3、竜神様のお気に入り
「もと」近衛隊の一流武官、ギリオン・エルヴァ。
彼は至上最年少で入隊し、ついでに王宮画家の手による絵姿が数万枚も出回るという奇跡を起こした美丈夫である。 そしてその後、あるくだらない疑惑のために王都を追われた悲劇の剣士でもあった。
彼の生家は武人とは縁もゆかりもない、酪農を営む農家だった。
彼はそこの長子としてこの世に生を受け、農夫になるために家業を手伝いながら成長した。
にもかかわらず、貴族であり武家でもあるエルヴァ家に引き取られた時には、その剣の技によってあだ名を一つ、持っていた。
「オーチャイスの小鬼」という。
オーチャイスは、カラリア最北端に位置する小さな村落の名称で、彼の生家はそこにあった。
国境に近いため、隣国モンテロスの侵攻で多くの被害者を出しながら、その前進を食い止めたことで、今では「奇跡の村」としてその功績を称えられる地域である。
夜明けの冷たい風とともに起き出し、牛の餌をやりに行く。
幼いギリオンの1日は、土と獣の臭いに包まれて手桶を運ぶ労働から始まった。
オーチャイスの村は、高原の牧羊地帯にあった。
背後にそびえるオルムソ山脈の峰は、夏でも天頂の雪が朝日に白く輝き、起き抜けの目に突き刺さって痛いほどだった。
その向こうはもう、隣国モンテロスである。
「『いてきさん』を見かけたら、すぐ憲兵に連絡するんだよ」
国境の村の子供たちは、親からそう言い聞かされて育っており、モンテロス兵の毛皮つきの外套や、大だんびらを構えた姿を絵本で見て知っていた。
しかし、ギリオンは実際にそんな風体の人間を見たことはなかった。
家の庭に出て高原の斜面を見渡すと、はるか下の方に、町役場や教会の屋根が光って見えた。
のんびり草を食む牛や羊を見張りながら、毎日外を駆け回った。
一番の遊び相手は、ラヤこと従兄弟のフライオだった。
フライオは、乳児期に猟師だった父親を亡くしてから、母親に連れられて村に住むようになった。 年はギリオンの2歳下だった。
温和でのんびりした性格の従兄弟を、剣術の修行に無理矢理つき合わせるのは大変だった。
その後決まって、彼が付き合わされるハメになったのは“竜神様の宿題”だった。
小さなフライオは歌うことが大好きで、毎日四六時中歌を歌っていた。
澄んだ歌声は伸びやかに山の斜面を走り、落ちては四方へ響き渡った。
複雑なこだまの響きを楽しむように、飽きもせず歌う従兄弟を見て、ギリオンはいつも不思議でならなかった。
「ラヤに歌を教えてるのは、一体誰なんだ?」
何度もそう訊いてみた。
「ラヤんちは、おばさんも死んだおじさんも歌なんか歌ったことなかったよな。
大昔は、この土地にすごく歌のうまい歌人が住んでいて、村の子供に教えてくれたりしてたそうだけど、僕らが生まれる前に死んでしまったらしいし」
「死んだんじゃないよ、殺されたんだ」
フライオが真顔で答えた。
「歌人エデリコは、秘密を歌にした罪で、王家の兵士に暗殺されたんだよ」
「暗殺だって?」
「そう。パンでできたお城に住む、王子様の歌」
そう言って、フライオは小声でひとつの旋律をハミングして聞かせた。
「だから、そういうことをお前に教えているのは、どこの誰なんだい!?」
ギリオンは重ねて質問したが、照れたような笑いの他は何も戻って来なかった。
彼が従兄弟の秘密を知ったのは、ある偶然からだった。
夏の終わりの夕暮れ近く、逃げた羊を探して山を登って行った日のことだ。
滝の上にある祠の中から、フライオが出てくるのを見かけたのだ。
そこはオルムソの峰に住むと言われる魔物を封じ込めた場所として、決して入ってはいけないと大人から言い聞かされていた場所だった。 子供であるフライオは立ったまま入れる大きさの祠だったが、大人の場合は手をついて這いこむ以外になさそうな大きさだった。
「ラヤ! 何してるんだ、ここは入っちゃいけない場所なんだぞ!」
ギリオンが駆け寄って叱責すると、小さな歌人は無邪気に笑った。
「入ってもいいんだよ。 中に楽譜があるから練習しろって言われたんだから」
「誰に!?」
問われてフライオは目を丸くし、救いを求めるように滝に目をやった。
相手が誰なのか、それまで考えたこともなかったという態度だ。
「どういうことだ? お前いくらなんでもおかしいぞ。
一体いつも、誰と話をしてるんだ?」
問い詰めても従兄弟は答えず、ふわふわした足取りで滝の方へ歩いて行った。
そこで大きな声で一曲、聞いたこともない歌を歌った。
歌というより、風の音を声で表現したような音の羅列、ついぞ馴染みのない旋律だった。
歌い終わったフライオは照れくさそうに頭を掻き、
「やっぱり難しいや、いっぱい間違えちまった。
これから毎日練習しなきゃ、冬までに間に合わないや」
そう言ってふらふらと山を降りて行った。
何故そんなものを練習するのか、冬になったらどうなるというのか、幼すぎる歌い手に何度問い質しても無駄なことだった。
その訳もわからないまま、ギリオンはその後毎日、剣術の稽古のあとで、従兄弟の歌の練習に付き合わされることになる。
歌のうまい下手はともかく、その特異な旋律のどこが正解でどこが間違いであるのかサッパリわからないギリオンにとって、いささか退屈な時間であった。
歌が完成したと知ったのは、冬どころか春の雪解け水が滝に戻ろうかと言う季節のことだった。
完成した歌も、やはり何がいいのかわからない代物だったのだが、フライオは嬉々として滝口に登った。 滝の水は止まっており、乾いた山肌がむき出しになっている。
幼い従兄弟が朗々と歌を歌うと、辺りの空気がふっと緩んだような不思議な気配がした。
さすがのギリオンにも、この変化は肌から伝わり、全身が旋律した。
「やった!」
フライオが喜びに叫んだ途端、彼の姿は山肌に吸い込まれて消えた。
その後に、凄まじい勢いで春一番の滝の水が流れて来た。
「ラヤ!!」
ギリオンの叫びが滝の音にかき消される。
あわてて後を追おうと、ギリオンも歌を歌ってみた。
長い期間、退屈な練習に付き合わされたお陰で、彼も曲りなりにそれが歌えるようになっていたのだが、さすがに同じ奇跡は起こらなかった。
無理やり滝の中に押し入ってみたが、硬い岩に阻まれて奥へは進めなかった。
仕方なく、ずぶ濡れのまま従兄弟を待っていた。
滝から出て来たフライオは、少しぼおっとした様子に見えた。
「お前、一体どこに行ってたんだ?
この後ろに入る場所なんてないんだぞ!」
問い詰めても、小さな歌人には説明できなかった。
「竜は眠いんだ。俺、子守唄を歌ってきたよ」
へらへらと笑いながら、そう答えた。
ギリオンはあきらめて、従兄弟の手を引いて帰宅した。
羊の番をサボったと言って、その晩は食事を抜かれた。
フライオがすまなさそうに、自分のパンとチーズをそっと分けてくれた。