1、靴先に接吻
♪負け犬よ 英雄の足に接吻をしろ
勇者の杯に酒を満たせ
鋼の意志と 肉を持ち
黄金の誇り 剣にかざす
我こそは 夜空の大帝
湧きたる大地の君主なり
懐かしい「大帝の歌」が、どこからか聞こえてきた。
澄み切った幼い従兄弟の歌声が思い出された。
そう、ラヤはこの古い歌が好きだった。
そそり立つ山々の壁に跳ね返る旋律の、雄々しい響きがたまらないと言っていた。
しかし、目下この歌を歌っているのは、とんでもなく野太いダミ声の男で、加えて言うと、ほとんど旋律がつかめないほどの音痴だった。
伴奏する方の腕前もひどいものだ。 ラヤなら迷わず「足で弾いた方がまし」とこきおろしたに違いない。
ギリオン・エルヴァはゆっくりと目を開けた。
視界の焦点を合わせるまでに、長い時間が必要だった。
全身がゆるく痺れており、口を開け閉めすることすら難しい有様だった。
口元に何か当たっている。
茶色いなめし皮で出来た、土まみれで尖った物だ。
「キスしてくれよ、負け犬の英雄どの」
頭の上で、しわがれた太い声がした。
頬骨をぐりぐりと、皮の突起部分で小突かれた。 よく見ると、それは靴の先端だった。
「起きろ、腐れ英雄」
実も蓋もない呼びかけで、今度こそはっきりと目を開く。
ランプがひとつ、天井から吊るしてある。
丸太作りの小屋の中にいるようだ。 匂いから察するに、馬小屋だろう。
引き上げた両手を、馬をつなぐための金具に片方ずつくくられている。
床に尻をつけて座りこんでいるのだが、両足首にも枷がはめられ、太い鎖が付いていた。
歌声は、小屋の外から響いて来ていた。
盗賊どもが酒を飲んで騒いでいるのであろう。
「どこへ連れて来たんだ?」
重い唇を動かして、視線を上げようと努力する。
目の前に車輪つきの椅子があり、そこにとんでもなく大きな体を沈めて座っている男が見えた。
「ロンギースか‥‥」
車椅子に座った“牙”の首領は、薄闇の中で不敵な笑いを浮かべていた。
後ろにさっきの女大将が立って、やはり薄笑いを浮かべてこちらを見ている。 よく見るとその顔は、椅子の上のロンギースにそっくりだった。
「そうか、ロンギースの妹だったのか。 道理で、何処かで見た、顔だと‥‥」
長い台詞を吐くうち息が切れ、ギリオンは再び頭を垂れて脱力した。
その顎を、椅子に座ったロンギースが足先で押し上げる。
「水をくれ、首領‥‥」
「ほざけ。 立場は逆転したんだぜ、隊長さんよ」
ニヤニヤ笑いながら、ロンギースはぐいぐいと足に力を入れる。 ギリオンの頭が、丸太の壁に押し付けられた。
「‥‥ひどいな。 私はお前に、水と食料と、医者と薬を与えたのに」
「へ。 そうだったな。 ついでにハクのつく向こう傷もな」
ロンギースは鼻先で笑った。
「野育ちの軍人さんはたいしたもんだ、あの場で顔や頭を、よく蜂から守ったな。
お上品な部下どもは、頭ばかりボコボコにやられて、まだ意識が戻らねえっていうのによ!」
「指示してやる間がなかったのだ‥‥」
咄嗟に頭を守るよう言ってやれなかった。
この先はますます守ってやれそうにないことがわかって、ギリオンは口惜しかった。
「部下達はどうなるのだ?」
「国境まで連れて行って、人買いに売り渡すのさ。
ほとんど十把一絡げ、いいとこ熱帯マルアの金山あたりで死ぬまで重労働だな」
「奴隷にするというのか? 辺境部隊と言っても、カラリアの正規軍の精鋭だぞ。
もう少し使いようがありそうなものだ!」
ロンギースの後ろで、女が突然笑い出した。
「残念ながらねえ、その軍人ってぇのが一番つぶしがきかないんだよ。
忠誠だの誇りだの振りかざして運命を受け入れないもんだからさ。
剣を振るうしか能がないくせに、そんなのに剣なんか危なくって持たせられないじゃないか」
女は椅子の前に出て来て、ギリオンの顔を親しげに覗き込んだ。
「そこ行くとあんたは、顔に似合わず武人根性がなくっていいよねえ。
あんたならどこに売っ飛ばしたって安心できる。 あたしが保障する」
そんなことで誉められても、嬉しくもなんともない。
ギリオンは体の力を抜き、壁にすがってロンギースの顔を真っ直ぐに見つめた。
「首領、私はこの場で殺されてもいい。
部下たちを解放してやってもらえないか」
今度はロンギースが笑い出した。
「そんな金にならん取り引きがあるかよ。
てめえが一番高く売れるんだ。 殺す気なんかないぜ」
「私をどこへ売る?」
「てめえは有名人だから、何人か候補が挙がってるがね。
今のところ、一番高値をつけてるのが、あるモンテロス軍の未亡人だな」
「‥‥なんだそれは。 愛人か? 稚児遊びか?」
「へ、甘ぇ甘ぇ。 そんな色っぽい話じゃねえよ。
てめえを欲しがってんのは、マヌーチャス大将閣下のご遺族さまだ」
「マヌーチャス‥‥」
ギリオンの背すじに冷気が吹き込んだ。
「聞き覚えがあるらしいな。
そうとも、例のオーチャイス事件の侵攻部隊の司令官さ」
「私が目打ち針を投げて、谷に落としたあの男か」
「そういうことだ。 遺族には屈辱的な話だったらしいぜ。
名誉ある侵攻軍指令に抜擢されて、武勲を祈って送り出して見りゃ、敵軍と一戦も交えずに犬死にだ。 しかも殺したのが軍人でなく、ただの農民のガキだってんだから」
「逆恨みもいいところだ。 もともと向こうが先に民間人に手を出したんだぞ。
しかも開戦前に、年端も行かぬ少女を寄ってたかって強姦だ。
どのみちろくな軍隊じゃないし、ろくな司令官でもありえん」
ギリオンが語気を強めて言い放った。
雪の上に放り出されていた、姉の死に顔が浮かんで来る。
家族を殺された恨みは、強く根深いものだ。
しかし生きているものに対しては、また別の責任がある。
「よしわかった、ロンギース。 そのろくでなし軍人の遺族とやらに、私を売り渡すがいい。
おとなしく八つ裂きにされてやるから、部下たちは助けてやってくれ」
ロンギースはまず目を丸くし、そのあとくくっと笑うと、ギリオンの顎を思い切り蹴り上げた。
「まーだわかってねえな、てめえはよ!
売るのは俺で、俺が勝ったんだからこいつは当然ってモンだ。
売られてやるとかやらんとか、てめえに恩着せられてたまるかよ!
部下も売る、てめえも売る。 指図もお願いもなしだ!!」
言い放つと巨漢の首領は、妹に椅子を押させて小屋を出ようとした。
「ロンギース」
ギリオン・エルヴァが呼び止めた。
「なんでえ、まだ世迷い言があるのか」
「小便がしたい」
「あああ?」
呆れ顔で振り返った兄と妹の顔が、そっくり同じ表情だ。
「小便をさせてくれ、蜂の毒が一緒に排泄される。
きちんと出さないと後を引く」
ロンギースは大声で笑った。
「はははは、そりゃあ大変だなあ。
‥‥そこらで勝手にしやがれっ!!」
小屋の扉が勢いよく閉められた。
ランプを持って行かれてしまったので、あたりは暗闇になった。
ギリオンは壁にもたれて目を閉じ、小さい頃から慣れ親しんだ馬小屋の空気を、肺いっぱいに吸い込んだ。
吐き下ろした時、それは苦いため息となった。