3、彼らが国を実らせる
逃げ出した左腕を追って、キャドランニと歩兵達が山肌を這いずりまわっている間、王太子イリスモントは、ふもとの兵士たちの様子を知ろうとした。 山賊たちに、罠にかかった敵兵を縛っておくように指示してから、マルタに後ろを見張らせて、水の入った小鉢の上にかがみ込む。
老オンディーノは、眠っているのか死んでいるのかわからない姿勢で水面に現れ、一瞬王太子に息を飲ませた。
「なかなか、ちょっとまあ最高にいい調子じゃ」
老人の背後に広がる水鏡には、劇的に好転した戦況が映し出されていた。
コウモリの空戦部隊が元気いっぱいに暴れ回ってくれたおかげで、敵軍は隊列を崩して散り散りになっていた。 単騎になった敵兵を、貴族の私兵で構成した味方の小隊が取り囲んでは袋叩きにする。 もはや敵軍は集団としての形が保てず、てんでに逃走を始めていた。
「この先は掃討戦になると思うが、どうするね?」
ご機嫌な様子のオンディーノに、王太子は渋面を作って首を振った。
「ギリオン・エルヴァがおらぬ。 自軍がこうも崩れておるのに、司令官が駆けつけぬとは、あの男の性格からして解せぬではないか」
「下りる途中で罠にかかったのではないのかの」
「それなら尚更おかしい。 エルヴァの後ろには、あのジャデロの長い手があるのだぞ。 エルヴァが死んだり動けなくなったりしたなら、これ幸いと廃物利用を始めるわ。
あっちの水鏡の側に誰かおらぬのか? いたら小鉢を持ち上げて、あたりをぐるっと移すように言ってやってもらえぬか」
老人はすぐに、鏡越しに手近な兵士を呼び寄せ、水鏡の小鉢を持ち上げさせた。
しかし、その結果を王太子は見ることが出来なかった。
突然、地面の上に乱暴に押し付けられて、頭が上げられなくなったのだ。 何者かの「手」の感触が、王太子の後ろ首を地面に押し付けて動けなくしている。 ぐいぐいと凄まじい力が加えられ、王太子は半身を赤土の地面に平伏させたまま叫び声を上げた。
「イーノ! 来てくれ、見つけたぞ。 そなたの腕はここだ!」
腕には見覚えのある甲冑の小手飾りがついていた。
キャドランニからの返事はない。
王太子は、自力で頭をじりじりと後退させて、首ではなく髪の毛を掴ませることに成功した。 そこでようやく彼女の視界に、「腕」の全貌が入って来た。
キャドランニの腕は、あり得ない長さまで伸びていた。 鎧の小手当てのさらに向こうには、ただ真っ黒く蜘蛛のように細い棒のような物が地面まで続き、その先は地中に潜っている。 王太子が自分の髪を掴んで引くと、不気味なほどの軽さで地中の物が浮かび上がって来た。
黒い服のフード部分。 更に引くと、フードの中でギラリと光る黒い双眸。
「ジャデロ!」
電光石火、王太子はためらいなく短剣を抜き、自分の髪の毛を切断した。 しかしその途端、別の方向から短剣を持った右手の手首を乱暴に踏みつけられた。
そのまま立ち上がる暇もなく、左腕をねじり上げられ、足の上に馬乗りになられてもう一度叫び声を上げる。
「殿下、ご無礼をいたします」
相手が場違いに丁寧なあいさつを、真上から落として来た。 そのまま後ろ手に縛りあげられた。
体をひねって見上げると、ギリオン・エルヴァがその整った顔に何ほどの表情も浮かべぬまま、不自然なほど黙々と作業をしている。
その後ろで、ロンギースと数人の山賊たちが大声で怒鳴りながら、大剣で地面を刺していた。 よく見ると、地中から伸びて来た無数の手が、彼らの足を地面に固定して離さないのだ。
「全軍に停戦命令をお願いいたします。 その妙な水鉢にお伝えください。
『もし逆らえば山頂の人間が全員死ぬ』と」
「さっさと殺せばよいであろう!」
王太子が吐き捨てた。
「公開処刑など、いたずらに人心を乱すだけで悪趣味極まる。 この場で私を殺せばよいではないか」
「そうすると、ここの兵士たちが復讐に猛って、皆殺しになるまで戦を続けるでしょう。 それでも殿下にとっては同じ戦、同じ死に方ですか」
「なんだと」
「もしも殿下がこのまま我々と城にお戻りになり、お静かに処刑の時をお待ちになるのであれば、“牙”や貴族の私兵を傷つけないとお約束いたしましょう。
彼らも我々にとって、明日のカラリアを背負って立つ大事な民。 むやみに死者を増やすつもりはございません」
「被害は最小限に、か」
「もともと王族の方々と、魔導師だけの戦でございます。 犠牲になる兵士は少ないに越したことはございません」
背後から大きなダミ声が響いて来た。 必死の抵抗を続けるロンギースの怒鳴り声だ。 よく聞き取れないが、魔剣で何百人も殺した男が偉そうに言うなという事らしかった。
「最小限です、殿下。 どうかご決断を」
もう一度促されて、苦い吐息と同時に王太子がかすかにうなずいた。
「そなたは理屈のわかる男だ。 信じよう。
時に今一つ、頼まれてはくれまいか」
「なんなりと、殿下」
「イーノ・キャドランニの腕を返してやってくれ」
「イーノの腕を?」
「あれは腕のいいパーカッションでな。 戦が終わったら、そなたの弟と合奏させる約束だった。
剣は片手でも振れるが、打楽器はそうはいくまい。 なんとかつないで貰えるよう、魔導師にたのんでやってくれ」
ギリオンはゆっくりと頭を下げた。 それから王太子の前に、通信用の水小鉢を静かに置いた。
停戦命令を出す王太子を、地中からせり上がるように現れたジャデロが満足そうに眺めていた。
「なんだこれは? じ、地面が動いとる!」
鍬を放り出して、農夫が叫んだ。 快晴の空の下で、明るく照らされた畑の土がざわざわとうねっている。
彼方まで一面に広がる畑の土が、何故か一斉に動き出したように見えたのだ。
よく見ると、それは土ではなかった。 土の中から出て来た無数の小さな生き物たちが、揃って同じ方向に移動を始めていたのだ。 彼らは何かにせかされるように地面から這い出し、そのまま一つの方角に引かれて歩き出した。
その先には、そびえ立つ白い王城。
大きな虫も小さな虫も、虫よりもずっと小さな、目にすることさえ難しい者たちも、それぞれが自分に合った速度で王都の方角を目指していたのだ。 その動きはすぐさま一つの流れになり、黒い大きな川になって、あらゆるものを乗り越え、時になぎ倒しながらゆっくりと進んで行った。
王城は沈黙のまま恐慌に飲まれていた。
小間使いの娘たちが何人も恐怖の為に失神した。
正門からゆっくりと入って来た若い男が原因だった。 旅装束のその男は、黒雲と見まごうばかりの大量の羽虫を頭上に掲げ、体にはびっしりと、黒い光沢のある虫を張りつかせていた。 その虫が「悪魔」と呼ばれる寄生虫であることは、同じ虫の為に死亡した前国王の姿を目の当たりにした城勤めの者たちには、一目瞭然であった。
「こ、ここは通さんぞ」
衛兵達が勇気を振り絞って男を止めようとするのだが、その度に悲鳴を上げて飛び下がった。
「何もしやしねえから、通してくれ」
男が小声で言うたびに、彼の周囲や体の表面にいる虫たちがざわめき、突然こちらに飛び出して来そうになるのだ。 よく見ると羽虫の中には凶暴な蜂や虻の類も多く、それらすべてが、男が声を出すたびにぶわっと膨張して散らばりそうになる。 更に彼の足元には、地を這う不気味な虫がぞろぞろ這い寄って来ていて、これに狙いを付けたネズミや鳥が遠巻きに集まって、今にも襲い掛かろうと狙いをつけている。
この男が、毎年豊穣祭の夜を賑わせているお祭り男、虹のフライオであろうなどとは、もはやだれも気付かない。 彼が1歩歩むごとに、衛兵たちは1歩入り口から後退し、結果的に段々と城の中、廊下の奥へと押し込まれて行った。
「なあ、執務室ってどこなんだ」
フライオの問いと同時に、虫たちが立ち上がり飛び広がり、押し殺した悲鳴が各所で上がる。
「国王陛下の執務室に行きてえんだよ」
「わあああああ!」
ついに緊張に耐えかねて、若い衛兵が剣を抜いた。
「そ、そ、そ、それ以上進むなっ。 と、と、止まらぬとこの場で斬り斬り斬り斬り」
つられて何人かが剣を抜くが、かかって行く者はいない。 後方で大きな音を立てて、ネズミが虫をとらえ始めた。
そこへ青白い光と共に、下級の魔導師が次々と現れた。
先頭の1人が、無言で掌を閃かせ、フライオの周辺の空気に青い光の幕を発生させた。 透き通ったカーテンのような物が歌人とその周囲の虫たちを囲んで周囲から遮断する。
その途端、衛兵の1人が悲鳴を上げた。 彼の全身は黒い羽虫に覆われて激しく痙攣していた。
カーテンで遮断されなかった虫が、突如襲い掛かって来たのである。
他の衛兵たちもじっとしていられなかった。 地面を這っていた虫に這い登られ、上空から頭にたかられて大声を上げて逃げ惑う。
(同時にやるんだ、同時に全部だ)
魔導師たちは合図をし合いながら、残った虫たちをひとつひとつカーテンで包んで行った。 その間にも兵士の悲鳴は大きくなる。 間の抜けた叫び声を上げながら、全員が真剣に恐怖していた。
「刺された! ダフラムだ、俺はもうだめだ」
「いででいででいでで誰か取ってくれ」
「靴に入ってる、靴に入ってる! 靴だ!」
フライオは青い光に包まれたまま、お構いなしに廊下を進み続けた。
彼の兄は間違いなくカラリア一番の戦士で英雄だった。 出来れば生きていてほしかったが、その願いは既に叶わぬ事と判っている。 この上は、王太子を殺害した者として、不本意な名を歴史に残す前に天に返してやらねばならない。
カーテンの中にいる虫たちが突然ビリリと緊張した。 彼らは直感的に身の危険を感じて、人間で言うと「総毛だっている」状態だった。 同じ光の中にいるフライオに、その緊張は痛みのように伝わった。
眼の前にいる魔導師たちは、後ろに少しずつ下がりながらも、光の網を作り終えて、今、一列に並んだところだった。 彼らが何をしようとしているか、フライオの耳は虫たちの恐怖から聞き取った。
「火をつけるのか、おっさんたち。 あんたら案外馬鹿だな」
虫たちを刺激しないように、歌人は小声で言った。
「ここには国中の虫が集まってるんだ。 目に見えるのも見えねえのも。
移動できねえ奴と、水から上がると死ぬ連中は連れて来れなかったが、あとのみんなは気持ちよく集まってくれたぜ」
「それがなんだ。 害虫ばかり、お前ごとひと思いに焼き捨てれば後がきれいになってよい」
魔導師の1人が禁を破って口を開いた。
フライオは笑った。 青白い幕の中で、煽られた虫たちが一斉に舞い上がる。
「畑を耕したこともねえ、草木を育てたこともねえあんたらには、こいつも俺も汚らしい厄介者なんだろうな。
知らねえだろう、畑の土を作ってるのがいったい誰なのか。
知らねえだろう、地面に転がった木の実がどうやって腐るのか、どこへ消えて行くのか。
知らねえだろう、花がどうやって実をつけるのか魚が何を食べてでかくなるのか。
殺してみろよ、一匹残らず。 来年にはカラリアは草一本生えねえぞ。 国中が飢えて死ぬのを見ずに済む俺は、案外幸せ者かもな」