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千里を歌う者  作者: 友野久遠
竜使いの牙
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9、暖炉の前の思い出を

 歌人フライオは、橇に乗せられて雪をかぶった人型の塊に歩み寄った。

 雪を払ってから、被せてある布を開こうとしたが、寒さですっかり凍りついた布は、容易に形を変えようとしない。 何度か手で擦ってようやくめくって見ると、中から現れた兄の顔は、白皙の美貌をそのままに、少しも傷つかずに保存されていた。

 しかし、そこから吹き上げる冷気は尋常なものではなく、フライオの両手の先がすぐにかじかんで感覚を失ってゆく。 橇に触れていた靴先もほどなく凍りつき、足を持ち上げるとバリッと小さな音がした。


 王太子の返答にはひとかけらの迷いもなかった。

 「ギリオン・エルヴァは今も昔も敵ではない。 彼は戦争の被害者だ、しかも2重3重のな。

  幼少期はモンテロス侵攻のために親を失ったばかりか心に傷を負い、少年期にはつまらぬ王家の秘密に触れたために、咎なくして都を追われ、その上、此度の戦いでは、死してなお兵器に利用され、彼が愛して止まなかった部下や国の民たちに胸をさらす結果となった。

  それらは果たして彼自身の罪か? 彼が一度でも、国家に仇成す思いを抱いたか?」


 「し、しかし」

 衛兵はびくつきながらも反論した。

 「おっしゃることはわかりまするが、こ、この冷気をご覧ください。

  このままではここも凍りついてしまいます。 せめてこの竜の皮の壁からは、遠ざけて置きませんと」

 「ここに遺族が居るのだぞ。 そなた、自分の親兄弟が運ばれて来ても私に同じことを進言致したか」

 「恐れながら殿下、遺族には口に出来ぬことでも、殿下はおっしゃらなければならないのではありませんか。 殿下は全体を統べるお立場のお方、ならば生きている者を第一に生かし続ける術をお考えいただかねば……」

 「おい、もうよせ、不敬になるぞ」

 周囲の者達が、衛兵の肩を捕えて下がらせようとする。

 王太子は眉を上げ、唇を嚙み締めた。


 フライオは立ち上がって、王太子の肩を抱くように叩いた。

 「もういいよモニー、迷惑かけて悪かったな。

  俺がギルを連れてここを出て行く。 それが一番いいさ」

 「馬鹿を言うな、外に出た途端に凍え死ぬぞ」

 王太子が目を剥いた。 フライオがその肩をもう一度叩く。

 「ここに居たって、遅かれ早かれ似たようなことになっちまうよ。 

  何人も死人が出てから追ん出されるより早い方がいい。 ギルだって、いま口が聞けたら同じこと言うだろうさ」


 歌人は火の側で介抱されているユナイ少年に近寄り、

 「坊主、悪いな。せっかく命がけで運んでくれたのにな」

 一言声をかけると、愛用の荷袋を担ぎ上げた。

 それから、駆け寄って来たイリスモントの頬を、指先でひと撫でする。 冷気で冷たくなった涙が歌人の指を刺した。

 「モニー、あんたはいい領主にもいい王様にもなれるだろうよ。 

  けど、いい女になろうと思ったら、もうちっと融通が利かなきゃダメだな」

 「……行かないでくれフライオ、頼むからここに居てくれ」

 王太子が声を詰まらせた。

 「エルヴァの遺体を外に出すだけなら、誰か他の者を遣るから。 いや、遠くに行かずとも塀の外に出すだけでもよいではないか」

 「そんなことで済む話じゃねえよ」

 フライオは冷気を噴き上げる兄の遺体を見下ろした。

 「今はいいけど、モニー達だってこの先何年もここで火を焚いていられるわけじゃねえんだ、燃やす物が無くなったら枕を並べて凍え死ぬのかよ? その前に食料が尽きたらどうすんだ? 

  この吹雪を止めねえと、どの道みんな生きちゃいられねえってことだろう?」

 「そなたが吹雪を止めると言うのか」

 「他に止められる奴がいるなら、譲ってもいいけどな。 誰がやっても同じなら、せめて俺がやるさ」


 フライオは橇を引いて、竜の皮を張った囲いの手前まで歩き、そこで後ろを振り返った。

 王太子が見張った眼から涙をこぼして立ちすくんでいる。

 後ろからヴィスカンタがその肩を支え、やはり泣きながらその耳に囁いていた。

 「もう充分です殿下、お気持ちはエルヴァ隊長も我々も充分頂きましたから」 

 その後ろで子供の鳴き声が響いていた。 ポータが何かを訴えながら、王太子の膝元にすり寄って泣いていた。


 温かい風景だ、と思った。

 こんなに寒いのに、この集団はいつも温もりに満ちている。

 彼らが寒さに凍えて死んでいくのは見るに忍びない。

 

 フライオは顔を上げて、壁に打ち付けられた柵を外し、吹雪の中に踏み出した。




 叩きつける風に息が詰まる。

 目を開けていられないほどの風圧で、身を切るような寒さが踊りかかって来た。

 降りしきる純白の雪の隙間から、淀んだ空を横切り踊り狂う、憎むべき白い竜の姿が見えた。

 フライオは足早に歩き続けた。

 辺りは見渡す限りの雪原だ。 こんなところで竜の直撃を受けたらひとたまりもないだろう。

 全力で橇を引いて雪原を駆け、下りの地形を見つけると橇に体を預けて一緒に滑り降りた。

 坂を下ると、風が少し弱くなったような気がした。


 窪地になった場所で身を隠すところを探すと、白く輝く雪の塊が、唐突にポツンとひとつ立っているのを見つけた。 植木にしては形がおかしいのだが、建物にしては小さすぎる。 すぐそばに一段高い土地があるので、そこに穴を掘れば雪や風から身を守ることが出来そうだと思った。



 穴の中に這い込み、雪の塊と穴との間に、橇を滑り込ませた。

 狭い穴の中にしゃがんでみると、叩きつける風がない分だけ確かに温かい。 しかし、火の気もない場所でこの寒さに耐えられる時間は、そう長くないだろう。

 狭い穴から見上げると、雪雲が垂れ込めた空は半分しか見えなかった。

 その空を白い竜が横切って、嬲るようにゆっくりとした動きで、こちらに近づいて来るのが判った。


 洞の入り口が真白くなった。 竜が入り口近くまで来て、中を覗き込んだのだ。

 真っ白い頭部がこちらに向けられ、白い口がカッと開くと、その中の銀色の牙がむき出しになった。 ただ2つ、目玉だけが極上の赤省石のように真っ赤に輝いてこちらを睨んでいた。

 『どうだ、寒いだろう』

 声は出さなかったが、フライオの耳にはそんな風に聞こえた。

 『寒かろう、寒いはずだ。 だってお前にはもう、何も残ってはいないのだから』


 寒いと思ったら負けだ、とフライオは思った。 

 何も残ってないなどと思ってたまるものか。 

 歌人は声を張り上げて歌って見せた。




  思い出がある 胸に灯す思いが

  暖炉の前で飲んだ温かいお茶と笑い声

  はぜる炎を見つめ 竪琴を弾き歌った

  母が歌に合わせ 羊の毛を紡いだ

  

  あの夜 飲んだお茶のぬくもりが 今も心に灯をともす

  歌った歌のひとつひとつが 唇の赤に色を引く

  母の手の温かさが この指を温めてくれる

  白い竜よ お前にはわかるまい この思い出のぬくもりが




 『なるほど、おまえには思い出がある』

 白い竜が牙を鳴らして笑った。

 『パチパチはぜる火の上で、煮られた大鍋を見ていたな。

  炎を見つめながら、血の匂いを嗅ぎ吐き気をこらえていたな。

  母はお前の歌を聞いて、村人と共に武器を取った。

  立派な思い出だ。 歌人よ、さぞ温かかろう』


 フライオの体が突然、キンと凍えて動かなくなった。

 しゃがんだ足がびくとも動かない。 かかとは地面に凍り付き、立とうにも膝が伸びようとしない。

 全身がガタガタ震え始めた。


 その時、洞の外で動く人影を感じた。

 外套に身を包んだ小柄な女が、雪原を渡ってよろめきながらこちらにやって来るのだ。

 その唇から小さな細い声で、聞き覚えのある歌声が流れて来た。 古い子守唄だ。

 「ルーラ!?」

 フライオは驚き、必死で体を動かして洞の外に這い出した。

   

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