4、オーチャイスの奇跡
運命のその朝。
ギリオンは9歳、フライオは7歳。
のちに「オーチャイスの奇跡」と呼ばれる悲劇は、その日の早朝にいきなり訪れた。
ギリオンには、3歳年上の姉がいた。
レアネという名の、金髪に白い肌が美しい娘だった。
12歳の彼女は、農家にとってはもういっぱしの働き手だった。 腕白盛りの弟たちとはもう滅多に一緒に遊ばず、台所を切り盛りする母親の助手として一日中動き回っていた。
その朝も、朝から母親の手伝いをして、台所で食事の支度をしていたはずだった。
「薪を取りに行ったきり、戻らないんだけど、見なかった?」
母に言われて、ギリオンは姉を探しに外に出て行った。
早朝の山は、まだ紫色をしていた。
「ラヤも一緒に来いよ。
お前、声がでかいから呼ぶのを手伝ってくれ」
離れの自分の部屋から顔を出した従兄弟を誘い出して、薪の置いてある資材小屋まで歩いた。
そこに姉はいなかった。
代わりに、雪の上に付けられたたくさんの足跡を発見した。
足跡を追って、山の尾根を上った。
いつも剣の修行に使う、古い天秤棒を持って行った。
ちょっとした冒険のつもりでわくわくして出かけた二人は、後にその浮ついた気分を後ろめたい思いで振り返る事になる。
尾根を一つ越えたところで、足跡は終っていた。
姉の死体はそこに転がっていた。
雪の上に全裸で横たわった姉の体に、脱がされた服が無造作にかけてあった。
数人に暴行されたのだが、幼い二人にはその意味がわからなかった。
泣き叫んで駆け寄る二人の前に現れたのは、とんでもない人数のモンテロス兵だった。
その場に凍り付いて、ふたりは声を失った。
谷間を埋め尽くす、兵士。
モンテロス軍が、国境を越えて進撃して来たのだ。
深夜のうちに山を越え、夜明けと共に里へ攻め寄せるつもりだろう。
記録によれば、総じて9千の兵だった。
「逃げよう。 憲兵に知らせなきゃ」
ギリオンが声をかけても、フライオは動かなかった。
もう、この時彼らは敵に発見されていたのだ。
耳元を、ひゅんと音を立てて、一本の矢がかすめて行った。
とっさに駆け出したギリオンの脇を、足下を、同じ矢の音が追って来た。
逃げながら振り返って、少年は愕然とした。
年下の従兄弟は、一歩も逃げてはいなかった。
彼は飛来する矢の中で、その顔を敵にさらして仁王立ちになっていた。
「危ない、ラヤ!
早く来い、こっちだ!」
恐怖に体をすくめながら、後戻りしてフライオの手を引っ張った。
「何やってるんだ、来いってば!」
強引に引くと、やっとその体が動いた。
しかし従兄弟の顔からは表情が消えており、なにやらぞっとするような目の輝きがあった。
雨あられと降り注ぐ、矢の攻撃は当たらなかった。
思えば、その時からすでに尋常ではなかった。
死に物狂いで村に逃げ帰り、大人たちに事情を伝える間に、フライオは姿を消してしまった。 気付いた時にはもう、幼い歌人は歌い出していた。
村長があわてて憲兵に連絡し、避難の手はずを整えている時だった。
その声は、突然響いて爆発した。
冷たい風に乗って、空高く駆け上がり、胸の中に落ちてきた。
歌でも泣き声でもない、叫びに近い声だった。
村中で一番高い、火の見やぐらを兼ねた飼料置き場のてっぺんから、その声は聞こえて来ていた。
ギリオンの体が、ズンと重くなった。
火が点いたように、胸の中が熱く焼けた。
そこに何かが棲んでいるかのようだった。
赤い塊が踊っている。
憎い。
憎い。
殺してやる。
その声は、胸から腕に突き上げる。
ギリオンの腕が天秤棒を握った。
その声が、胸から足へ落ちてくる。
足が走り出した。
気がつくと、村中の大人たちが一緒に走っていた。
村中の子供たちが、後ろを走っていた。
みんな手に手に、桑や鎌や刃物を握って。
走る。
走る。
「殺せ!」
誰かが叫んだ。
「殺せ! 殺せ!」
自分も叫んだ。
「モンテロスの悪魔!」
「異郷の鬼を殺せ!」
「腐った豚どもを殺せ!」
「殺せ! 殺せ!」
牛の群れが放された。
それは雪崩を打って尾根を駆け下り、モンテロス軍の真ん中に突き込んだ。
恐慌をおこした兵士達は、その場を逃げ出そうと押し合い、自分達で傷つけ合った。
兵馬は驚いて主人を放り出した。
徒歩の兵は牛の足に踏まれ、自軍の馬の蹄の下敷きになった。
そこへ、農民の群れは突撃して行ったのだった。
ギリオンは、最初、剣の稽古に使っている天秤棒を振るっていた。
それを折られてからは、草刈用の長い鎌を拾って使った。
だが、木製の柄をモンテロスの大太刀で真っ二つに斬られ、倒れた兵士の剣を奪った。
重い刀身をたくみに操って、瞬く間に二人を切り伏せた。
背後から打ちかかる敵をかわしざま、軽やかに正面の兵のふところに飛び込んだ。
身長の差を利用して、両者を相打ちさせた。
次の瞬間には、右隣の歩兵に切りつけた。
子供の彼には、敵の剣を受け止める力はない。
捕まったら最後だとわかっていた。
その代わり、下から死角を狙うことは出来た。
甲冑の装備の薄い内股を狙うと、敵を戦闘不能にすることはたやすかった。
ギリオンのこの動きは、天性のセンスで生まれたものだった。
しかし、その原動力は、彼の胸に点った、炎の熱さだった。
「子鬼だ、子鬼がいる」
モンテロス兵はそう叫んで、小さな軍神を恐れた。
「この小僧!」
敵兵の中からひときわ大柄な男が、いきなりギリオンの後ろからえりがみをつかんだ。
成すすべもなく、一瞬で宙吊りにされる。
そのまま地面に叩きつけられ、衝撃で呼吸が止まった。
敵の大だんびらが上から襲い掛かってくる。
その瞬間、ギリオンははっきりと見た。
天空を何かが舞っている。
赤い、大きな、美しい生き物。
紅に燃える、巨大な竜だった。
敵兵の唇から、鈍いうめきが漏れた。
その顔から何かが生えていた。
一本の尖った金具が、眼球に刺さったのだ。
牛の綱をほどく時に牧童が使う、掌サイズの目打ち針だ。
ブーツに刺してあったのを、ギリオンがとっさに引き抜いて投げたのである。
大男は両手で顔を覆ったまま、雪の上を転げ回って谷底に転落した。
その男が、モンテロス軍の総大将だったことを、ずっと後になってギリオンは聞かされた。
オーチャイスの奇跡はこうして幕を閉じた。
短い戦闘で、村人のほとんどが命を落としても、残りの者は攻撃をやめなかった。
村のふもとからカラリアの駐留軍が駆けつけたとき、立っていた村人は子供だけだった。
全身を真っ赤に染めて振り返った子供たちを見て、援軍の兵士がまず悪寒を覚えたという。