げると、王太子の頬を転げ落ちる涙が、歌人の胸の上にひとつ、またひとつと、極小の湖を作っていた。
「私はわかっておるのだ。 そなたを束縛しようとはせぬ。
だから、……せめて今宵だけ、最後の願いを聞いてくれ」
小さな嗚咽を最後に、ふたりは言葉を忘れた。
お互いの腕のぬくもりの中に、涙も後悔も押し流そうとしたのだった。
長々と続けて参りましたこのお話も、ようやく次回で最終となります。 間延びした、と感じるでしょうか、かえって尻切れトンボに感じるでしょうか。 書いてる方は最近麻痺してわからなくなっております。
次章は終章として、その後のカラリアを描いて終わりにします。