5、王太子イリスモント
「あとで私のアリアを歌ってくれるか?」
女は楽しげに、歌人の方にほおを寄せて微笑む。
「いいけど、ずっとあとにしたほうがいいぜ。
あれをやっちまうと、またサロンから招待状の山だ。 あんたと恋を語る暇はまずなくなるぜ」
「耳飾りをやるんじゃなかったな。 お前、ぼろ儲けじゃないか」
ちょっと拗ねたように、女が口を尖らせた。
「それでなくても、あの時は接吻ひとつで逃げられてしまったからな。
残りを回収しようと、ずっと探していたんだぞ」
「バレてたのか」
フライオは舌を出した。
実を言うと、箱入り娘には碌な性的知識はないものと侮って、熱い抱擁とキスでごまかして逃げてしまったのだった。
手を出していい娘と、そうでない娘を嗅ぎ分けることが出来なくては、宿無し稼業は勤まらぬのだ。
とは言いながらも、女性と連れ立って歩くのは悪くない気分だった。
フライオの隣で女は生き生きと祭りの喧騒を見物し、瞳を輝かせた。
歌人がどこに泊まったのかを知りたがり、これまでどんな歌をどんな場所で歌ったのかを聞きたがった。
広場に所狭しと並べられた屋台を一つ一つ覗きながら、食べ物の好みを尋ねたり、ウッカの軽快なリズムに合わせて手を打ったりして、とりとめもなく歩いた。
後で考えると、この時から気付くべきだったのだ。
フライオは、自分と娘が周囲の視線を不必要に浴びている気がしていた。
ちらちらと興味深い視線が、人ごみのあちこちから発され、こちらが気付いて目を上げると、あわてて逸らす気配がする。 最初は自分が注目されているのかと思ったが、そのうちに、視線の先にいるのは、連れの女ではないかとフライオは思い始めた。
仰天の瞬間は、露天の飲み物屋で穀物酒のパイルを注文した時にやって来た。
「祭りの申し子、アリアの神様にお会いできるとは嬉しいね。
ピコの実はサービスするから、あとでこの店のまん前で一曲やってくんなよ」
露天商の親父が、日に焼けた顔をほころばせてお愛想を言った。
「有難い、そうさせてもらおう。
それから、酒じゃないヤツをこの娘さんに」
女を指してフライオが言うと、
「おや可愛いお嬢さん‥‥」
言いかけて、商人の顔色が変わった。
「わっ。 オッ、王太子殿下!!」
思わず出した商人の大声に、周囲の人間が飛び上がって振り向いた。
フライオは一瞬、頭の中に宇宙への穴があいたのを感じた。
王太子と呼ばれる人物は、現在カラリアにはたった一人しか存在しない。
カラリア国王、オギア3世の嫡男、イリスモント殿下である。
ギリオン・エルヴァゆかりの、エウリア妃の夫に当たる人物だ。
待て、待て待て。 夫と言ったら男がやるもんじゃなかったか。
王子も確か、女には出来ない役どころだったんじゃなかったか?
あの時見た白い肌、桜色の乳首は幻か?
しまった、と思った時には、フライオは地面に膝をついてしまっていた。
職業病ともいえる条件反射である。
周囲のものが動揺し、歌人に習ってひざまづこうとして押し合う。
前のものが座ると、立ってはいられない。
一人だけ不敬になるのがいやで、全員が座ってしまった。
「ああ、よしなさい。 皆そのままで」
広場中の人間が自分に膝を折ろうとするのを、女が止めた。
いや、それが女であると思っていたのはフライオひとりだった。
生粋のカラリアっ子たちがその眼で見て、その人物が王太子イリスモントだと言うのであるなら、それは間違いではありえないだろう。
王太子は、平伏してしまった民衆を、怒りのこもった目で見下ろした。
「これ、賜り商の亭主。 そちが悪いぞ。
こういう時は身分に気付いても明かさぬのが、土地っ子の誇りであろうに」
「は。 申し訳もございませぬ」
商人は地面に頭をすりつけた。
「それと虹の歌人、そちのせいだな?」
「‥‥はい」
「一人がやると、皆がすわらねばならなくなる。
これでは何のために、平服で外出したのかわからぬわ。 立ちなさい」
「は、しかし‥‥」
「よいから立て! まったく、これのどこが無礼講か!
たったふたりで、祭りの群集を全員、野暮天の集団にしおって」
「申し訳ございません」
仕方なく、フライオは立ち上がった。
周りの人々もそれに倣う。
「罰として、これ亭主、そちは全員に一杯ずつ飲み物を配るのだ。
それから、歌人フライオ。
‥‥なんの罰が下るか、わかっておろうな?」
「‥‥今ここで、例のアリアを歌う、ですね‥‥」
「タダでな」
王太子は微笑んだ。
なんでだ!
どうなってるんだ?
いったいなんの冗談だ!
あの時、たしかに女だった!
それがなんで王太子なんだ?
知りたい、けど、知りたくない。
いやいや知らない方がいい!
ヴァリネラを準備しながら、フライオは頭の中で転げ回って叫んでいた。
可能性を検索する。
その①。 イリスモント王子に、双子の妹がいる。
却下。
わたしのアリア、とはっきり言ったからには本人だ。
その②。 イリスモント王子に女装癖がある。
例えば、魔道士に命じて、魔法で女になったというのはどうだ。
もともと、カラリア王家には魔道を学ぶ慣習がある。 その力で女性になったとしたら。
この王子なら、その手の冗談はやりそうな気がするがどうだろう。
その③。 王子が、生まれながらに女性だった場合。
つまり、国民を欺いて男性を名乗っているということだ。
しかしその理由はなんだろう?
カラリア王家には、女帝の例がある。
だから、男児がいなければ女児が王位を継ぐ事が出来るはずだ。
にも関わらず、性別を偽ると言う事は。 それ相応の、危険な理由があるということだ。
もしもそういう事情であれば、フライオは、王家の刺客によって殺害されるだろう。
広場に静寂が広がっていた。
上の空で弦を合わせる歌人の手元を、民衆が期待を込めて見ている。
今年のクラステでは、初めてのアリアだ。
「私が行くまで、絶対に女の歌を歌うなよ!」
去年、別れ際に叫んだギリオンの声が、耳元で再生された。
きっとまた、あとでこっぴどくどやされるのだ。 でも今回は仕方ない、判ってくれよ、兄ちゃん。
貴婦人の期待の目。
胡散臭げな、貴族の男どもの視線。
町娘の熱い吐息、カラリア男の好奇心。
ヴァリネラを構えると、フライオの心には平静が戻り、いろいろなものが見えてくる。
次第に人が増えて立て込んで来た一角に、鮮やかな笑顔の若い娘を見止めた。
底抜けルーラだ。
こざっぱりした淡いドレスに着替えた小間使いは、穀酒の器を片手に、ほろ酔いに頬を染めていた。 昼間その口から漏れた、甘い息使いを耳元で再生して、フライオはようやく歌心を立ち上げることが出来た。
第一声で、人を惹きつける。
たたんだ布を広げるように、声の毛布をバサリと振る。
心と体を包んで、そっと暖める。
そこから、優しく空気を愛撫する。
ヴァリネラの繊細な爪弾きでくすぐる。
声にこもる悲しげなオブリガードで、焦らしながら高める。
突き込むときは一気に。
何もかもを奪い取る、怒涛のフォルテシモ。
それから波のように揺するテノール。
揺すって、揺すって、達するまで赦さない。
最後は余韻を楽しむハミングでキスする。
アリアの手順は、女を抱く時と同じだ。
広場を埋め尽くす聴衆の表情が恍惚として、その上空に百のため息が吐き出された。
歌い終えた歌人に、嵐のような拍手が降り注いだ。
「歌人よ、どんな気分だ?
きっと明日には、広場中がそなたの歌を歌っておるぞ!」
イリスモント王子は、自分のことのように喜び、はしゃいだ。
その予言はきっと実現するだろう。 この歌がヒットすることは、疑いない。
しかし、この歌を聞いた国民の誰一人として、歌のモデルとなった娘が、目の前の凛々しい王太子であることなど、絶対に気付かないに違いない。
ああギル、早く来てくれ。
ぐずぐずしてたら、俺はきっと口封じに殺されちまう。
ヴァリネラを抱き締めた歌人の膝の上に、サロンの招待状のメモが山のように積み上げられ始めていた。