7、獰猛な青い竜(前)
谷間にこだまする風の音。
視界は白銀に閉ざされている。
吹きつける風と雪のために、ほとんど目が開けていられない。
右手にそそり立つのは、大きな山の斜面である。 それが何のどういう山であるのかもわからない。
左手には、足が滑ったら何処までも転がり落ちるしかない、谷間の暗がりが待ち構えている。 山から吹き降ろす風は、どうどうと彼らの体を叩いて、その谷間へ追い落とそうと執拗に攻撃して来る。
エルヴァ隊22名は、降りしきる吹雪の中をもう何時間にも渡って行軍していた。
すでに手足の感覚はない。 寒いとか冷たいとかいった意識も、今では鈍重になりつつある。
ただひたすらに、重く、痛く、苦しい。
片時も緩まず吹き付ける風は、彼らの体からあらゆるものを奪おうとする。
体温を。
希望を。
命を。
「総員、点呼だ。 番号!!」
隊長代理のヴィスカンタが叫ぶ。 後ろに何人ついて来ているか、目を凝らしても確認できないからだ。
機械的に声を出しては見るが、彼自身、その声がつぶやくほどの音量しか出ていないのではないかと不安に駆られている。 吹雪の音に対抗して大声が出せるほど体力が残っていないことを、自分でも判っているのだ。
「番号、1」
「2」
それでも背後から返答がある。 ただしその声も、半ば朦朧としているように感じられる。
「さ、さん‥‥」
「‥‥」
「おい、4がない。 ランツァールは!」
「へ、返事してます、ランは咽喉をやられてて。 自分は5であります」
「‥‥ろ‥‥」
もっと後ろは、返事をしていようがいまいが、全く声が届かない。
「全員ついて来ているのか? 後ろに聞いてくれ」
仕方なくヴィスカンタは、点呼を伝言形に切り替えた。
隊長代理の言葉を、一番手のヤノが鸚鵡返しに後ろに送る。 そんな短い台詞の間にも、開いた口から雪が咽喉の奥まで飛び込もうとする。
「ティティがいません!」
後方から声が送られて来た。
「あッ、後ろだ。 隊長、停止してください!!」
吹雪の向こうから、慌てた声だけが届いて来る。
ヴィスカンタは仕方なく、全員に停止を命じた。 円陣に集合させ、しゃがんだ体を出来る限り寄せて暖を取らせる。 そうしておいて、自分は後方の様子を見に戻った。
マバトから帰郷する間に、少しずつ衣類を増やさせてはいたものの、さすがに冬山に対応するほどの重装備はして来ていない。 集まって互いの体温で暖めあう意外に、凍死を免れる方法がないのである。
「もういやだぁ!
いつまでこんな寒いとこ、歩きゃいいんですかあ!
俺たちはこのまま死ぬんだ! 殺されるんだ!
畜生、魔導師どもめ。 殺すなら、一思いにやりやがれ!!」
後方に置いてきぼりになり、雪の中で大の字に寝そべってわめいているのは、もと騎兵のティランティーノ、通称ティティ。
ユナイ少年が抜けたあとのエルヴァ隊の中では、一番若い隊員となった青年である。 戦場では勇猛果敢な戦いぶりで注目を集める期待の戦士だが、いささか逆境に弱いのが玉に傷であった。
「こらティティ! 先輩たちを、差し置いて、勝手に自分だけ、気持ちよく、スネるな。
お前よりも、もっとガタが来た、中年組が、頑張っているんだ。 もう少し、踏ん張ってくれ」
ヴィスカンタが声をかける。 それだけで息が切れてめまいがする。 せっかく発した声も、寒さのためにうまく発音できず、非常に聞き取りにくい。
ティティはガバと体を起こし、雪肌に四つん這いになって上官をにらみつけた。
「だったら、教えてくださいよ!
隊長殿は、判っておいでなんですか? ここが、どこなんだか」
こちらも息を弾ませ、動かぬ唇に鞭をくれながらやっと言葉を出している。
「どこかの、山の中だろう」
「なことは、馬鹿でも判ります! 自分の言ってるのは、ここが、現実の山なのか、それとも、魔導師どもがこしらえた、ただの夢、なのかって話ですよ。
現実の山の中なら、自分だって、グズグズ言わずに、いくらだって、歩きます。 歩いてりゃ、吹雪をしのぐ場所も、あるかもだし、民家がみえる、かもでしょうよ。
でも、魔導師が作った、夢の中だったら、そんな楽しい、もんがあるわけはない、歩くだけ、体力の無駄じゃ、ありませんか。 そんなわけの、わからん、動き方をするのが、自分はイヤだ、って言ってんですよ!!」
ティティの言い方は不遜であったが、内容は至極尤もだった。 マバトから苦労して食料や水を確保しながら、ようやっとの思いでカラリアまで戻って来たばかりなのだ。 余分な体力など残っていないし、中にはすぐに医者に診せたいほど衰えている者もいる。
ヴィスカンタにも、それはよくわかっているが、どうしようもないのだった。
王都カラル・クレイヴァに入った途端、王城周辺の様子が一変しているのに驚き、そこで初めて国王崩御、及びクーデターの事実を知ったのである。
城を守る衛兵はすべて、黒衣の下級魔導師だった。
彼らはまだ修行中の半人前なので、ろくな魔法は使えないと侮っていたら、杖の先から小さな電撃のようなパワーを出すことだけは仕込まれていた。
おまけに、ひとりが魔法を使うと、他の魔導師が察知して集まってくるので、蟻がたかるように人数が増えて行く。
エルヴァ隊の一行が、辺境ながら前政権の正規軍兵士であると知れるや、集まった下級魔導師どもが彼らを取り囲み、宮殿のハズレにある倉庫に押し込めてしまった。
やがて、日が落ちて宵闇があたりを包む頃、先の見習い魔導師よりもぐっと上級者とわかる、年配の魔導師が現れて、エルヴァ隊の面々に深々と頭を下げた。
「出やがったな、乗っ取り犯め!」
気色ばむ兵士たちに、上級魔導師は丁寧に謝罪を始めた。
「警備隊の皆さん、我らの見習いの者が大変失礼な真似をして申し訳ない。 彼らは何もわかっておらぬのです。
我々はあなた方を傷つけるつもりはありません。
新しい御世にも兵士は必要であり、その全てを別の人間に取り替えていては、国家が維持できません。
あなた方にとって、この政権交代は不本意なものだったかも知れませんが、もしこのまま、生まれ変わったカラリアのために働くお気持ちがあるならば、近衛の兵士として優遇させて頂きましょう。
もちろん、別の職をお求めでしたら、お引止めは致しません。 そこのドアから出て行かれれば、あなた方は自由の身です。 どちらでも、お心のままになさいませ」
「王太子殿下にお会いできないのか?
ご無事でおられるなら会わせてくれ。 そうすればさっさと出て行ってやる。
我々は、新体制に迎合する意志はない」
ヴィスカンタが冷静な口調で魔導師に申し入れをした。
それに対する魔導師の返答は、一同に息を飲ませた。
「イリスモント殿下は行方不明になられた。
我々もお探ししているのだが、まだ突き止められませぬ。 国王暗殺事件の夜からお姿をお見かけせぬので、逃亡の噂が立ち始めているのです」
「逃亡?」
「新体制に弓引くために国外へ逃亡され、そこで機が熟すのをお待ちになるのでは、ということですな。 お母上もエウリヤ妃も城内に残っておられるのに、おひとりでお逃げになるとは困ったお方です」
腹を立てて一斉に何か言いかける部下たちを、ヴィスカンタが手で押しとどめた。
ここで争っても、勝ち目はないと判断したのだ。
「よくわかりました。 この都に我らの居場所はないようだ。
さっさと退出させていただきましょう」
そう言うと、彼は倉庫の扉を開いた。
足音高く外に出て行く警備隊の兵士たちを、魔導師は止めなかった。 ただしそれは親切からではなく、止める必要がなかったからだった。
倉庫の外に出て扉を閉めた途端、すさまじい冷気が兵士たちの体を叩いた。
来た時と風景は一変していた。 そこはもはや、王城の中庭ではなかった。
吹き付ける吹雪の真っ只中に、兵士たちは立ち尽くしていたのである。