5、悪夢の残像
強い風が吹いていた。
天候によるものではなく、もっと能動的な風圧である。
上空を羽ばたく鳥の群れと、大量の羽虫の移動によって空気が動くため、ターバンを押さえなければならぬほどの風が起こっているのだ。
フライオの視界は、細かい羽虫に遮られて霞がかかったようになっている。 その霞の向こうから、カラリア正規軍の姿が現れた。
これは悪夢か。
見たくない光景がそこにあった。
歩兵を7列ほど並べた後ろから、黒馬に乗ったギリオンが、冷たい瞳をこちらに向けている。
その腕の中には、縄でくくられた王太子イリスモント。 更に後方に、黒く重いマントに身を包んだ、魔導師ジャデロの姿があった。
「お、王太子殿下に縄をっ」
「許さんぞ、ジャデロ」
「奪い返せ!」
にらみ合う時間もなく、先頭集団がいきなり暴発した。 彼らはリーダーらしきものを持たぬ、いわゆる暴徒であり、確たる思想や主義のもとに集まっているわけではない。 最初の1人が衝動的に突撃すると、連鎖して後方がワッと攻撃に移ってしまった。
ギリオンの腕が、重さのないもののように魔剣を抜き放ち、空気を人間ごとひと薙ぎにする。
10人余りの体が吹っ飛んで宙を舞い、驚くほど遠くにボトボトと落ちて行った。
「やめろ!」
王太子の叫びが、沸き起こる時の声に半ばかき消された。
「エルヴァ、剣を収めろ! 武器を持たぬ者が7割もいる!
武人がそれをしてはいけない、無辜の民衆を傷つけてはならん。
そなたはそんな男ではなかったはずだ、目を覚ましてくれ!」
狭い馬上に縛られたままで、王太子は体を揺すって暴れ、精一杯ギリオンにぶつかりながら抗議した。 しかし乗馬の名手であるギリオンの体も表情も微動だにしない。
ふた薙ぎめの剣で、掴みかかって来た農夫の大きな体を真ふたつに割り、敵の列の上に投げ落とした。
「ば、化け物か」
暴徒がワッと崩れる。
「魔剣を相手にするな! 魔導師からトカロを奪い取れ!」
フライオが自慢の大声で告げると、先頭の攻撃が魔道士に集中する。 掴みかかって来る人々を、ジャデロの青い光が軽々と吹き飛ばす。 取り残されたギリオンは、すぐに自分から馬を進め、民衆の列の中に突き込んだ。 魔剣を振るい、まるで草でも刈るように人間の体と命を刈り取って行く。
「やめろと言うのが判らぬか!」
王太子は体をひねって、ギリオンに直接攻撃を加えた。 唯一自由になる口で噛みついたのだが、喉笛にはひねりが足りずに届かなかった。 彼女の健康な歯は、かつての英雄の顎の先を噛み破った。
一瞬、辺りがふっと沈黙した。 滑稽なことに、この時人々の眼には、王太子がギリオンに口づけしたように見えたのだ。
「腐肉の味がするぞ、ギリオン・エルヴァ」
王太子は口の中の物を地面に吐き捨てた。
「おう、レディがなんてことを」
少しも痛そうにしないもと英雄を見て、王太子は事の次第を理解した。
王族である彼女には魔道の知識がある。 ギリオンが既に死者であり、ジャデロの傀儡だということなら、トカロに入っているのは彼の心臓だと見当がつく。
イリスモントの口から高らかな悲鳴がこぼれ出た。 彼女は作戦を変更して、ジャデロを標的にすることにしたのである。
「あああっ、やめろエルヴァ! 何をするのだ、無礼者!」
ジャデロは後方で戦いながら、突然叫び出した王太子に驚きの視線を向けた。
「どこを触っているのだ! ジャデロ、やめさせてくれ。 この男はいやらしいぞ。 それともそなたの差し金か?」
そんな筈はない、攻撃以外のことはさせてない筈だ、とジャデロはいぶかった。 後方から見ると、確かにギリオンの体は王太子にぴったり密着していたが、細かい手の動きなどは視認できない。 つい目を凝らしてみようとして、ジャデロの攻撃がお留守になった。
そこを逃さず、城の衛兵たちの剣がジャデロに斬りかかる。 青い閃光が一瞬遅れ、民衆がジャデロの横っ腹に取り付いて引き倒そうとする。 電撃を喰らって一人目が撤退すると、すでに次の男が黒マントに組みついている。 エルヴァ隊の歩兵が、ジャデロに加勢しようと押し寄せ、ギリオンは後続の民衆を絶とうと更に列に突っ込んで行く。
乱戦になった。
その時、エルヴァ隊の後方から叫び声が上がった。
上空を舞っていた鳥の群れが、兵士めがけて急降下して来たのだ。
恐慌を起こして地面に伏せながら悲鳴を上げる兵士たちの更に後ろから、元気な雄叫びが轟いた。 剣が空気を切り裂く力強い音が、こちらに近づいてくる。
「助太刀参上」
ピカーノが満面の笑みを浮かべて踊り込んで来た。 その後ろでマルタと山賊たちが、兵士と斬り合いながら次第に上がって来る。
彼らはこれまで、捕虜として縄でくくられ、最後列を歩かされていた筈である。
「ネズミが多い畑で助かったよ」
縄を噛み切った小動物たちは、すでに四方に散って参戦していた。 兵士たちの服の中に潜り込んで、体に噛みついているらしい。
「イーノは?」
王太子の問いに、ピカーノが苦笑した。
「まだ腕が言う事聞かないらしくて、後ろで苦労してます」
フライオは声を大きくして歌った。 歌声は人々の心を熱く揺さぶり、力強い自信と陶酔感で満たした。
ギリオンが列に割り込んで、民衆を斬り割き暴れ回っている。 同じ馬の上で、王太子がそれを止めようと躍起になっている。 人々は何度吹き飛ばされても必死で起き上がり、恐怖を喉の奥に飲み込んで雄々しく突進を繰り返す。
ギリオンの魔剣は容赦なく人の体を二つ割りにし、振りまかれた血しぶきを浴びて、王太子の甲冑も真っ赤に染まった。
「フライオ! もういい、歌うな。 歌を止めてくれ!」
王太子が懇願した。
「これ以上人死にを出すな、もうたくさんだ。
そなたの歌で、人を傷つけてはいけない。 忘れたのか?
思い出せ、歌人よ。 私は知っておるぞ。
10年前、そなたは死ぬほど後悔したはずだ。
あのオーチャイスの殺戮で、そなたはあれほど苦しんだではないか!」
フライオの声が途切れた。
歌人は夢から覚めたような顔になって、戦い続ける兵士や民衆の隙間から、呆然と王太子を見上げた。
血に染まった甲冑の中から、王太子はしっかりと歌人を見つめ返した。 縄をかけられてはいたが、凛とした表情で毅然とした姿勢である。
後ろから彼女の体を捕まえているギリオンも、同じく動きを止めていた。 その無表情な顔に動揺の色はなかったが、明らかにこれまでと違った感情の気配が見て取れた。
「ギル」
フライオの声は小さかった。 それが不思議なくらい、耳元まで届くのだ。
「俺も知ってる。 オーチャイスのあの日、ギルも後悔したよな。
俺、見てたんだ。 小屋の中で」
どくん、と音がした。
どくん、どくん、どくん。
心臓の鼓動だ。 それはくぐもった音色で、魔導師ジャデロのマントの下から聞こえて来ていた。
「見ていたんだよ。 だからわかってるぜ。
ギルが俺よりずっと苦しんでたことも、だから村を離れて武人の養子になったってことも、胸ん中で自分に罰を与えて必死で頑張ってたことだってわかってたんだ」
「何の話だ?」
王太子がギリオンに問いかけた。
そしてハッと体を固くした。 死体であるはずのギリオンの瞳から、一筋の涙が流れていたのだ。