8、歌わぬ虫の歌う歌
群衆の反応はドキリとするほど鈍かった。
まず低いざわめきと戸惑いの表情が、城門前広場を埋め尽くした人々の上に落ち、さざ波が後を追うように、息を殺したまま緩やかに動揺が広がった。
眼の前にいる、生白い不気味な肌色の子供が、まず人間であることさえ飲み込めずにいたところへ、これが王太子であると告げられても、どう答えていいのか誰にもわからなかったのである。
「するとイリスモント殿下は、性別だけでなくご身分まで偽っておられたという事に……」
「そもそも殿下って人じゃなかったという事だろう」
「とんでもねえ話だ」
「しかし殿下ご本人の罪じゃないぞ。 前王オギア陛下が我々をたばかっておられたのだ」
「現国王はドルチェラート陛下で、陛下には王女さまがおいでになるじゃないか。
だからどのみちこの妖女さま、じゃなくてええと、この子が本物のイリスモント殿下であってもお世継ぎにはなられない。 王族のおひとりという事で、あとは偉い人たちが決めることだから俺たちには関係ねえよ」
「では、今王城の外においでになるイリスモント殿下はどうなるのだ?」
「『王族でない反逆者』は死刑だぞ。 裁判なしで」
それだけのことが民衆の理解できるだけの間、ジャデロは沈黙を守っていた。
やがてざわめきが治まるのを待って、新宰相ジャデロは宣言した。
「まことに遺憾ながら、我々は王太子を名乗る逆賊の軍を、早急に打ち懲らして首謀者を処刑せねばならぬ。
明日より進軍を開始する。 諸君には進軍を妨げぬよう、出来るだけの協力をお願いする。
国王陛下万歳!」
そのあとアジテーションを完璧にして、国民を煽ろうと思っていたらしいが、ここでジャデロの予想を覆すハプニングが起こった。
広場の向こうの森のあたりから、大きな鳥の様な物が、空を切り裂いて飛んで来たのだ。
一瞬で空の3割が埋まってしまうほど、大きな鳥だった。
人々は驚きおののいて、その場を逃げ出そうとした。
「クルムシータ! や、やべえ」
広場の外れに置いて来た巨人の精霊が、イニータの姿を見つけて出て来てしまったのだ。
フライオは演壇に駆け寄ろうとして人の波を掻き分けたが、密集した人々がてんでに演壇から逃走しようとしている状況ではとても近づけず、逆に押し流されて演壇からどんどん距離が開いて来てしまう。
悲鳴と怒号が炸裂した。
その大きさで空から舞い降りて来られたら、どう見ても演壇に襲い掛かる怪物としか思えない。
人々は逃げようとして将棋倒しになり、一瞬で1個中隊ほどの怪我人を量産した。
「イニータ!」
「クルムシータ!」
巨人が天から大きく広げた腕に、白い肌の少女が手を伸べて捕まろうとした。
その時。 一瞬、目の前が真白くなった。
光が弾けて爆発したのだ。 その青白い光線は精霊の大きな胸をまっすぐに貫き、そのまま後方へ抜けて天空を焦がした。
イニータの体を右手で捕まえているジャデロの左手から、その光は発されたらしかった。
精霊の巨体が大きく傾いで天を仰ぎ、ゆっくりと落下を始めた。
黄色い声を上げて更に逃げ惑う人々。 その上に、クルムシータの巨体が演壇を粉砕して崩れ落ちて来た。
イニータとジャデロは演壇ごと吹き飛ばされてそれぞれが地面に落下した。 衝撃で拘束を逃れた少女は、悲鳴を上げながらもすぐに起き上って、巨人を呼びながら演壇の残骸を登り始める。 魔導師の方は、さすがに寄る年波には勝てないらしく、地面にうずくまったまま唸り声を立てている。
「おいっ、大丈夫か!?」
周囲の人が散ってしまった後に、ようやく駆け寄って行けたフライオは、イニータと協力して精霊を引っ張り起こした。
少女が悲鳴をかみ殺した。 崩れた演壇に半分埋まった巨体を引き出して見ると、その胸の真ん中に青くきらめくような大きな穴が穿たれている。
「し、しっかりしろ。 具合はどうなんだ」
クルムシータがぼんやりした表情で自分の傷口を見下ろし、おお、とかああ、とか生焼けな返事の仕方で反応した。 精霊の傷が人間の怪我と同じだけのダメージを持つものなのかわからないので、思わずイニータを見ると、少女はクルムシータの首にしがみついて泣きじゃくっていた。
「帰ろう。 クルムシータ、イニータと一緒に森へ帰ろうよ」
「か、帰る? いいのか。 人と暮らしたかったんじゃないのか」
「もういい。 イニータは人間は嫌い。 人間はイニータに優しくない、クルムシータにも」
「そうか、つらかったのか」
「帰ろうよ。 森の方が好き。 クルムシータが好き」
「そうだな、一緒に帰ろう。 森へ帰ろう」
精霊の大きな手が、イニータの肩を抱き寄せた。
「お、おい、大丈夫なのか、飛べるのか?」
フライオは立ち上がる精霊の掌に自分も捉まりながら、その胸の傷を覗き込んだ。 穴の周りはまるで鉄が溶けた時のようにめくれあがり、そこから砂状のものがざらざらと始終零れ落ちている。
そこへ、城からの兵士たちが駆けつけて来た。
彼らは広場に着くなり人の群れを整理し、素早く散開して巨人に向かって矢を射かけ始めたのだ。
「何をしやがる! アブねえな。
イニータは王族だって、ジャデロのおっさんが今言ったばかりじゃねえか!」
フライオが上から怒鳴りつけても、攻撃が止むことはなかった。 とは言え、狙いを付けてあるのは精霊の膝下あたりという気もしたが。
黒い大きな翼がようやく開いて、クルムシータは空へと飛び立った。
羽ばたきの起こす風に煽られて、兵士の動きは一瞬止まった。 そのあとようやく体を動かすことが出来るようになった時には、巨人の体は空の彼方にある。 ジャデロが大声で叫んだ。
「諦めるな。 後を追え!」
しかし、命令は空しく無視された。 兵士たちの誰もがそこから駆け出そうとしなかったのだ。
彼らの足元からは、何故だか突然大量のアリの群れが這い登って来て体中をはい回り、兵士たちはそれを払い落とそうと、駆け足どころの騒ぎではない激しさでダンスを踊っていたからである。
同時に精霊の賢い妻は、上空でも羽虫を集めて煙幕の役をさせ、逃げ去る精霊の姿を人々の目から遮断してしまった。 兵士たちがようやくアリを追い払って空を見上げた時には、精霊の姿はとっくに消えて失せていたのであった。
「おい、もういいだろう。 どっかで休んだ方がよかねえか」
フライオが精霊を気遣って声を掛けた。 具合と言ってもさっぱりわからないのだが、クルムシータの胸の傷は決して浅くは見えない。 そこからこぼれ出す粉のようなものは、あとからあとから出て来て止まることがなく、傷そのものもどんどん広がって大きくなって行くように感じられるのだ。
ところが精霊もその妻も、揃って激しく首を振った。
「下に降りない方がいい。 森まで早く戻った方がいいよ」
「イニータ……だけどよお」
「人の怪我とは違うよ。 森の精、怪我する。 森へ行く、治る。
怪我は集まって来る者が、治す。 集まるものがないここでは、治らないよ」
よくはわからないが、町に居ては霊気がないので治らないと言っているようだ。
今にも止まりそうな羽ばたきを繰り返しながら、精霊はよろよろと飛び続けた。
見守り励ましながらの行程は、フライオには永遠に続くかと思うような長さに感じられた。 いつ巨人が力尽きて、地面に叩きつけられるかもわからないのだ。
昼間の眩しい日差しが、そろそろ地平線へ傾こうかという頃になって、ようやく目的の森が視界の彼方から現れて来た。 イニータが手を打って喜ぶ。
「帰って来た! 着いたよ、クルムシータの森だよ!」
しかし夫からの返事はなかった。 妻はいきなり涙をこぼし始めた。
イニータとフライオの体は、強風で吹き飛ばされそうになっていた。 精霊の胸に空いた穴が、広がるだけ広がってもう巨人の体を形作れなくなって来ている。
穴からは傾きかけた太陽と、のどかに並んだ白い雲の連なりが見えていた。 そこから吹き抜ける風が、まともに体に当たるので、しがみつくだけで精一杯だ。
「お、おい、透けてねえか……」
精霊の体が残っている部分からも、明るい光が射してくるような気がして、歌人は少女と顔を見合わせた。
「急げ! 早くしねえと消えちまうぞ」
森の上空で、精霊の体はついに白くおぼろになり、ほとんど見えなくなってしまった。
沈むように高度を落としながら、その全身が霧のように空気に溶けて行き、森の木々に触れたあたりで、ぱあっと金の粉になって霧散してしまった。
金粉はフライオと少女の体に薄くまつわりつき、彼らの重さを奪って落下の衝撃を落としてくれた。 めまぐるしく変わる視界の様子にしばし呆然とした後、少女と歌人は柔らかな下草と枯れ葉の上で我に返ったのだった。
森の中はうす暗く、清々しい緑に満ちている。 そしてこの上なく静かだった。
「消えちまった……」
フライオが恐る恐る声を出すと、周囲はさらに静まり返った。 かすかに続いていた鳥の声が、歌人のつぶやきに驚いて止まったせいだった。
「あいつ、消えちまいやがった。 ちくしょう」
歌人の隣に座り込んだイニータが、声を立てずに泣き始めた。
「ちくしょう」
何と表現していいのかわからない。 こんな時、さらさらと歌など詠んでいられた自分はどこに行ったのだろう。
その時、フライオの耳にかすかな歌声が届いた。
たくさんの小さな囁きが合わさって、耳鳴りほどのかすかな音量で合唱している。
「お帰りなさいって、歌ってる」
イニータが言って、更に激しく泣いた。
「天道虫が歌ってるよ。 イニータお帰りなさいって。
クルムシータどうしたのかって。 歌ってる、鳴いてる」
天道虫は本来、鳴き声を持たぬ虫である。 しかしそれが彼らの歌であることが、なぜだか歌人にも感じられたのだ。 かすかな歌声は長々と続き、次第にその数を増やして行った。
「ミズフキムシが、寂しかったよって言ってるよ。
この声はカワゲラダマシ。 このきれいなのがホタルホウ。
みんなイニータが帰って喜んでる。 クルムシータに会えなくなって悲しんでる」
「俺にもわかるぞ。 こいつはコミノ蝶、こっちはシツケ蟻だ。
ワノムシの幼虫が集まって来た、ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう」
フライオは地面を叩いた。 叩きながら泣いた。
聞こえるはずのない虫の音が、帰らなかった主人にお帰りの歌を歌っている。
「俺は馬鹿だった。 俺が、馬鹿だったんだ。
歌って言うのはこうやって歌うんだ。 何でわからなかったんだろう」
霧散したクルムシータの金の粉が、まだ森の木々の間を、ふわふわときらめきながらさまよっていた。
あ、ちょっとファンタジーらしいシーンが書けたかな。
色気がないシーンばかりでしたが、次回からそろそろイリスモントの方へ話を持って行きます。
でもこの小説が一番気を遣います、難しいです。 ファンタジー本格的にバリバリ書いてる人に脱帽です。




