8、獰猛な青い竜(後)
ティティの目にうっすらと涙がにじんでいる。 その涙も、睫毛の上ですぐに凍り付いてしまう。
「隊長殿、ヤツラはね、旧体制をいつでも、皆殺しに、出来るんです。
はなから、生かしておく気なんか、ないんですよ!」
白い息を吐きながら、ティティは雪の大地を拳で殴りつけた。
それから小さな嗚咽を漏らし、うつむいて肩を震わせた。
その肩の上にも、もうびっしりと厚く雪が積もっていた。
ヴィスカンタは唇を噛んで、その肩を睨みつけた。
帰るべき土地を失った悲しみは、彼にも平等に訪れている。 足元に踏みしめる物が何もない喪失感は、寒さなどより強烈に心を凍てつかせた。
(でも約束した。 隊長殿に約束したのだ。
どんな思いをしてでも、この部下たちを全員、故国に帰すのだと‥‥)
ギリオン・エルヴァが身を犠牲にして副官の彼に託した仕事である。
国家がなくなっても、一人一人の家は残っている。 カラリアのあちこちにある、彼らの家にそれぞれの疲れた体がたどり着くのを、ヴィスカンタは見届けねばならない。
(扉は何処に行ったのだ。
探して王城の中に戻らねば‥‥)
思いは焦るばかりだが、一向に体は動かない。
そうするうちに、数人の隊員が雪の中に倒れ込んで動かなくなった。
ヴィスカンタ自身も、すでに体力の限界を自覚している。 先ほどまでは、寒さのためにガタガタ震えて止まらなかった体が、今は静かになっている。
寒さに震えるだけの力も、すでに残っていないのだ。
ふと気が付くと、さっきより地面が近くなった気がした。
真っ白く凍った大地が、すぐ目の前にある。
自分がどんな格好になっているのかわからずに目をしばたたかせているうちに、彼の顔を固く冷たい雪がガンと殴った。 地面に顔がくっついてしまったが、どうしてだろう、とぼんやり考えていた。
(いけない、眠くなった。眠ってしまう。
私が眠ったら、誰がこの兵士たちを家に帰してやれるのだ?)
必死で目を開けてあたりを見回すが何も見えない。 目を開けていること自体、夢なのかもしれない。
雪の上にいくつかの黒いボロ布が立てかけてあって、その上にごっそり雪が積もっている。 ‥‥と思ったら、そのボロ布一つ一つが人間の形をしているようだ。
それはボロ布ではなく、座り込んだ仲間たちだった。 吹雪は無常にも、すでにそのわずかな黒い色さえも、覆い尽そうとしていた。
その時突然、空が青黒く変色した。
それまでも雪雲に閉ざされて薄暗かった空が、見たこともない不気味な色に変わったのだ。
否、それは空の色ではなかった。
青黒い空と見えた物は、何かとてつもなく大きな生き物だった。
それはゆるりとした動きで天空をのたうち、大空を半分以上覆って暗くしていた。
「‥‥り、竜だ‥‥。 青い竜‥‥」
ヴィスカンタは雪の上に転がったまま、呆然と見ていた。
巨大な青い竜が、天空にうねる様を。
その巨大な体は渦を巻いて冷気を切り裂き、上空で何度か回転したあと、一気に地表へと降下して来た。
体が飛ばされそうな風圧。
冷たさは痛みになって、全身に突き刺さる。
「ヒィッ」
動かないはずのヴィスカンタの体が、辛うじて起き上がった。
恐怖のためである。
家一軒あろうかという、巨大な竜の頭が目の前に迫っていた。
金色にぎらつく、獰猛な表情の目玉が二つ、彼をしっかりと捕えている。
その下にある鼻と口から、指すような冷気が流れ出して来る。
(た、助けてくれ‥‥)
もはや声は出せない。 這いずって逃げようとしても、手足の力は万里の彼方に逃げ去ってしまった。
バキバキと音がした。 竜の長い腹部が、地面に落ちている凍った塊を砕く音だ。
その塊とはすなわち、兵士たちが抱えていた剣や、食料やテントの入った荷袋である。
その音を聞いて、竜は不意に鋭い動きで首をめぐらせた。 自分の胸元を、大きな目玉で見下ろす。
そこには、座ったまま意識を失ったエルヴァ隊の兵士たちが、半ば凍りついて並んでいた。
竜の巨大な口が、一瞬で彼らを飲み込む。
ヴィスカンタは成すすべもなく見ていた。 恐怖で息をするのも忘れていた。
尖った牙が、黒い塊を噛み砕く、ぼりぼりと鈍い音が響き渡ると、足元の白い雪が赤く染まった。
噛み合わさった牙の隙間から、凍ったブーツが片方、恐らく中身の入ったまま、音もなく落ちて来た。
(竜は、人を食らうのか‥‥?)
信じられない思いで、ヴィスカンタは自分に問いかけた。
(竜は神であると思っていたが、違うのか?
もっと高みから人を導く、高尚な生物だと思っていた。
この死肉をむさぼる怪物が、伝説の竜だというのか。
こんな物、こんな生き物は、ただの馬鹿でかい猛獣ではないか!!)
ヴィスカンタの、すでに感覚のなくなった手が、腰の大剣にかかった。
引き抜こうとしたが、凍結した刀身は鞘から動かない。 彼は渾身の力で、刀を鞘ごと帯から抜き取ると、巨大な竜の頭めがけて、やみくもに打ちかかった。
残った全ての力を振り絞って。
竜の目が、信じがたい速さでヴィスカンタを捕えた。 次の瞬間には、その口は彼の正面にあった。
凄まじい冷風は、もはや風ではなかった。
岩の塊に叩かれたような衝撃と共に、ヴィスカンタの体は弧を描いて宙を舞った。
「さて、国王陛下。 そろそろお寝みなさいませ」
カラリア王国宰相、もと魔導省大臣ジャンニ・ストーツは、四角い顔にはまった左右ちぐはぐな目玉を、執務室のデスクに座った人物に向けた。
そこにいるのはでっぷり太った中年の男で、積み上げられた書類に熱心にサインをしていた。
新国王、もと王弟のドルチェラートである。
ストーツが声をかけた途端、国王は手の中のペンを、紙の上にパタリと落とした。
「そうしよう」
腑抜けたような声で答える。
「陛下、今夜はどなたも寝室にお召しにならないでください。
お世継ぎをおつくりになる日は、こちらで定めます」
「そうしよう」
「お寝みなさいませ」
「おやすみ」
新国王は、糸を引かれた人形のように立ち上がり、とろくさい動きで部屋の外へ出て行った。
「素直なものだ」
部屋の隅にひっそりと立っていた黒衣の男が、腹に響く低音でストーツに話しかけてきた。
フードに半分隠れた長い真白な髪は、クーデターの皮切りに広場で演説を行った男である。
ストーツは、異様に四角い頭をゆっくりと振った。
(声を出すな、ジャデロ。 四六時中外にいると、つい忘れてしまうようだな)
広げた両の掌で、独特の文字を作って会話する。 魔導師の間では、音声は竜神を活気付けるとしてタブー視されているのである。
(国王は素直すぎる。 まるで木偶だ。
兵士なんぞは狂信的な木偶でかまわんが、国王はあれではまずい。
せめて国民の前に出るときは、もう少し聡明そうなふりでも出来るようであって貰いたい)
(工夫するとしよう。
で、狂信的な木偶のほうは出来上がったのか?)
白髪の魔導師に問われて、宰相はうなずいた。
(これから私が行って、狂信者に育てるところさ。
竜に殺されかけて半分壊れた精神に、我らが神のお姿を叩き込んで来よう。 きっと泣いて喜ぶだろう。 仲間は全て死んだと、全員が思いこんでいるから、決心はつきやすかろう)
白髪の男は満足そうに白い髭をしごいた。
(辺境警備の連中の洗脳が終ったら、国の軍隊の8割がこちらに付いたということになるな)
(まだ油断は出来んぞ、導師ジャデロ)
ストーツは渋い顔をして見せた。 国王のために用意された、最上級の黄葉茶を勝手にドボドボとカップに注いで、一息にあおる。
(導師の腕は見事だが、貴族どもは領地内に私兵を飼っておる。
辺境警備隊にも、まだ残留組がいるだろう)
(頭のない蛇がこわいものか)
ジャデロが不平そうに口を歪める。
(見くびるな。 王太子イリスモントは逃亡したまま、おまけに警備隊の中に、あのギリオン・エルヴァの姿がなかったではないか。
早くやつらを見つけ出せ。 あの連中が蛇の頭になると厄介だぞ)
(導師ストーツは心配性だな。
そんなことになる前に、速攻で片をつけて見せるさ)
(期待しよう)
団扇のように大きな手を一振りすると、ストーツの姿は部屋から掻き消えた。
「小心者め」
ジャデロは咽喉の奥で毒づいてから、自分もゆっくりと姿を消した。