6、伝説の生まれた日
ギリオン・エルヴァの背中に、冷たい汗が湧き上がってきた。
疑われることは想定していたが、ここまであっさり楽器を手渡されるとは思っていなかったのだ。
もちろん、弾けないわけではない。
万が一弾くような事になったら、迷わず暴動のマネをして見せろ、と部下たちにも命じてある。
しかし、それではインパクトに欠けるのである。
人買いや他の野次馬が納得する演奏が出来るわけではない以上、暴動も見え透いている。
部下達も疲れており、さほど超人的なパワーで騒げるわけではないのだ。
陳腐な演技に惑わされて、簡単に大金を投じ、しかも王の不況を買うようなマネは、商人なら決してしないだろう。
「いいか、自分達から押し付けがましく宣伝してはならない」
昨夜ギリオンは、副官とユナイ少年にそう言い聞かせた。
「人間は、疑う動物だ。
いかにも竜使いだ、とひけらかしたら、相手は『そんなはずはない』と拒否反応を起こす。
自分で興味を持ち、調べてそこに行き着いたとき、初めて人はそれを信じ、危険を冒す気になるのだ。
ストレートにやらない方がいい。
私のことを竜使いだという時、全員が初めから口を揃えるな。
何人かが口走り、他のものはそれを制止しろ。
問い質されたら、始めはとぼけて見せ、だんだんボロを出せ。
決定的な証拠は、隠し事の中からつかんだ方が、信じる気になるものだ」
その決定的なひらめきが、この場合どこにもないのだ。
目の前に、ひげ面の男が差し出したヴァリネラ。
真赤な弦を張ってある、はったり用のまがい物だ。
「どうした、望みどおり楽器を返してやろう。
なんでそんな顔をする、さっさと弾いて見せろよ!」
弾かないわけにはいかないだろう。
ギリオンは出来るだけ不敵な笑みを浮かべて、ヴァリネラを受け取ろうとした。
が、彼の腕は動かなかった。
持ち上げようとすると、痙攣するようにブルブルと激しく震えた。
筋肉疲労だ。
「そりゃあ無理だろうさ、ウルムダ。
あの恰好で2日2晩、腕を使いっぱなしだったんだ。
ここで5寸でも持ち上がったら、あたしが一曲歌ってやってもいいよ」
ルシャンダが陽気な声で笑った。
「笑い事じゃねえぞ」
ウルムダが口を歪めて吐き捨てる。
「咽喉は嗄れてる、腕は痺れてる。
これじゃあ、この男が歌人かどうかなんて、わかるわけねえ。
確かめもせずに金は出ねえぞ、要らんから持って帰ってくれ!」
「そりゃ結構なこった!
お前さんよりも、高値をつけたお得意はいっぱいいるんだ。
ここが一番近かったから、まずここに持ち込んだだけだからね。
そういうことなら、他の市場へ連れてくさ」
ルシャンダはあっさり言うと、手下どもに命じて、再び若者を檻にくくろうとした。
そうなればなったで、ウルムダは不安になる。
「ま、待て待て。 その、他のお得意ってのはどことどこだ?」
「信じないあんたに、関係があるのかね?」
敵国に売られて、万が一にも本物だったら、セイデロス国王の不興を買うばかりでなく、国政が一変して商売が出来なくなることも考えられる。
かといって、大枚はたいて偽者だったらもっとつまらない。
ウルムダはうなった。
何か、いますぐ確認できる方法はないだろうか。
一方、この時。
ギリオン・エルヴァも、同じ事を考えていた。
何か決定的な証拠がないと、部下たちを救うことが出来ない。
ここで一瞬でも、ラヤに負けない黄金の歌声が出せたなら。
この手であの竜弦を、夢のように奏でられたら。
空から神の遣いが降りて来たら。
太陽がふたつに増えたら。
ああ、神よ。
竜神よ。 どうか救いたまえ。
ギリオンは生まれて初めて、心の底から神に祈った。
奇跡は、人のどよめきから始まった。
広場の隅のほうから、それは起こった。
「何か来るぞ」
「なんだ? 赤い煙か?」
「鳥の群れじゃねえのか」
赤い大きな、長い物だった。
うねりながら進む、霧のような物。
それは人々の隙間を、疾風のように駆け抜けた。
「竜だ!」
兵士の何人かが叫んだ。
「竜だ、あいつ、追いついて来やがった!」
「せっかく逃がしてやったのに」
「おーい、こっちだ」
「ば、ばか! 呼ぶな!」
部下達がてんでに騒ぎ始めるのを、ギリオンは呆然と見た。 何が起き始めたのかわからなかった。
赤い塊は、まっすぐこちらに走って来た。
ドン、と衝撃があった。
赤いものが、ギリオンの胸元に飛び掛ってきたのだ。
目の前が真赤になった。
その赤い物の真ん中から、見覚えのある緑色の瞳が、まっすぐ彼を見つめていた。
それは人間の子供だった。
「‥‥ユナイ!!」
兵卒のユナイ少年は、裸に近い格好をしていた。
金色だった髪を、目の覚めるような赤に染め上げている。
そしてその肌に、赤い鱗を一面に貼り付けていた。
「ユナイ‥‥お、お前‥‥何のつもりだ」
言葉をつむぎかねて口をパクパクさせている上官に向かって、ユナイ少年は大声で叫んだ。
「やっと捕まえたぞ! 俺の愛しい歌人!!」
言うが早いか、ユナイは上官の唇に、自分の唇を押し当てたのだった。
兵士達が大声ではやし立てる。
その途端、ユナイの全身の鱗が、一斉に立ち上がった。
そして、一枚一枚めくれあがってはがれて行き、赤い河のように群れながら、上空へと舞い上がった。
広場に集まった商人たちがどよめく。
(貝殻蝶か!)
間近にいたギリオンだけにはわかった。
その赤い鱗は、とてつもなくたくさんの赤い蝶々だったのだ。
彼らはびっしりとユナイの体に貼り付いて、全身を覆い隠していたのだ。
飛び立った蝶の群れは、青空をうねりながらゆっくりと飛び去って行った。
それは本当に、大きな赤い竜が天空を舞い踊っているように見えた。
人々がひとり、またひとりと、地面に膝をついて祈り始めた。
ギリオンの頭のすぐ上で、クスクスと笑い声がした。
檻の上から逆さまにぶら下げられた、白い肌の少女だ。
虫使いはギリオンの顔を見て、大きな目を細めて合図をして見せた。
(お前‥‥。 私は、笛を直してやれなかったのに)
ギリオンの胸が熱くなり、かすかな痛みでうずいた。
その首に、ユナイがしっかりと抱きついて、耳元で必死に懇願した。
「隊長、すみません、すみませんホントに申し訳ありません。
お、怒ってらっしゃいますよね?」
よく見ると、ユナイは涙を浮かべ、恐怖で体を震わせている。
「お、お腹立ちはごもっともです。
お叱りはあとで、いくらでも頂きますから。
でも、でも、お願いですから、今は調子を合わせてください。
僕を竜の子供と思って、お芝居に協力してください!」
ギリオンは仕方なく、そっとうなずいた。
すんでのところで、檻にくくりつけられるのを免れた両手を、ユナイの背中に回してやった。
まだ腕に力は入らなかったが、裸の少年の肌にゆるく巻きつけることは出来た。
それだけでぱっと見には、すばらしく感動的かついかがわしい光景が出来上がった。
広場に歓声が溢れた。
中には、涙を流して祈っている者もいる。
「竜神さま!」
あちこちで、竜を称える声が響いていた。
「誰がたくらんだんだ? ユナイ。
お前の発想とは思えないんだが」
抱き合ったふたりだけにしか聞こえない声で、ギリオンが囁いた。
「みんなで決めたんです。
こうすれば絶対に、誰もが信じるって。
夕べ、虫使いの女の子も同じテントに入ったので、全員で計画して、ルシャンダさんに相談しました」
それならば笛を預からずに、部下たちに直させればよかった、とギリオンは残念に思った。
「それにしてもヴィスカンタめ、命令違反だな。
私は彼に、お前を家に帰すように命じたはずだが」
「でも、僕もエルヴァ隊長も、このほうが絶対に生還確率が高いと思います。
うちの一族は軍人ばかりで、幹部にも何人か血縁者がおります。
僕が帰らなければ、必ず何らかの処置が取られると思います。
上から指示があれば、エルヴァ隊一同、必ず戻って来て、我々を救助するでしょう」
「正体がバレたら、殺されるんだぞ」
「はい。 ですが、ヴィスカンタ副長はこうおっしゃいました。
隊長はお人が良過ぎるから、単身だと絶対に生き残れない。
お荷物がいてそれを守るくらいの方が、小ずるくなる分、抜け目なくおやりになるだろうと」
「あの野郎、人をなんだと‥‥」
ギリオンの全身から、力が抜けてしまった。
「有難いのか、そうでないのか‥‥」
つまり今後ギリオンは、歌人であり、竜使いであり、おまけに竜の化身である少年と禁断の愛に走る若者を、演じなければならなくなったということだ。
広場に湧き上がる声援と歓声の中。
ウルムダが、金貨の詰まった袋をルシャンダに手渡し、代わりに竜弦のヴァリネラを受け取った。
「竜神使い!」
兵士達が叫んだ。
その言葉は、広場に集まった商人たちに、新鮮な感動をもって迎えられた。
「ミトスゴーリオン!」
「ミトスゴーリオン!」
広場の隅々にまで、その響きが水の輪のように広がって行った。