5、マバトの市場にて
セイデロス国領と国境を接するマバトは、風の町だ。
それ自体が国境線となっている大河の影響で、この街には四六時中、強烈な風が吹いている。
その風が起こす砂埃の中に、今、新たな人だかりが出来つつあった。
河を渡る人のために、馬車を止める広場である。
大きな箱型の檻を引いた馬車が2台、白糸の街道を南下して入ってきたところだった。
その檻の中を見ようと、往来の人々が、広場に集まって来ているのである。
歌声が響いていた。
檻の中で、奴隷たちが合唱しているのである。
哀愁のある古いメロディーは、ここ南部カラリアでは耳にしたことのない歌であった。
囚人たちは涙を流しながら、ひたすら無心に歌い続けていた。
中には泣き崩れて歌えなくなる者や、興奮のあまり呼吸がおかしくなり、仲間に支えられてやっと立っている者もいた。
奴隷商人ウルムダは、髭で覆われた黒い顔をしかめて、その異様な囚人たちを見ていた。
「なんだ、ありゃあ。 歌う宗教か?」
広場で人待ち顔に立っていた商人たちが、首をひねってざわめいた。
彼らはここに着く荷物や奴隷を買い取って船に乗せるために、荷が届くのを待っていたのだ。
届いた荷物を吟味して交渉し、必要なものを買い上げて、船に乗せ越境する。
船便の時間に合わせて開かれる交渉の場として、広場は市場の役目をするのだ。
「先導者がいるな。 あの若い旅人が煽ってる」
チトという名の、同業のオスラット人が、人ごみの中心部を指差した。
「馬車の外側にくくられてる男だ。
宣教師にも見えねえが、なんだろうな」
人の隙間から首を出して眺めると、確かに箱型の檻の最後尾、外側に腕で吊り下げられた若者がいる。
両腕をくくられたその若者が、歌の中心になっていることはすぐにはわからなかった。
歌が一曲終りかけると、囚人たちが大声で泣き喚き始めた。 するとその若者が、ひときわ大きな声で次の歌を歌い始め、囚人たちは泣くのを止めて唱和を始める。
あまりに熱心に歌い続ける声につられて、周囲で一緒に口ずさむものも現れた。
「待たせて悪かったね」
肩を叩かれて、ウルムダは飛び上がった。
あっけに取られて「歌う宗教」を見物していたので、相手が近づいてきたことに気付かなかったのである。
その相手は、馬鹿に大きな体躯に、体に合わぬ服を何枚も重ね着しているため、出来損ないの巨大な案山子のように見えた。
人形らしくないのはその表情で、ちょっと浮かれたような、人を食った笑いが愛嬌に溢れている。
「何を驚いてるんだい、ウルムダ。 久しぶりだね!」
「ルシャンダ!」
ウルムダは伸び上がって、友好の印に肩を叩こうとしたが、その手は相手の胸までしか届かなかった。
「しばらくだったな。 ああ、相変わらずでかい胸だぜ」
「そっちこそ相変わらずのエロじじいだねえ。
それよりどうだい、あの男は。 今じっと見てたようだけど、興味がわいたかい?」
ウルムダの手を胸から叩き落としながら、山賊の女大将が尋ねた。
「なんと、あの旅芸人は、ルシャンダが連れて来たのかい?」
「そうさ。 大変だったんだ、この手を見ておくれよ」
女大将は腕を上げ、手首に派手に撒かれた包帯を見せた。
「あいつのせいで、兵士どもが暴動を起こして、夜中に大戦争をやらかしたんだ。 女の子を人質に取って楽器を取り上げて両腕を縛って、それでやっと収まったんだよ」
「楽器? 暴動とはなんだ?
あの旅装束野郎は戦士なのか」
ウルムダの反応に、ルシャンダは焦れたように平手で尻をどやしつけた。
「何を呑気なこと言ってんだい! とんちんかんな男だね。
あんたが探してた、竜使いじゃないか。
わざわざ見つけて連れて来てやったのに、他人事みたいに言ってちゃ困るよ」
「あれが?」
ウルムダは目をむいた。
「あれが伝説の歌人だと?」
女大将はため息をついて腕組みをした。
「あたしも半信半疑だったんだけどね。
オーチャイス出身の歌人がいるって話を聞いて、だまくらかして馬車に乗せたんだ。
そしたら、歌を歌うや一晩で囚人どもを手懐けて、反乱を起こさせやがったのさ。
とんだ食わせものだった、なんとかしておくれよ」
「い、いや、しかし‥‥。
歌が特に下手とは言わんが、普通の歌じゃねえか」
「歌はね。 問題はこっちさ」
ルシャンダは荷袋の中から、古ぼけた楽器を取り出して見せた。
ヴァリネラと呼ばれる、首の長い弦楽器は、大陸全般に普及しているものだ。
軽くて持ち運びやすい上、遠くまで響く哀愁のある音色を出すので、昔から旅の楽師や芸人に愛用者が多い。
しかし、今目の前に出て来たヴァリネラは、見慣れたありきたりのものとは違っていた。
それに張られているのは、目の覚めるような真赤な弦だったのである。
「なんだよ、この気色悪い糸は」
「竜弦だよ。 竜のたてがみで作ったんだってさ。
もっとも、あたしの前ではそらっトボけて、商売用の演出に染めてあるんだと抜かしやがったがね。 夕べ、囚人どもの前で弾いた時には、竜と契約してたてがみを譲り受けたと言ったそうだ」
「竜と契約しただと?」
「囚人どもの噂だよ。
とにかくそのあと、このヴァリネラを弾き始めたら、囚人どもの目の色が変わっちまってね。 ちょっと目を離した隙に檻を破って外へ溢れ出すわ、素手で殴りかかってくるわ、もう偉い騒ぎさ」
「竜弦で人を操ったと言うのか」
「どういうわけでそんなことになったのかは、知りゃしないよ。
とにかくヴァリネラを取り上げたら、奴隷が大人しくなったんだ。
でもそれからずっと、ああしてみんなであの男に歌わせようと、ねだり続けて困るのさ。
歌をやめさせるのに、殴ってひとり殺しちまったが、誰もやめようとしないんだ」
(本当だろうか?)
ウルムダは、縮れたあごひげを指でこすりながら、うなった。
竜使いは金になる。
だが、偽者をつかまされたら、セイデロス国王からどんな処罰を受けるかわからない。
「おい、そのヴァリネラに触るな。
それは私のものだ。 こっちへ寄越せ」
旅装束の若者が、こちらに向かって叫んだ。
「渡すんじゃないよ!」
ルシャンダは怯えた表情になり、大急ぎで楽器を荷袋に片付けてしまった。
ウルムダはゆっくりと若者に近づいて見た。
近くで見ると、意外な美貌が商人の目を釘付けにした。
肌は日焼けして、埃にまみれているが、キッとこちらを見据える瞳が、奥まで引き込まれそうな深く澄んだ青だ。
「これは、兄さんずい分いい男だな。
名前はなんて言うんだい」
「ファディーロ」
そっけない声で、若者が答えた。
「歌人の名前があるだろう?」
「エデリコの息子」
「声がずいぶん嗄れてるな。 風邪かね?」
さっき歌を聞いた時に、歌人にしてはさえない声だと思ったものだが、喋らせてみて、それが彼の生来の声ではないことに気付いたのだ。
若者は人を小ばかにしたような表情を浮かべた。
「あんたね。 この炎天下に水も飲まずに、2日ふた晩歌い続けてみなって。
だれだってこうなるからさ」
「なるほどね」
ウルムダはうなずくと、本格的に腰をすえて、若者の顔をのぞきこんだ。
「ときに、兄さんはオーチャイスの生まれだって?」
「そうだよ。 ガキんときに飛び出しちまったがね」
「歌人エデリコの名前は俺も知ってるぜ。 彼もオーチャイスの人間だったな。
ただ、息子がいたって話は聞かんがね」
「おっさん、どうかしてんな。
エデリコが生きてたら、いくつになると思ってるんだい?
芸名なんてただの縁起担ぎだろ。 ホントに息子なわけあるか」
取り付く島もない態度に、ウルムダも鼻白んだ。
「客商売にむいてねえな、兄さん」
「余計なお世話だ。
さっさとヴァリネラを返せと言うんだ!」
かすれた声で怒鳴りつけられた。
これでははっきりしたことが何もわからない。
ヤラセにしては不自然さがない気もするが、ここで即決は冒険が過ぎる。
(いちかばちか、やらせてみるか)
ウルムダは決心して、女大将に言いつけた。
「おいルシャンダ。 その楽器を貸しな。
嘘かホントか、演らせて見ようじゃないか」
「ばッ、馬鹿言うんじゃないよ!
大変なことになるって言ってるじゃないか。 ダメだよ!」
抵抗する大女から、楽器を袋ごと奪い取る。
「売る気があるなら、黙って吟味させろって。
それとも、確かめられたら困るのかね?」
女がぐっと言葉に詰まる。
「おい、やつの縄をほどくから、逃げねえようにみんなで囲んでくれ」
ウルムダが周囲に叫ぶと、面白そうに見ていた商人仲間が周囲を取り囲んだ。
ルシャンダも、しぶしぶながら手下どもを動かして、馬車のまわりを囲ませた。
若い芸人は、いましめをほどかれて、檻から担ぎ下ろされた。
「ほらよ」
ウルムダは、竜弦のヴァリネラを若者に差し出した。
歌人が、戸惑ったように商人を見上げる。
「どうした? 望みどおり返してやろう。
なんでそんな顔をする? さっさと弾いて見せろよ、兄さん!」