9、妖獣と砂男
埃っぽい、レンガ色の月が出ていた。
赤さびたような月明りの中を、二つの人影がセイデロス城の城壁から滑り出て来た。
ギリオンとユナイである。
周囲に目を走らせ、街の中に走りこむと、建物の陰につないであった馬に跨った。
昼間のうちに、イシュルドが用意して置いてくれた馬である。 当座の食料と水、わずかだが路銀も、鞍の裏側に仕込んであった。
「有難い。 気の利く男だな」
心の中で手を合わせ、ふたりは静かに馬を進めた。
彼らを逃がしたことで、イシュルドにお咎めが及ばぬように祈ることしか、今は出来そうにない。
「砂漠に入って、都を左手に見ながら国境を越えると発見されにくいと思います」
イシュルドが教えてくれた通り、セイロデの街路をまっすぐ抜けて、砂漠を目指して走った。
夜のうちに少しでも距離を稼いで置かねば、昼になると体力との戦いになる。 それでなくても、地理には不案内なのだから。
「カラリアへ帰ろう」
ギリオン・エルヴァの口からその決意が発せられたのは、セイロデに来てから1ヵ月。
外人兵士との訓練を終えて倉庫へ戻って来たギリオンが、昼間の暑さが嘘のように冷え切った床に腰を降ろした途端、呟いたのだった。
「戻りますか!!」
ユナイが食いつきそうな瞳で、側へ駆け寄って来た。
彼にしてみれば、待ちわびた言葉だった。 カラリアの政権交代を耳にしてからの10日間、ユナイは彼の上司の沈黙をジリジリしながら見守っていたのだ。
「イシュルドたちに情報を集めさせていたんだが、カラリア国内の状況は少しも外に漏れて来ないんだ。 魔導師どもが国政をどう動かしているのか、全くわからない。
前国王や一族は処断されたりしているのかさえもだ。
情報源になる御用商人たちが全員シャットアウトされているらしい」
「鎖国状態にあるということですか」
「そう、完全に孤立している。
不用意に帰国したらどう扱われるか、さっぱり見当がつかないから、わかってから動きたかったんだが、どうもわかりそうにないみたいだね」
王太子の命で王都を追放されたギリオンは、非常に微妙な立場にある。 彼と王太子の間には、実は傍から見たほどの確執は残っていないのだが、魔導師どもが彼を敵と見るか味方と見るかは予測の範疇にない。 それでも、このまま手をこまねいていてもなんの進展もないとしたら、動いてみるしかないだろう。
「この分だと、“牙”の連中の情報網が、一番確実なんじゃないかと思うんだ」
「ロンギースのところに戻るっておっしゃるんですか?」
「どのみち、“白糸の街道”を通らずには帰れないじゃないか」
「だからって、あんなにあなたを目のカタキにしているあの男に頼らなくっても」
「そう、だからルシャンダを間に入れて、こっそり連絡を取りたい。
ここから出ないことには何も始まらないことは確かなんだし」
「それは僕も賛成ですが」
山賊に頼るというのも不安な気持ちだが、取りあえず動いてみることに反論はなかった。
砂漠の地平は、月明りの下で幻想的な色に染まり、起伏を繰り返しながらどこまでも広がっていた。
左手に小さく見えていた町明かりも、夜が深まると闇に沈み、星もかすむ暗い空との境がわからなくなる。 方向をさぐる術といったら、この頼りない星の位置ばかりだ。
思うようにはかどらない砂地の道のりを、どれくらい進んだであろうか。
「‥‥何の音だろう?」
ギリオンが不意につぶやいた。
彼は耳を澄まし、もっとよく聞くために馬の足を止めた。
かすかな地鳴りのような音が、足もとを揺すっているように感じたのだ。
「何か‥‥何か、来ます!!」
ユナイの叫び声と同時に、地面が大きくバウンドした。
馬が高くいななき、飛び上がって走り出す。
地面が隆起していた。 大きく盛り上がり、はじけるように一瞬で成長する。 そして、その中から小さな塊が排出された。
2頭の馬が飛びのいて、そのまま逃走を始める。 ギリオンとユナイは馬をなだめながら、巻き込まれないように後退して、地面から吐き出された「もの」を見ようとした。
それは、サルのような毛を生やした小型の小動物だった。 砂から吐き出されるや、必死で起き上がり、自分に続いて砂から出て来る物を引っ張り出そうとした。
サルの手には、黒い鎖が握られていた。 サルはキーキーと耳障りな声で叫びながら、砂にもぐりこんだその鎖を懸命に引っ張っていた。
「デカブツ、デクノボーめ、また引っかかりやがったぜ!
出ろ、出ろ、サルビー、さっさとしろよ!」
(カラリア語だ)
ギリオンとユナイが体をこわばらせた。 カラリア語を喋るサルということは、魔導師が使役している妖獣であろう。
砂は更に盛り上がって、小山のようになった。 地面の傾斜が大きくなり、サルはついに自分の体を支えきれずに鎖を放して転がり落ちてしまった。
同時に地面の膨張が止まった。
「ええ畜生! あと少しで出て来たのに」
地面を叩いて悔しがるサルの首根っこを、ギリオンはひょいと捕まえて馬上に引きずり上げた。
「うわああ! 何しやがんでえ」
サルが暴れて手足を振り回す。
「お前こそ何をしている? こいつは魔法だろう?」
「ギリオン・エルヴァだ!」
サルが思い切り悲鳴を上げた。
「知ってるぜ! 絵姿を見たことがあるぜ。
近衛隊から辺境へ飛ばされた男なんだぜ」
「ほう、嫌な話を知ってるじゃないか」
ギリオンはわざと怖い顔をして見せた。
「だったら他の話もさぞよく知っているだろう。
王都で今、なんの異変が起こっている? お前が今ここに呼び出そうとしているものは、何だ?」
「気安く聞かれても困るぜ。 旧軍人は、全員が敵だから、それで地下守りに回されたんだろ」
「地下守り?」
ギリオンはいぶかって、妖獣の顔をのぞきこんだ。
その途端。
妖獣の顔がぐにゃりとゆるんで、見る見る別の顔が浮かび上がって来た。 ひどく懐かしい、少年の顔だ。
(‥‥ラヤ‥‥?)
驚いて手を緩めた隙に、ガンと顎に蹴りを入れられ、思わず手を放してしまった。
「ヌケサクだぜ!」
妖魔は馬から飛び降りると、目で追う暇もないくらいのスピードで、出来立ての砂山へ駆け戻った。
そして、高らかに呪文を唱えながら、渾身の力で鎖を引っ張り始めた。
「チェーバス・セクメル・ロハラウロウス・ザムザメンテ!
門よ、門よ、門よ! 開け!!」
呪文と共に地面が轟き、小山がもうひときわ膨れ上がってそそり立った。
「ダメだ、ユナイ、逃げろ!!」
ギリオンは馬に鞭を当て、もはや全力で走らせ始めた。 振動で足がすくわれそうになる。
走る馬を追うように、山は更に巨大化した。
「街が飲まれるぞ!」
明かりの消えた都の町並みが、闇の中に近づいて来た。 後ろから盛り上がった砂山が、津波のように迫ってくる。
「逃げろ!! セイロデの住民たち!
目を覚ませ、街が砂に沈む!!」
「イシュルド! ガスラン! ムージャス! サヤナ! みんな起きてくれ!!」
声高に呼びながら後ろを振り返る。
一瞬、砂の津波が巨大な人間の形になって、両手を振り上げて歓喜に叫ぶのを見たような気がした。
寝静まった民家から、ひとりまたひとりと、人が飛び出して来る。
その上へ、砂の巨人が覆いかぶさって行く。
同時にギリオンたちの体も、その砂の中に埋没した。
重圧に悲鳴が漏れた。
地球が裏返ってのしかかってきたように感じた。
「‥‥ユナイ」
視界が暗くなる瞬間、ギリオンは彼が保護しなければならない少年の名を呼んだ。
ああ、また守れなかった。
もう何度目になるのかわからない後悔に歯噛みをしながら、ギリオンの意識は宇宙の彼方まで蹴り飛ばされてしまった。