5、上官は重病に付き
日没と同時に、室内は真の闇になった。
天井付近にある、明かり取りの小さな窓から差し込む日光の恩恵がなくなると、鼻をつままれてもわからぬ深い闇と不安が、ギリオンとユナイを包み込んだ。
昼間の薄明かりの中でも、物が見づらい状態だったが、この闇では動きも制限される。 そして何よりも、こんな暗がりで2ヶ月もくすぶっていたら、目も見えなくなるし、体力もなくなってしまうのではないかと言う不安が襲って来た。
それだけではない。
「隊長。 ここ、案外冷えますね」
押し殺した声で言って、ユナイが小さく身震いした。
昼間あんなに暑かったのに、日が落ちるや否や、気温は急速に下がり始めた。 夜半近くになると、霜が下りるのではないかというほど、寒くなった。
明かり取りの小窓は、何の役にも立たないだけでなく大いに有害だった。 そこから砂混じりの風がひゅうひゅう吹き込んで、室内の空気を冷やしながらかき混ぜた。
ギリオンはユナイを膝の間に座らせ、ふたりは互いのマントを体に巻き合って暖を取った。
誰かにその有様を見られたら、またふたりして淫行にふけっていると思われただろうが、この際そんな仮定の話を気にかけている余裕はなかった。
(格子牢のほうが、人間用なだけまだましだったか)
自分はまたしても甘かったのか。 ギリオンは歯噛みした。
抱き合って床に座り込んだふたりが、ようやくトロリと眠りの尻尾を捕まえた頃。
腕の中のユナイが、ふっと身動きした。
ギリオンも素早く目を開けた。
闇に目が慣れているので、おぼろげながら室内の様子は見ることが出来る。
「誰か来ます」
ユナイが囁いた。
「くそッ、せっかく温もってきたところなんだぞ」
ギリオンが舌打ちして、ユナイを立ち上がらせた。
手製の金属棒を携え、扉の両脇にふたりで立って耳を澄ます。
足音はふたつ。 廊下をゆっくり近づいて来て、扉の前で止まった。
鍵を開ける音を聞きながら、壁に張り付いたギリオンが金属棒を振りかぶる。
ドアを開けたのは、中年の男だった。
この部屋に来た時、ドアを開けてくれたのと同じ男である。 牢屋ではないので、牢番と言うのはいないのだが、逃亡を防ぐために施錠しておく担当者なのだろう。 ふたりはあわてて武器を下ろした。
ランプの光の中に、鍵番の男の後ろに立っている少女が浮かび上がった。
若いというより、子供と言っていい外見で、ギリオンの目からはユナイと変わらぬ年齢に見えた。 何故かひどく緊張した様子で、全身をこわばらせ目を見張っている。
「王妃様がお呼びだそうだ」
口を開いたのは鍵番の方だった。 少女はただ、黙って小さく頭を下げただけだ。
「こんな夜中に、王妃さまは起きておいでなのかい」
ギリオンはわざと鍵番を無視して、少女の方に声をかけた。 怯えた表情が気になったからだ。 曖昧にうなずく相手の瞳を目で追いかけつつ、質問を重ねる。
「国王陛下はご一緒なの、それともご存じないの?
寝室にお呼びかい、それとも別のご用なのかな?
ちゃんと答えておくれ、ご用件によってはこの子を置いて私ひとりで行くから」
「隊‥‥ファ、ファディ!!」
ユナイは顔を赤らめて叫んだが、少女の顔は青ざめたままだ。
「その‥‥おふたりで、おいでになるようにと‥‥」
やっと小声で答え、少女は下を向いた。 ほおに黒い睫毛から伸びた涙の跡がある。
「ふうん。 わかった。 ユナイ、上着を取ってくれ」
ユナイ少年は、布団代わりになっていた、厚地のマントを取り上げた。 それをギリオンに着せ掛けるふりをして、中に包んであった3本めの金属棒を、こっそり上官の背中から腰帯に挟み込んで装着させた。 上からマントを着せてわからなくする。
長い廊下は人気がなく、静まり返って寒々としていた。
少女は黙りこくったまま、廊下を抜けて建物を出ると、裏庭の方へギリオンとユナイを案内した。
用心棒代わりに後ろからついて来た鍵番の男は、裏庭に出た時に現れた若い兵士が、俺が代わると言って追い返してしまった。
「王宮の中じゃないのか」
ギリオンがつぶやくと、兵士はフンと鼻先でせせら笑った。
「あの建物は、昼間しか使わんぜ。 夜はみんな、離宮の方へ帰っちまうんだ。
この国は昼と夜の温度が違い過ぎるからな」
「なるほど。 あの吹き抜けじゃ、夜は寒くて寝られないな」
「逆だ、たわけ。 昼が暑すぎて仕事にならんから、昼用にあの王宮が建ってるんだ」
「なるほど、そういうことか」
ギリオンはうなずいたが、納得したのは別のことだった。
目の前の暗闇には、離宮どころか小屋の一軒も、見えてくる気配がなかったのである。
耳を澄ますと、黒い木陰のあちこちから、数人の押し殺した息遣いが漂ってくる。
兵士が合図をして半泣きの少女を来た方向へ押し返した。
(ここで殺るつもりか?)
流れ出る殺気に、武神ギリオンの背すじがピリピリと緊張する。
マントの中に手を回し、後ろ手で武器をさぐる。 ユナイがすぐに反応した。
「ファディ、怖いよ。 ‥‥真っ暗だ」
背後から抱きつくようにして、上官の腰帯から金属棒を外し、ギリオンの手に握らせる。
木立の陰からひとり、またひとりと人影が現れた。
全部で6人。
その中に、さきほどの兵士イシュルドの姿もあった。
「真っ暗なのは、こいつらの腹の中だ」
ギリオンは背中に少年を庇い、いつでも引き抜けるように棒の柄だけをわずかにマントから出す。 まだ武器を見せるわけにはいかない。
「‥‥いいや。 真っ暗なのは、てめえらの未来だね!」
剣を抜くが早いか、左から突きかかってきたのは、案内に立っていた男だ。
刹那、ギリオンは左手に握った物を相手の顔に叩きつけ、のけぞった兵士の首筋に、金属棒の一撃を打ち込んだ。 この際だから、手加減は無しにさせてもらった。
同時にギリオンの背後でも叫び声が起こった。
ユナイが、両手首にひもで結わえてあった砂袋で、後ろから襲って来た男の顔面を殴打したのである。
ユナイ少年兵は、もともと剣技が得意ではない。
彼の父親は、若い頃の戦で片手片足を失い、息子に剣を教えてやることが出来なかった。 代わりに小さな懐剣や、鎖付きの分銅を掌に隠し持って戦う、穏剣術のようなものを息子に仕込んで、あとはよろしくと軍に託したのだ。
エルヴァ隊では、彼に剣術を学ばせてはいたが、まだ隊列に入って戦うと隣に遅れを取るので、薬草の知識などを与え、衛生兵として実戦に参加させていた。 単独で戦うだけなら、戦士として使えない腕前ではないのである。
もっとも、ここに分銅も懐剣もないから、彼が使っているのは、部屋中にこぼれていた鉄サビや砂埃をかき集めて皮袋に詰め込んだ代用品だ。 ギリオンが使った「目潰し」も、この鉄サビを集めたものであった。
「この辺でやめておかないか。 なあ大将」
白皙の美貌にわざと悪魔的な微笑を浮かべて、ギリオンはイシュルドに語りかけた。
「私とこの子は、国王陛下の持ち物だ。 傷つけると王妃様にもご迷惑をかけるだろう。
今ならまだ間に合うぞ。 出来心でちょっかいを出して、竜の尾ではたかれたとでも言っておけば、こっちも口裏を合わせてやる」
「うるせえッ。 信用できるか!」
イシュルドが自棄になって剣を振りかぶる。 打ちかかってくる腹部に一閃、金属棒をめり込ませておいて、ギリオンは素早く最初に倒した男の剣を拾い上げた。
「こ、こいつ‥‥」
兵士たちも素人ではない。 剣を握った途端、歌人の腕前が尋常ではないことがわかったのだろう。
誰も即座にかかってこなくなった。 じりじりと左右に動きながら、ギリオンとユナイの隙を窺っているが、それ以上どうにもできずに肩で息をするばかりだ。 隙が見つけられないのである。
「もう時間の無駄だとわかっただろう。
お前たちが我々に触れるのは無理だ。 あきらめて撤退してくれないかな」
ギリオンはそう言って、わざと剣を下げた。
途端にわっと叫んで、前方のひとりが突きかかって来る。
その剣を、ギリオンの剣が下から軽々と星空へ弾き飛ばした。
「やめろと言ってるのがわからないか。
お前たちは敗軍の残兵だろう。 もと敵国人だと言われて、この国で冷や飯を食わされているのはよくわかる。 我々だって、来たくてここに来たわけじゃない、似たような立場なんだ。 お互いに理解しあって協力してもいいんじゃないのか」
「お前らに何がわかるんだよ?」
地面に這いつくばっていたイシュルドが、大声でわめき散らした。
「国王だの陛下だの偉そうにしてるが、あの男はただの簒奪者だ。
部下に祭り上げられて戦に勝ったはいいが、そのあとの政治力なんかありゃしねえんだよ。
部下にしたって、今生き残ってるヤツなんてろくなもんじゃねえ。 ゴアルドみたいな、愚連隊と変わらんような脳みそしかない男が近衛を牛耳ってる始末だ。 俺たちみたいな正規軍人は、かえって邪魔者扱いなんだよ!!」
不意に、ギリオンが笑い出した。
「ははは、邪魔者はよかったな。
確かにお前たちが軍にいたらさぞかし邪魔だろうよ、弱すぎるからな」
「な、なんだと」
「きさま、言わせておけば」
気色ばむ兵士たちを、ギリオンが構えた剣で牽制する。
「剣客のクセに弱いから、邪険にされる。 弱いから、武器のない者を平気で狙う。 弱いから、大勢でかかって行く。
違うか。 異論があるなら一人ずつ来てみろ!」
「わあああああッ!」
半ば捨て身でかかって来た5人目の兵士の剣が、またしても地面に叩き落される。
「私なんかを狙うより、その暇に剣の練習をした方がいい。
お前たち、本国では両刃の細剣を使っていたんじゃないのか?
とくにイシュルド、おまえと最初にかかって来たこの男。 細剣のクセが抜けてない。
幅広の剣が苦手なら、なんで細剣を使わない?」
「この国で、そんなお上品な剣を売ってるもんかよ」
イシュルドが吐き捨てた。
「ここで売ってんのは、山賊まがいのだんびらみたいな大剣ばかりさ」
「だったら外国から取り寄せればいい」
「馬鹿言え、いくらかかると思ってんだ」
兵士の言い草に、ギリオンは目を丸くした。
「おい、いくらかかろうと、命の値段だろう? プライドの値段だろう?
私なら家を売ってでも手に入れるね。 それが出来ないなら、王妃なんぞに取り入ってる暇に、大剣の練習をするんだな。
‥‥どうだ、なんなら私が相手をしてやってもいいぞ」
兵士たちの目が、ギリオンの表情を気味悪げに探った。 彼らにしてみれば、この「自称・神の遣い」などという異国人は、そもそも胡散臭い錬金術師みたいなものだから、真意の見えないこの発言は余計に不気味だったのだろう。
「そんなことをして、あんたは何の得になる?」
「別に得にはならんが、あの寒い部屋じゃ、運動でもして温まらなきゃ寝る気にもならないしね。
なんだ、タダで世話になるのがいやなのか? ならひとつ、頼みごとをしてやってもいい」
「偉そうに恩を着せるな! やっぱりなんかあるんじゃねえか」
「大したことじゃない。 ゴアルド将軍なんだがね」
ギリオンが意味ありげににやりと笑って見せると、兵士たちが期待したように耳をそばだてるのがわかった。 どうやら将軍は、相当彼らに嫌われているらしい。
「あの将軍、あれだけ私に言われたら、今日明日にでも、馬をこっそり医者に診せると思わないか」
全員が、曖昧ながらも賛成の仕草を見せた。
「その時の診断結果を、証文にして手に入れて欲しいんだ。 将軍の奥方に頼まれたとか適当ないい訳をして、内緒で医者に頼んでくれ。
あの馬は十中八九もうダメだと思うんだが、2ヶ月でそれが証明できなかった場合困るからな」
「そうすれば、王妃様のことは口外しないと誓うか?」
イシュルドがやっと本気で会話をし始めたので、ギリオンはほっとした。
「おいおい大将。 そんなことはもともと、はなから人に言う気なんかないぞ。
それこそ、誰の得にもならんことじゃないか。
あくまで証文は、剣術の稽古との交換条件だ」
ギリオンの肩越しに、ハアッと大きくため息を響かせたのは、ユナイ少年だった。
彼の「人のいい上官」は、落ちこぼれ兵士を訓練して強くしてやりたくなったらしい。 そろそろユナイにも、この上司の思考パターンが読めるようになって来ていた。
(この人のお人好しは、目立たないが立派な病気だ。
それも僕なんかがカバーしようがないくらい根深い病気だ。
おまけにどう見ても、周囲の人間に短時間で感染するタイプの伝染病なんだよなあ)
少しずつその気になってきたらしい兵士たちの表情が輝いている。
それを見ながら、ユナイは頼りになるのかならないのかわからない上官が放り出した金属棒を片付け、怪我人を診るために地面にしゃがみこんだ。