7、自由な愛は途方に暮れる
抱きしめた腕の中で、王太子の体は溶けてなくなりそうに柔らかく小さかった。
これまでよくもまあ、こんな体格で周囲をだましおおせていたものだ。
何か元気の出る言葉をかけてやりたいと思いながらも、フライオの頭の中は真っ白になってしまっており、こう言うのが精一杯だった。
「あんたは皆に好かれてるよ。
町なかであんたのことを聞くと、決まって土地っ子が自慢そうに答えてくれるのさ。
それはその、あんたが王子だからとか男だからとか、そういうことじゃねえと思うんだ。
クラステの間中、俺が何回あんたの為に乾杯をさせられるか知ってるか?
みんなあんたが好きなのさ」
「そなたは?」
ふわりと聞かれて、フライオの息が詰まった。
「他の者の話はいい。 そなたはどうなのだ、私が好きか」
率直過ぎる質問に戸惑い、歌人の心は今しがた胸の奥で渦巻いた思いを、口に出すべきか否かを迷うあまり、歌を1000曲書くほうが楽なくらいに消耗した。
王太子がふっと笑った。
「目を逸らすな。 そなた、存外に正直者だな」
「いや、俺は‥‥」
「わかっておるわ。 私はそなたを困らせたな。
恋愛にはうとい育ちだが、そういうことは私にもわかるのだ。
もうよい、さあ続きをしよう」
「つ、続きとは?」
「ここまでは覚えておるぞ」
王太子がいきなりフライオの首の後ろを鷲づかみにし、抱き寄せざま口づけをした。 しかも電光石火で小さな舌がぐいと侵入して来たので、彼の心臓はでんぐり返った。
(こ、こりゃひでえ。 このテクは俺が先生か!)
教えた本人が言っては身も蓋もないのだが、あまりといえばあまりの品のなさである。
もう少しまともに接してやるのだったと歌人は反省して、押し込まれた舌を、せめて優しく吸ってやった。
すると王太子は、ぱっと目を開けた。
「すまぬ。 そうやって返事をするものだったのだな。
この前は知らなくて、とんだ失礼をしてしまった」
ついにフライオは吹き出してしまった。
この王太子が「お忍び」とやらで城の外に出るたび、下町の連中が本当に暖かく王太子を向かえた様子が、目に見えるような気がしたのだ。 恐らく彼らは、目の前の人物が王太子と知りながら、お忍びに合わせて知らぬフリで付き合ってやったのだろう。 そう、クラステの無礼講のように。
「あんたは可愛いよ」
声に出して言うと、王太子は目を見張った。
恐らく今まで、そんな言葉は耳にしたことがなかったのだろう。
「殿下、祈るのは後回しだ。
今は次のことを考えよう。 あんたはこの城に残っていたら幽閉されちまう。
俺と一緒に逃げる気があるかどうか教えてくれ」
「母上を助けようと思って、残っていたのだが」
王太子の口調は重かった。 恐らく、それを試みようとして、ダメだったからここに逃げてきたのだろう。 目下のところ策なしと言った様子だった。
「王妃様を助けるのは、直ぐには無理だ。
戴冠式までは厳重に見張られているだろう。 その反面、死なれちゃ式典が出来ねえから、元気で生かしておくための注意もしてくれるだろうさ。
あんたが今やることは、味方を集めるために誰かに呼びかけることじゃないのか。
とりあえず城の外に出て、信頼出来る人のうちに身を寄せて、そこから手紙か何かで、応援を頼んで人を集めるんだ」
「それならグランピーノ公爵家がよい。
ずいぶん田舎の領地だが、王家から後嫁した者が栄えさせて来た貴族だ」
「よし、そこに行くためには、まず城を出る算段をつけねえとな」
フライオは少し考えてから、おもむろに切り出した。
「殿下、政権が交代したら、解雇される連中はどこに行って手続きをする?」
「解雇?」
「王家の縁者として雇われてた下働きとか、国王の趣味で集められた絵師や楽師たちのことさ。
衛兵や小間使いや掃除人は、誰でも同じものが使えるんだが、芸術家ってやつは使いまわししにくいもんでね。 増してやあの黒尽くめのおっさんたちが、画家やキタラ弾きを侍らせたがるともおもいにくいじゃねえか。
そういう連中が城を出て行くのは、うるさく言われねえだろうと思ってね」
王太子はじっと歌人を見詰めた。
抗いがたい強烈な力を持った瞳が、闇の中できらめいて息苦しいほどの圧力を感じる。
「また、はぐらかして逃げるのではないだろうな?」
図星に近い事を、まっすぐに口にする。
「い、いや、そうじゃねえ」
歌人はたじたじとなって、言い訳に走った。
「い、祈るには、祈りの歌がいるんだ」
「歌うのか? それなら歌が下手な者は、どうやって恋をすればよいのだ?
それならば、もっと皆が皆、歌の練習をしていても良さそうなものだが」
「祈りは人それぞれのやりかたがあるからな。
俺は祈る時には、その女にちゃんとした祈りの歌を作ってやって、二人で練習してから始める。
だから、うまいフレーズが浮かぶまで、もう少しそっちの方は待ってくれねえか。
いいかげんな歌は、殿下には似合わねえ」
口からでまかせを言ったのに、王太子は感心したようにうなずいた。
「思ったより真面目な男だな。 よし、その行為は後日にしよう。
しかし歌人よ、殿下とかあんたとか呼ぶのはやめてくれ」
「なんと呼んだらいいんだ?」
「モニー」
照れたように下を向いて、王太子はその名を告げた。
「幼馴染みの女の子が、イリスではみんなと同じで面白くないと言って、自分だけの呼び名をつけてくれた。 その名は私とその娘しか知らぬ」
「よし、モニー。 支度に取り掛かろう」
ふたりは元気に起き上がって、寝台から飛び降りた。
城門前広場は大騒ぎになっていた。
例年のクラステならば、最終日の日暮れには名残の花火が空を飾り、領地に戻る花車の後を、祭り焼けで顔を赤くした人々が、追いかけるようにゾロゾロとついてい歩く。
騒ぎ足りない若い連中が、手伴奏で踊りながら歩いたり、酔った連れをベンチに寝かしながら自分も眠り込んでしまう中年の男たち、その横で忙しくテントを畳む商人の姿、と言った光景が、一種の風物詩になっていたりするのだが、今年は様子が違っていた。
今、城門前広場を包んでいるのは、異様な熱気と興奮だった。
国王批判をする者が、台座に上がって演説をぶっている。
集まった聴衆がそれを野次ったり賛同する声が、暮れなずむ秋空にこだましている。
魔導師が政治活動に参加することの批判をする演説も、別の一角で立ち始め、そちらにも人が集まっていた。 国民の大半が、国王の治世に満足ではないまでも、我慢できないほどの不満を持っていたわけではないので、魔導師の動きに反感を持つものは少なくなかったのである。
次の国王に王弟を推したのが魔道省大臣であることを知って、王弟は魔導師の傀儡であるとの批判も、いち早く出始めていた。
テントを畳む商人の姿はなかった。
世慣れた彼らは、カラリアが政情不安と見て、争いに巻き込まれぬようさっさと逃げ出したのである。
その時、城門が大きく開き、平服の男女が大量に吐き出された。
同時に、立派なしつらえの馬車が何台も出て来て、大きな車輪をきしませて人々の横を走り抜けて行った。 轢き殺されそうになって悲鳴を上げながら、門から出た人波は広場に溢れてゆく。
「なんだ、ありゃあ」
「王宮のサロンでパーティーやって騒いでた、国賓の貴族連中さ。
内乱に巻き込まれちゃシャレにならんから、急いで帰国するんだろうよ」
「歩きの連中は?」
「解雇者が出たんじゃないかねえ」
「こいつはいよいよ、きな臭くなって来たね」
広場の野次馬たちが騒ぎ始める。
馬車は人の群れを避けて中央通りへ出て行ったが、興奮した民衆に走行を邪魔されて、停止する車両が相次いだ。
「民を刺激してはなりませんよ。
ゆっくりでいいから、安全な場所を通りなさい」
セイデロス風のがっしりした馬車の中から、小洒落たこしらえのカーテンをめくって、上品な中年の婦人が御者に声をかけた。
御者は慣れているのか、止まらない程度のゆるい歩調で馬を追い、広場の外の通りへ誘導した。
「お手数をおかけして申し訳ありません、伯爵夫人」
馬車の後ろで、フライオは恐縮して頭を下げた。
「おかげさまで無事に城を出られました。 しがらみってやつで、妙な役回りをもらっちまったもんで、魔導師どもに恨まれてえらい目に会うとこでしたよ」
歌人と王太子は、解雇者の群れに紛れて城を出ようとしたところを、衛兵にとがめられそうになったので馬車に逃げ込んだのである。
「わたしのチョーカーをそうして愛用してくれておる者にすげなくはできませんよ」
フライオの首に、ターバンの隙間からさりげなくはみ出した女物のチョーカーがはまっているのを、婦人は愛しげに指差した。
「思い出深い品ですから、片時も手放すことが出来ません」
「嬉しいことをお言いだこと」
気に入らぬげに唇をゆがめた王太子に、フライオはすかさず耳打ちした。
「な? こうやって使うもんなのさ」
安物のターバンと品のない厚化粧で変装した王太子は、一見すると街角に立つ街娼に見えた。
顔を見られないように節目がちになる様子が、かえって小ずるい感じに見えて、もぐりこんで不正な商売をしていたのかと思わせる効果があった。
「しかし、女好きとは聞き及んでいましたが、そなたが女性を連れ歩くのは初めて見ますね。
そのような娘を、どうしてどこに連れてゆくのです?」
さすがに嫌悪感を顔に出して、伯爵夫人が尋ねた。
「いや、この子は連れじゃねえんで。
こいつ、近衛の夜警宿舎に入り込んで、夜勤の衛兵相手に商売しようとしてたとこをみつかったんで、仕方なく連れて来たんですよ。 こういう子は、親に売り飛ばされて体を売らされてるんで、儲けがゼロで帰ったら、売春宿の親父にぶん殴られるんだ、あんまり可哀想じゃないですか、ねえ」
「ほう、見ればまだ若いが、‥‥お前、歳はいくつです?」
「‥‥15‥‥」
驚いたことに、王太子は咄嗟に、3つばかりサバを読んだ。 しかも平然とである。
「おお、まだほんの子供ではないか、世も末じゃ!!」
人の良い伯爵夫人はすっかり同情して、王太子の頭を撫でた。
「可哀想に、一体いくらで売られたのか知らぬが、わたしのところで働く気があるなら、その売春宿とやらにわたしが返金しても良いですよ。 そういうことはできますか、フライオ」
歌人は引きつった笑いを浮かべた。
そんなことができるわけはない。 化粧を落としたとたんに起こる大恐慌を想像すると、彼の背中に寒風が吹き込んだ。
田舎に頼るべき縁者があるからと、夜明け前に馬車を下ろしてもらった。
白み始めた空の下で、金色の畑が延々と続く景色を、王太子は感慨深く眺め渡した。
「これは何の畑だ、フライオ」
冷たいが爽やかな風が、ターバンからはみ出した金色の後れ毛をもてあそんでいる。
「パイラットだよ。
穀酒を作るのに使うのはこの穂の部分を使う」
「これが酒になるのか」
青い瞳に、薄く涙がにじんでいた。
「私は何も知らぬな。 あまりに無知で愚かだ。
何もかも失った今、この愚かさとも別れなければ、やって行けまいな」
「モニーは頭がいいんだ、すぐ覚えるさ」
新しい名前を呼んでやると、王太子の表情はぱっと明るくなった。
「歌人よ、私は自由だな」
「そうだ。 自由だ。 ひとついい物を手に入れたじゃねえか」
「ひとつではない、3つだ」
「あと2つはなんだ?」
「ひとつはそなただ。 まだそれほどその気は無いようだが」
歌人はほこりも立っていないのに、思い切り咳き込んだ。
「もうひとつは、先生だな」
「先生?」
「人生の師だ。 これからそなたの生き様を学んで、その強さを手に入れようと思うのだ。
そなたは剣も弓も取らぬのに、こうして力強く柔軟に生き抜く術を知っておる。
それは私にはないものだ。そなたの全てを、私は学びたい」
「勘弁してくれ」
「何故嫌がる?」
「ろくでもないことを、いっぱい教えちまいそうだ」
歌人のつぶやきに、王太子は高らかに笑って、風の中で気持ち良さそうに首を振った。
朝日がその顔を、薄い紅色に染め上げた。
朝焼けに頬を化粧させた娘の歌を、いつか作ろうと歌人は思った。 明るいリズムの旋律が、頭の中で踊り出したのを、歩きながらゆっくりと育て始める。
田舎道を、二人は手を取って歩き始めた。
これからどうするかは、何も頭に浮かんでこない状態だったが、悲観する気にはならなかった。
愛はいつも、途方に暮れても暖かいものだからである。