6、それは神聖な祈りの時間
照明の無い部屋の中では、王太子の表情はつぶさにはわからない。
ただその瞳が、微弱な光を反射してきらきら光っているので、相手も息を詰めてフライオの顔を見つめていることは読み取れた。
「まさかとは思うが‥‥、思うが‥‥。
俺はやっちまったのか?」
歌人の台詞は、この上なく間の抜けたものになった。
王太子は首を傾げた。
「何をだ?」
「あんたをだ。 い、いや冗談じゃねえ。
これが褒美なら受け取れねえぞ。 釣り銭の額が大きすぎて、俺に払えっこねえじゃねえか!」
「何の話をしている?
単語が全部わかるのに、全体の意味がさっぱりわからぬ」
大真面目な口調で、王太子が質問した。
ベッドに肘を突いて首を傾げる様子が存外に愛らしいので、フライオは激しく動揺した。
闇の中を、相手の肌の匂いが否応なく鼻腔に跳び込んで来る。
さっきまで男にしか見えなかったのに、体を密着させていると、もう女としか感じなかった。
「フライオ、虹の歌人よ。 そなたのお陰で今日は助かった。
だがまだ礼をすることが出来ぬのだ。
頼んでばかりで心苦しいが、少しの間ここにかくまってくれぬか」
押し殺した音声を伝えるために、王太子は耳元で囁いた。
「かくまう? 何からだ?
まさかあのマント野郎に政権を乗っ取られたのか」
「その通りだ。 私と母上は、会議で王位の継承を主張したが認められなかった。
最初は並み居る貴族のほとんどが、ストーツのやり方を非難したのだが、その内旗色が変わってしまったのだ。 魔導師ども、自分たちが表に立たず、王弟ドルチェラートを王位につけると言い出したので、それならばと賛成するものが現れてな。
利口なやり方だ。偽りごとをして国民をたぶらかした私よりも、叔父上あたりの方が貴族たちは納得する。 弟といっても娘婿に当たるのだから、直接の呪いは受けておらぬしな」
「しかし王族だ。 その子孫は呪いの対称になるんじゃないか?」
「だから魔導師と組みたいのであろうよ」
「なるほど、その結果傀儡政権が成立するのか。 内側から国政を操るつもりなんだな。
待てよ、そうすっと国王の書類とやらは無効になるんじゃねえの」
「だから、その権利を辞退したがごとく見せたのが、ストーツの政治的手腕というものなのだ。
取り合えず、時期国王は無能ではないということが証明されたわけで、実にめでたいことだな」
王太子は皮肉たっぷりに言い放った。
「戴冠式は国葬の後だ。
それまで、私と母上は城内に幽閉されることになる」
「幽閉だと」
歌人は驚きのあまり声をだしてしまい、あわてて口を押さえる。
「あんたと王妃様を閉じ込めるって言うのか。 そんな権利があの野郎にあるもんか」
「別に珍しいことではない。 前王の子孫が新王家に弓引くことの無いよう、政治活動を妨げるために幽閉した例は諸国に山ほどある。 そのあとは流刑だ。
私には純然たる罪があるから、相手も遠慮なく攻撃してくる。
申し訳なかったが、母上が捕らえられたと聞いて、そっと逃げて来たのだ」
「身を寄せる先に心当たりはあるのか」
「ゼロではないがほとんどないといっていい。
私は性別を隠すために、極端に閉鎖的に育てられたのだ。
赤子の頃から幼児時代までを、住み込みで世話してくれた乳母などは、再婚の相手が見つかったので宿下がりがしたいと申し出ただけで、秘密を守るために殺されたくらいだ」
「ひどいな」
「その乳母は、乳母といってもまだ若い女でな。 私と同じ歳の娘がいて、その子を私と一緒に王城で育てるのを条件に、外部と一切連絡を取らない約束を飲んで働いていた。 他に子供を預けるような身寄りがなかったのだ。
私はその乳母の娘を、唯一の友達として育った。
子育てのために与えられた離宮で、生活しているのは私と乳母とその娘の3人だけだった。 宮の外に出ることも勿論あったが、大概が余所行きの服を着せられて式典や挨拶に出るだけだ。 心に刻まれるような大事な人間に会うことも、支えになるような貴重な経験をすることも、私には叶わなかった。
その友人はとても陽気な娘でな。 一日の大半を笑い転げて過ごしていた。 神様に祈ることも、音楽を楽しむことも、その娘がいなかったら、ただの儀式としか思えなかっただろうな。
『お祈りは大事よ。 あたしもパパとママが祈ったから生まれてきたの。
知ってる? ベッドで二人でお祈りすると、夫婦には子供が授かるのだってママが言ったわ。
だから、愛し合っている人以外とはベッドに入っちゃいけないんだって』
幼い頃、彼女にそう教わった。 だから私は、こうしてそなたに会いに来たのだ」
フライオは一瞬、激しいめまいに襲われた。
「あんたは子供が作りたいのか?」
「とんでもない。 我々は愛を交わす約束をしたではないか。 それを遂行しようとしているだけだ」
「待て待て待て、あんた何か誤解をしているぞ。
愛を交わすのと子供をつくるのは一緒でいいが、祈るってあたりからなんとなく認識が変だ」
「ではどうすればいいか教えてくれ。
私は何も知らぬのだ」
歌人は戸惑った。 知らぬはずは無い、王太子には正室がいるのだ。
(あ、ダメだ、女同士だからだ)
もう何がなんだかわからなくなりそうだ。
「殿下、エウリア妃とはどのように?」
恐る恐る聞くと、相手は実に平然と答えた。
「影武者がいるのだ。 妃は政策の一環として、モンテロスから娶った王女だから、夫婦生活をしていないでは通らぬからな」
まるで当然のように言うのを聞いて、フライオは唖然とした。
王家と庶民の感覚のズレについて行けない。
そこでようやく気付いた。
エウリア妃が、ギリオン・エルヴァとの仲を疑われて大騒ぎになったあの事件の真相だ。
王太子妃が寝室から逃亡する悪癖というのは、影武者の存在に気付いた妃の、一種の反抗なのだ。 国王以外の者に肌を許すわけには行かないと言って、近衛の誰かに相談を持ちかけたのではないか。
ギリオンの性格ならば、夜間の王太子妃の身を保護することも、近衛の任務のうちと考えたかもしれない。
(あいつも女難してんじゃねえか)
妙に愉快な気分になって一瞬笑いかけたが、もちろんフライオも笑っていられる立場ではなかった。
「歌人よ、私は友人のその娘に、会わせる顔が無い。
彼女の母親は、私の秘密を守るために殺されてしまった。 それだけ大層な人生を生きなければ、釣り合いが取れぬと思って頑張って来たのだ。
よい支配者になるための勉強もした。 庶民の暮らしを知るために、王宮を抜け出して酒場や娼婦宿にまで出入りした。 努力したつもりだったのに、‥‥結局はこのざまだ」
暗がりの部屋で、王太子は長いこと顔を伏せていた。
相手が泣いていることに気付いて、歌人の胸は痛んだ。
故郷を追われる無念さを、彼の胸は覚えていた。
肉親を失う悲しさも、彼には馴染みの感情だった。
そして何より、村中の人々に「お前のせいで家族が死んだのだ」と糾弾されることを恐れて一睡も出来なかった、あの幼い日の恐怖が、先刻のバルコニーから見た人々の怒りと重なって、彼の心を締め付けていた。
お前は悪くない、と小さな従兄弟が言ってくれた。
お前の歌が人を殺したんじゃない、お前の歌が村を守ったのだ。 そう言ってもらえて、彼の心は死を願うほどの恐怖から解き放たれたのだ。
それと同じ言葉を、目の前の相手の涙に与えてやりたいと思った。
だが悲しいかな、彼の脳内活動は聡明な従兄弟には及ばず、国家レベルの悲哀を慰める言葉など、思いもつかなかった。
気がつくと彼の腕は、目の前の女性を抱き寄せていた。
手に触れた布の感触から、歌人はこの時初めて、王太子が上着一枚脱いではいないことを認識した。
つまり、恐れていた「まちがい」はまだ起こっていない。 まだ、ということは、これから、という言葉につながる可能性を残している‥‥。
(やべえ)
頬の柔らかさが、歌人の胸元を暖めている。
髪の毛が、さらさらと指の先で梳けた。