4、3つの悲願
「ちょっと待て」
歌人フライオは、牢番からくすねた酒をグラスになみなみと注ぐ兄の手を押さえた。
「ごまかしてねえか、兄ちゃん」
「兄ちゃんは止せ。 お前だって、さっきこのくらい注いだろう?」
「そうじゃねえ、話の方さ!
ギルも男なら、そこまで行っちまえばエウリア妃殿下とねんごろになっただろ?」
「自分の尺度で物を測るんじゃない。 そんな事より、別の事が気にならないか?」
フライオはまだ納得いかないらしく、何度も舌打ちをして「朴念仁め」と毒づいたが、やがて仕方なく次の話題に同調した。
「何が気になるって?」
「まず第1に、何故女性のイリスモント殿下を、性別を偽って時期国王に据えたかだな。
カラリアでは女性のまま王位継承ができるのに、女性と結婚なんて馬鹿な茶番を演じる必要はないじゃないか」
実はフライオにとっても、密かに疑問を持っていた事を言い当てられた形だった。内心どきりとしながらも、平静を装って言ってみる。
「第1子の王子が生後3日で死んじまったから、庶子の家からモニーを代役に立てたって聞いたぜ。 男子が育たねえ理由を国民に気づかれたくなかったって」
「そこもおかしいだろう? どうせ国民を騙して別人を仕立てるのなら、私なら何処かから男児を探して来る。 国王の血が呪われているというなら尚更だ。
他人の子を養子にして、この際呪われた血筋を断ち切ってしまおうと考えるのが普通じゃないか。
魔導師もそれを勧めたはずだ。 連中は貴重な『竜神の血筋』を性転換のための生け贄何ぞで浪費したくないはずだろう?」
ギリオンの言うことはいちいち尤もだった。
ただ、歌人の頭はそれをまっすぐ受け止めることを嫌って斜め後ろを向いている。
彼にしてみると、疑問はすなわち自分が裏切られたと認める事だからである。
その塞ぎきれない耳に、ギリオンは容赦なく次の疑問を注ぎ込む。
「王太子イリスモントは、血液が原因で起こる呪いにかかっている。
それを子孫に持ち越さないために、背格好の似たミモランツァの子供を、自分の後継者として育てようとした。 ならいっそ、女として育った方が簡単だったとは思わないか?
女帝が、夫の愛妾の子を引き取る方が、国民の受けもいいだろう?」
フライオの背すじに濃い汗が湧いて来ていた。
(そうだ、モニーの話が全部本当なら、あの体は男じゃねえとおかしいんだ。
どう見たって、あれは変装であって魔法で性転換したような感じじゃない。
としたら、竜の娘達は何のために消費されてんだ?)
内心の動揺を隠すため、歌人はわざと乱暴に兄の制止を無視して、酒の最後の一杯を自分のグラスに独占した。
「とにかく、カラリア王家の敗因は、その呪いの存在を国民にひた隠しにしてきたところにある。
秘密を守るために多くの協力者の口封じをし、揚句の果てに性別を偽るだの血液を入れ替えるだの、魔道に頼って事を運ぼうとするから身動きが取れなくなった。
それはイリスモント殿下のせいではない。 あの方はむしろ被害者なんだ、いろんな意味でな」
ギリオンの言葉に、フライオは顔を上げて相手の瞳を覗き込み、この兄が王太子を憎みも恨みもしていないことをその表情から確信した。
国民の誰もが信じないだろうが、フライオはそれを信じた。 長年の付き合いで、この男が嘘を言っているかどうかなんてすぐにわかると思っていたのだった。
同時に胸の中が重くなる。
その王太子の軍に、勘違いで刃を向けてしまったのは、やはり自分の失態だろう。
「ギルは、あの軍隊が王太子の旗本隊だってわかってて剣を抜いたのか?」
「当たり前だ。 お前みたいなおっちょこちょいがそこにもかしこにも居てたまるか」
ギリオンが笑って弟をからかう。
「国王命令ということもあるが、不本意でも必要なことだった。
私は帰国後、いったいどちらにつくのかと魔導師どもに見張られていたからな。
部下や友人を場内に多数残して、いわば人質を取られている状態で下手な真似は出来なかった。
連中は昨日の働きを評価して、私の監視はなくなった。 おかげでこうして会いに来れたろう?」
「結果として俺を魔導師どもに売ったんじゃねえか」
フライオはまたぞろ湧き上がってくる怒りに身をゆだねないためにグラスを煽ったが、もう中身は残っていなかった。
ギリオン・エルヴァは自分のグラスの中身を弟の盃に移してやった。
「そう怒るな。 お前には悪かったが、私は『牙』に捕えられた時に、3つの願をかけたのだ。 誓いと言ってもいい」
「なんて誓ったんだ?」
「まず部下や友人たちを可能な限り平和な家庭に戻すこと。
第2に生きて帰って、成長したお前と酒を酌み交わすこと。 これはめでたく今夜成就してしまったな」
「3番目は?」
「子供や非戦闘員を助けることだ。 私は捕えられてから、子供と山賊と商人に救われた。
部下や兵士仲間とはこれまでにも助け合って来たが、力の弱い者たちに助けてもらったのは初めてだった。今度は私が彼らに恩を返したい。 そのためなら何でもする」
それからギリオンは白い頬に艶やかなほほえみを浮かべた。
「それに見ろ、私は確かにお前を売ったが、牢の鍵はこうして私の手の中だ。 お前が望むならすぐにどこへでも出してやる。
だが、ラヤ。 お前は戦場に向く人間じゃないぞ。
あそこにいて、お前に出来ることがあるのか?
人と人が殺し合い、憎しみと血しぶきが飛び交う戦場で、お前は一体何を歌いたいんだ?」
兄の言葉は歌人の胸に痛む楔を打ち込んだ。
確かにずっと思っていた。
人を殺せと歌う以外、戦場での仕事はない。 それはあの「オーチャイスの奇跡」以来、フライオが絶対にやるまいと心に誓ったことではなかったか。
王太子のためなら、何の役にでも立ってやろうと思ってはいた。 しかしそれは、血の雨を願う歌ではなかったはずだ。
愛する者に再び会いたいと願う歌。
故郷に戻る日を心待ちにして眠る者に捧げる歌。
生きて戻った家族や友人を迎える歌。
戦場にいなかったら、きっと溢れるように湧いて出ただろう歌の思いが、胸の中で引っかかってしまって出てこない苦しみを、今まで気づかないでいた。
そうだ。 歌が必要なのは戦士と家族の心にであって、戦場にではない。
フライオの頭の中で、一つのメロディが走り始めた。
それは今までに聞いたことも歌ったこともない、甘く物悲しい旋律で、湧き上がるや否やフライオの心臓をつかんで揺すぶった。
歌人はそれを追いかけた。
消えてしまわないうちに、口の中で噛み砕こうとした。 舌に乗せて喉を震わせ、自分の耳で聞き取って初めて歌になるというのに、メロディは手を伸ばした先へ先へと流れて飛んで行き、なかなか手の中に残らない。
(ああ、歌いたい。 今すぐに!)
その時、寝静まった地下牢の通路に足音が響いた。
石段を降りて来る数人の足音で、一人は裸足、残りは軍靴を履いていると歌人の耳は判断した。
ギリオン・エルヴァは盃を放り出し、通路に駆け出すと床の上で伸びている牢番を、フライオの独房へ引きずり込んだ。
格子を閉じ、明かりを吹き消すと、自分も房の隅に張り付いて気配を消す。
足音に混じって、子供の物らしい悲鳴が闇を切り裂いた。
「やかましい! ぎゃあぎゃあ喚くんじゃないっ」
刀身をガチャつかせながら、兵士らしい男が怒鳴る。 さらに子供が泣き声を上げる。
「うるせえな、『人外』のくせに人間並みに痛がるな。 剣で刺しても死なんくせしやがって」
「人間だよう! イニータ人間、クルムシータ言った」
「妻だって? ガキのくせにおかしな名前だな」
ギリオン・エルヴァが飛び上がった。
次の瞬間には、彼の姿はもう独房の外にある。 右手は稲妻の速さで、魔剣を鞘から抜き放っている。
通路をこちらに向かって歩いていた2人の兵士が、ぎょっとして足を止めた。 ランタンの明りに浮かぶ軍服は、城門の警備に当たる者のそれである。
彼らが連行して来たのは、真っ白い肌をした髪の長い少女だった。
暗い地下通路に浮き上がるような白い肌を、ギリオンははっきり覚えていた。 あの虫使いの少女である。
「ギ、ギリオン・エルヴァ准将でありましたか」
一旦怯えていた兵士たちが、味方と知って表情を和ませる。
「国王陛下の命令で、囚人を護送して参りました。
牢番の姿が見えませんが、どこへ行ったかご存知ではありませんか」
「知ってるさ。 お前たちも今からそこに行くんだ」
ギリオンが剣を一振りするや、少女の腕をつかんでいた兵士たち二人の両腕合計4本が、胴体を離れて宙を飛び、鉄格子や石畳に大きな音を立ててぶつかった。