2、スープで乾杯
♪ 足は愛する 旅行く大地を
踏みしめる道の奏でる夢を
耳は求める 草のそよぎを
降り注ぐ雨の優しさを
そして腕は きみの肩の
ほのかに甘いぬくもりを
唇は 情熱の言葉と
ひとときならぬ口づけを愛する ♪
宿場町の片隅にある大衆食堂“白木扉亭”。
開かれたままの扉の前に、人だかりが出来ていた。
どんよりと曇った空から、小粒の雨がわずかに落ちてくる不景気な天気のせいか、大通りにも人けは少ない。 にもかかわらず、この店の前には店内に入りきれぬ客が溢れかえり、地面に座り込んで皿を受け取っている客まで出るほどの大盛況である。
その理由は、開け放した扉から流れ出る、2種類の誘惑にあった。
ひとつは、食欲をそそるシチューと焼肉、香ばしく焼かれたパンの匂い。
もうひとつは、囁くようなヴァリネラの爪弾きに絡まる、甘く豊かな歌声である。
歌人フライオは、食堂の入口に座って、食卓いっぱいに詰め掛けた客を相手に軽いアリアを歌っていた。 サロンで歌うものと違って、明るい曲想のさっぱりした恋歌である。
ドアのストッパー代わりに置いてある木箱に器用に尻を引っ掛けて座り、串焼きにかぶりつく客の顔を眺めながら、表情豊かに歌声を広げる。 その歌に誘われて、通りの方から好奇心に顔を輝かせた客たちが近づいて来るのだった。
この近所には旅人のための宿場が何軒かあるが、そこで夕食まで賄えるかどうかは宿の規模にもよる。 そのため周囲の街路に、数軒の食堂や居酒屋が開いて客に対応しているのだった。
うまそうな湯気の香りに、店を覗き込んだ客の腹がグゥと鳴った。
♪ 腹の虫は 夕餉を欲する
どうぞ 中へお入りください
そろそろ奥のお席が空きますよ ♪
フライオがすかさず歌詞に詠み込んで会釈をする。
ドッと笑い声が店内を揺すった。
「いやもう大助かりだ、フライオ。
天気が悪いんで客足が遠くてな。 シチューが丸々余っちまうかと思ったが、おかげさんで完売だ。
約束どおり食事はロハで好きなだけやってくれ」
客が引いたあとの「白木扉亭」で、赤ら顔の亭主が満面の笑みを浮かべてシチューの皿を運んで来た。 一緒に旅行用の飯盒をテーブルに置いてくれる。
「この皿は、取っておいたぶんのお前さんのシチュー。 パンや飲み物は好きに取っておくれ。
それからこっちがお持ち帰り用のシチューと焼肉、サラダも付けといたよ。 で、こいつは安物だが果実酒を一本オマケだ」
「そいつは助かるな、ありがとう」
「歌の代金を弁当にするなんて珍しいこったね。 誰か連れでもいるのかい?」
「まあな」
歌人が曖昧にうなずくと、亭主はにやにやして、
「料理も出来ない女かい? まさか隠し子ができたんじゃないだろな」
からかいながらパンのいっぱい入った籠を運んで来た。
その時、閉まった扉をガタガタとせわしなくこじ開けて、ふたりの男が飛び込んで来た。
「亭主、金は払う。 奥へ入れてくれ!!」
テーブルの上に小銭を放り出して、そのまま階段を駆け上がろうとする。
「ええ? あんたら困るよ! なんなんですかダメです!!」
亭主があわてて後を追いかける。
フライオはヒュウと口笛を吹いた。
「誰かと思ったら、親衛隊長さんじゃねえか!」
階段を上がりかけた人影がはたと止まって、上から見覚えのある顔が手すり越しに歌人を見下ろした。 王太子親衛隊のリーダー、イーノ・キャドランニだ。 隣の男も、名前は知らないが一緒に見た記憶がある。
「おおお? 虹の歌人どのか? なんと奇遇だな!
いや、すまんが今はそれどころではないのだ。 話はあとでゆっくりするから、そこで待っててくれないか? ちょっとだけ、数分で済むから」
「冗談じゃない、うちは宿屋じゃないんだ。 降りてくれ!」
店の亭主が追いついて、ふたりの侵入者を引きずりおろそうとする。
「そっちはカミさんが寝てるんで立入禁止なんだ。 勝手に上がらんでください!」
「いや頼むから、ちょっと便所にでもかくまってくれ」
情けない交渉を真顔でやるところがいかにもキャドランニらしく、フライオはつい吹き出した。
すると背後のドアが再び騒々しく開いた。
今度は、はめ込んだガラスがガシャンと大破してしまったくらい壮絶な勢いだった。
入って来た男は息を切らしていた。
おまけに右手に握っているのは、抜き身の長剣ではないか。
背の低い子供のような体形の男だが、目つきの鋭さは人を圧倒する迫力があった。
(ほう、この男も見覚えがあるぞ)
フライオはシチューを頬張りながら、何処で会ったのかと記憶のページをめくっていた。 思い出したのは、小男にいきなり肩をつかまれ、甲高い怒鳴り声で問い質された時だった。
「おいキサマ! 今、若い野郎がふたりで飛び込んで来たろうが! どっちへ行ったか教えやがれ」
「“牙”の経理士どのだ!」
フライオが言い当てると、小男がギョッとしてシーッと口に指を当てた。
「大きな声で言うんじゃねえッ」
「その声は聞き違えねえぞ。 確か名前がチンチャゴとかチンチラとか」
「ション・シアゴだよ!」
「はは悪い、全然違ったな」
「なんだよ、てめえ‥‥」
小男が改めてフライオの顔を見直し、オッと声を上げる。
「てめえ、あんときのイカれた歌人だな!!」
小男の経理士は、キャドランニたちの事を忘れたように真顔になり、フライオの顔を睨みつけた。
「どうも。 ロンギースは元気かい?」
「頭は今でも、てめえを殺すって息巻いてるぜ。
ここであったが百年目だ。 ちょっと面ぁ貸しやがれ」
ション・シアゴは凄みながらフライオの胸倉をつかんで引っ張った。 しかし悲しいかな、身長が低すぎて歌人があっさり立ち上がるや、その首から吊り上げられてぶら下がってしまった。
「捕まえてなくっていいって。 逃げやしねえから。
俺もロンギースに会いたかったんだ。 なあ、ション。 何処に行けば会える?」
フライオが予想外に愛想がいいので、ションは疑い深く眉間にシワを寄せた。
「てめえ、何かたくらんでねえか?
隠れ家の場所を、俺がこんなとこでベラベラ吐くとでも思ってんのかよ」
「だったら明日の夜、もう一度この店に来るからさ。
その時ボスを連れてくるなり、落ち合う場所を指定してくれりゃいい。
タダでとは言わねえぜ。 あんたのボスには借りがある。
で。‥‥まずこいつが、あの時くすねたドレス代」
懐から探り出した物を、テーブルにコトリと置く。
金鎖の付いた、上物の紅省石だ。
経理士がオワッと奇声を上げて飛びついた。
「こりゃ結構な、‥‥いや、た、大した代物じゃねえな。
こんな小せェ宝石であのドレスの代金なぞは‥‥げッ」
「こっちは今回の依頼料、ただし手付金だ」
歌人がもうひと回り大ぶりな宝石を取り出す。 今度はブローチである。
「仕事をしてくれたら、このブローチと揃いのピアスを渡す。 仕事が終わったら、指輪だ。 ワンセット揃えば売値が跳ね上がるんだろ」
「依頼ってのはなんなんだ? おれたちは人の頼みなんか聞かねえぞ」
しぶる割には、経理士はもう宝石を二つとも握りこんでいる。
「ロンギースの持ってる情報を売って欲しい」
声を低くして、フライオは持ちかけた。
「今、世界中で一番早くて正確な情報を持ってんのがお宅のボスだって聞いてるんだが、違うか?
カラリア王宮の中のことや、世界の例えばセイデロスの中のことが知りてぇんだよ」
「アホか、歌うたいがなんで世界情勢にそこまで金を払うんだ?
ほんとのこと言えよ、一体誰に頼まれたんだ? 魔導師か? 警備隊か?」
「疑り深いな。 じゃさ、ロンギースにこう言ってみてくれ。
『共和国の話がしてえ、ってな」
「共和国?」
「そう言ってくれりゃ、ロンにはわかると思うぜ。 いい話だって伝えてくんな。
あ、それから、さっきあんたらが捜してたふたり組は、裏口から出て表通りをあっちへ走ってったぜ」
「ホントか」
矢継ぎ早にまくし立てられて忘れていたらしく、ションは飛び上がって我に返ったように店の中を見回した。 そのまま奥の勝手口目指して、短い足で走り出す。
「忘れんなよ。 この店で明日のこの時間だ」
「伝えるよ!」
小男の姿がドアの外に消えた。
「すまん。 助かった、やれやれひどい目に会った」
階段の奥に身を隠していたキャドランニが、連れの男とふたり降りてきて、きまり悪そうに頭を掻いた。 フライオが向かいの席を、足で蹴って座れと合図する。 ついでに自分も座りなおすと、持ち帰るつもりだった果実酒の栓を抜いて、いきなりラッパ飲みに流し込んだ。
「おかげでこっちはエラい散財だぜ。
まーたサロンでデブのおばちゃんたちにおべっか使わなきゃならねえじゃねえか。
大将、あんた何やらかしたんだよ?」
恩着せがましく歌人はぼやいて見せたが、実はそこまでの損害は出ていない。 ブローチ等のセット物は、無人になったグランピーノ邸からこっそり失敬してきた宝石なのだ。
「いや、単純な喧嘩なんだよ。
馬をつなぐ木のとこで、急に人の足に唾を吐きかけて来たから文句を言ったら、向こうがいきなり抜いたんだ」
キャドランニが申し訳なさそうに話した。
「‥‥ガキの喧嘩かよ?
相変わらず細かい男だな‥‥。 飲むか?」
差し出した果実酒のボトルを、キャドランニは慇懃に断った。
「唾液付きのもんは飲めねえってか」
大笑いするフライオの手から、ひょいとボトルが奪い取られた。
キャドランニの連れの長身の男が、どうも、と一言。
そのままボトルの中身は、瞬時に彼の口内に吸い込まれてしまった。
フライオがあっけに取られて絶句する。 キャドランニが済まなさそうに頭を下げた。
「失礼。 名前をまだ紹介してなかったな。
この男は親衛隊で私の副官に当たる仕事をしていた、マルタ・キュビレット。
通称『砂漠のマルタ』と言う」
「砂漠?」
「大人しい男なんだが、酒豪でな。 酒といったらひと樽でもふた樽でも、それはもう砂漠に水のしみこむ如く魔法のようにいくらでも‥‥」
「馬鹿野郎、早く言え!!
勿体ねえ、一本やられちまったじゃねえか」
逆さにしたボトルからは、一滴のしずくもこぼれて来なかった。
再会の乾杯は、水かスープで行わなければならぬようだった。
フライオは弁当と一緒に、新鮮なミルクを水筒に詰めて貰い、ふたりを伴ってイリスモントとルーラの待つグランピーノ公爵邸に戻った。
ふたりの部下との再会は、王城を出てから沈みがちだった放浪の王太子を、大いに喜ばせた。