6、羊飼いの剣術指南
砂漠の砂は眠らない。
吹いたと思えば止み、止むかと思えばまた強くなる気まぐれな風に乗って、天空を舞い、地を滑り、屋根を走って踊り狂う。
軽く頼りない物に見えるが、油断するといつの間にか山のように吹き溜まって重くなる。
(わたしの恋も、この砂にそっくり‥‥)
サヤナはベッドに体を起こし、今夜もそっとため息をついた。 まだ12歳になったばかりの小娘にはおよそ似つかわしくない、熱く悩ましい吐息である。
夜半を過ぎてもまんじりともせず、起き上がっては風の音に耳を澄ます。
そうして風に乗って、聞きなれた金属音が響き始めると、我慢しきれずベッドをそっと抜け出すのである。
風除け布を張った小さなランプひとつでは、建て増し工事の途中でガランとした深夜の裏宮殿の奥庭へなど、怖くて入れたものではない。 普段のサヤナなら、国王陛下のご命令でも真っ平だと思うだろう。
しかし今、彼女の小さな足は、工事途中の散乱した敷石を踏み越えて、どんどん庭の奥へと進んで行く。
何も怖がることはない。
この暗がりを抜ければ、あの人に会えるのだから。
行く手の木陰から、ぶつかり合う金属音が次第に大きく響き始める。
荒い息遣い、地面を蹴る音、小さく気合いをこめる声も聞こえて来ていた。
目の前に広い空き地が広がっている。
新しい離宮を建てるために均された土地である。 敷石にする磨石が足りなくなったために、もう一月以上も工事は中断しているらしい。
四角い敷地の四隅と中央部に、サヤナが持っている物より一回り大型のランプが置かれ、風で倒れぬようにそれぞれ石で重石がしてあった。
その明かりの中で、10人ばかりの外人兵士が、剣術の稽古をしていた。
刃をつぶした模擬刀で、互いに攻撃し合っている者もいる。
単独で、枝からぶら下げた布のようなものに切りつけたり、地面に立てた目印に向かって、ひたすら素振りを繰り返している者もある。
始めた当初、練習しているのはイシュルドとあとふたりだけだった。
それが次第に、噂を聞きつけた仲間の兵士が一緒に剣を振るうようになり、ひとりまたひとりと人数が増えて、とうとうこの大所帯になってしまったのだ。
彼らの指南役は、ひときわ高い塀の上で、剣を持たずに練習風景を眺めていた。
それは彼らの中で一番華奢な体格の、少年期を脱したばかりといった印象の若者であった。
異国仕立ての旅装束に、洒落崩したターバンは芸人の服装である。
彼は、築きかけの白い石塀の上に足をブラブラさせて腰掛け、細絹のような金色の髪を風に梳かしながら兵士たちの練習を見ていた。
その顔立ちは優雅で繊細、浮かべた表情はおだやかで、戦ごととは無縁に思える涼しい目つきである。 左手に杖のような銀色の棒を持ち、右手では首から下がったお守りのような物を弄んでいる。 青空の下で草を食む羊を見ている方がずっと似合いそうな、独特の風情があった。
(まるで牧神のような人)
サヤナはうっとりとその姿を見つめた。
地上から切り離された絵の様な彼の姿を、ここから眺めるのが彼女のお気に入りだった。 最初の晩に、兵士のひとりに脅されて鍵を開けに来て以来、彼女の胸は湧き上がる想いに焦がれて、眠りの時間を頑なに拒むのである。
人の噂では、彼は竜神に愛された、奇跡の歌人であるという。
「ガスラン、まだ違う。 殴るんじゃなく、薙ぐんだ。
そんなんじゃ手首を傷めるぞ」
歌人はひょいと塀から飛び降り、ふたり組みで打ち合いをしていた兵士のひとりに歩み寄る。
「お前の武器は棒っきれじゃないんだ。 引き切るためには斜めに、こう」
銀の棒を柔らかく振って見せる。 少しも力を入れていないのに、ひどく鋭い音が空気を裂き、他の兵士がビックリしたようにそちらに目をやる。
「だめだめ、今度は腰の力が抜けた。
‥‥こら、ムージャス!」
歌人が振り向きざま、隣で枝から吊った布を切っていた中年の兵士の胸元を、銀の棒でドンと突いた。 兵士がゲフゲフと咳き込む。
「大振りして簡単に体を開くな。
色ボケの尻軽女みたいだな、お前の剣は」
顔に似合わぬ下品な冗談を言ってまわりを笑わせておいて、歌人は中年兵士の正面に立ち、銀の棒を中段に構えた。
「薙いでみろ、横から」
一瞬、相手が躊躇するのを、
「こんな棒が怖いのか? そっちはだんびら持ってるんだろう?」
歌人が掌で来い来いと合図する。
サヤナは息を詰めて、歌人の武器が最小限の動きで中年兵士の胸元をもう一度突くのを見物した。
「こら、また来てるのか」
背後から唐突に声をかけてきたのは、サヤナより二つ三つ年上に見える少年だった。
彼は周辺に人がいないかどうか見張る役をしているので、戦闘訓練に参加しない。
「さっさと部屋に帰って寝ろよ。
お前が抜け出したのを探しに誰か出てきたら、こっちがやばいんだぞ」
カラリア訛りの言葉で、少年はサヤナを追い返そうとする。 いつもそう言って彼女をのけ者にするのは、意地が悪いからだと少女は思っている。
「ユナイは妬いているんでしょう」
ぞんざいに扱われたのが悔しくて、サヤナはつい憎まれ口をきいた。
「いつもファディーロをイシュたちに取られて、あんただけおミソだものね。
独り占めできなくてお気の毒ね!!」
「チェッ、妬いてんのはそっちじゃないか。 いいから早く‥‥」
ユナイは少女を強引に押し返そうとして、はっと体を固くした。
東の離宮の裏口あたりから、小さな明かりが近づいて来る。
ユナイは飛び上がって広場へ駆け寄り、ランプを持ち上げて大きく回した。
兵士の素振りを見てやっていた歌人がすぐに気付いて、鹿のように身軽に広場を駆け抜けると、あっという間に塀を飛び越え、姿を消してしまった。
思わず見とれているうちに、すぐ側にいたはずのユナイもどこかに隠れてしまっている。
離宮からやってくる人影は、従者らしい初老の男にランプを掲げさせた大柄な男だった。
ゆっくりと近づいてくるのを見ていた兵士たちが、おい、やばいぞ、と突付き合いを始めた。
「みんな、剣を置いて膝をつけ!‥‥国王陛下だ!」
イシュルドが全員を集めて控えさせた。
セイデロス国王ディン・ドビリアンは、寝起きでショボつく両眼を歪めて、深夜の広場に集まった外人兵たちのひげ面を眺め渡した。
「諸君、こんな時間に何の騒ぎかな?」
「これは陛下、お休みのお邪魔をいたしましたでしょうか」
イシュルドが遠慮がちに返答した。
「起きたのは別の用事じゃ、緊急の知らせが入ったのでな。
そなたイシュルドと言ったのう、ここで何をやっておった?」
「はい陛下。 我らは自主的に集まって、剣の稽古をしておりました」
「なに? 自主練習」
「はい。 この国の幅広の剣に慣れておらぬものが多く、軍の演習で足を引っ張ってしまうのが心苦しいので、皆で話し合って練習することにいたしました。 昼間に固まって何かをやっておりますと、何かよからぬことをしていると思い違える方もいらっしゃるので、内密に始めた次第でございます」
「ほう、殊勝な心がけではないか」
感心したように国王はうなずいたが、ひょうきんな顔立ちのためか、それとも本音がそうであるためか、人を小ばかにしたようにしか見えなかった。
「最近、外人兵士たちがめきめき腕を上げておって、頼もしい限りだとゴアルド将軍が悦に入っておったが、まんざらホラを吹いたわけでもなかったということかの」
国王の言葉に、兵士たち全員が強い拒否反応を起こした。
あの将軍などにいい顔をさせるために努力しようと思った者は一人もいなかったようだ。 しかしさすがに、国王陛下に渋面を見せるわけにも行かず、自分たちの顔に浮かんだ苦い表情を消そうとして顔面に力を入れたため、兵士たちは揃ってひどく男らしい、強そうな顔になってしまった。
「イシュルドよ。 竜使いの言うとおり、そなたは掘り出し物の家臣じゃの。
今後も好きなだけ稽古に励むがよいが、寝不足や怪我にはくれぐれも気をつけよ」
「ははッ、ありがとうございます」
平伏する兵士たちに背を向けて帰りかけた国王は、ふと足を止めて振り返った。
「ときにそなたたち、カラリアに親類縁者や親しい友人を持つものはおらんかの?」
「‥‥カラリア?」
兵士たちが、半分伏せたままの顔を互いに見合わせた。 国王があくび混じりに説明した。
「今しがた入った連絡じゃが、どうもカラリアで政権交代があったらしいわい。
国王暗殺、魔導師のクーデターと続いて、現在は王弟が国王代理となっておるらしい。
はて一体、どういう内部の事情があってそうなったものか知りたいものじゃが、詳しく知るものがおらぬでは話にならぬ。
モンテロスあたりが、さあどうすれば一番うまい汁が吸えるかと舌なめずりをしておりましょうが、そうなったらどちらに付かれますかと、オスラッドの使者どのに聞かれたよ」
全員が眉をひそめて沈黙したのは、塀の後ろに隠れている人物がどんな表情をしているかを、全員が気にしたからである。
「国王暗殺にクーデターだと?
近衛の連中は、一体何をやってたんだ!」
部屋に戻って来るなり、ニセ歌人、ファディーロことギリオン・エルヴァは、人もうらやむ豪奢な金髪を乱暴にかきむしった。
「大体どうして王弟殿下が代理国王になられる?
ご嫡男のイリスモント殿下はどうされているのだ? あの方が第一王位継承者であることは、国民も納得していたはずなんだ」
「それより隊長、軍隊はどうなったんでしょう?
もし軍本部が瓦解してしまっていたら、我々に救出の手は差し出されませんよ!」
ユナイが上官の上着を受け取りながら心配する。 彼には後方勤務だが軍人の父親がおり、そちらの安否も気になっているはずだが、そのことはあえて口に出さなかった。
「援軍だの救助だのは、はなから当てにしてない」
ギリオンはきっぱりと言い切った。
「我々は自力でここを脱出することが出来る。 現に今だって、比較的自由に王宮内をうろついているんだ。
鍵を開けてくれた人に迷惑をかけるから、いますぐに逃げ出さないだけで、いざとなればやれる。
それより心配なのは、ヴィスカンタたちの方だ。
何も知らずに入国した途端に、新政権に敵視されてつるし上げられたりしてないだろうか」
「また人の心配ばかりする‥‥」
「何か言ったか、ユナイ」
「べ・つ・に」
摘み取っても摘み取っても芽吹いてくるお人好しの芽を、どうやって駆除するかを考えると頭が痛くなるユナイ少年であった。
しかし、今回に限っては、ギリオンの心配は的を射たものであった。
ヴィスカンタたちエルヴァ隊の隊員22名は、ちょうど同じ頃にとんでもない目に会っていた。
彼らは、吹雪の吹き荒れる極寒の山中で、瀕死の行軍を行っていたのである。