第93話「市街を探ってこい」
「フン……もうよい、下がれ」
「はい……」
ウ=イザーク城下町に聳えるイザーク城の寝室で、薄着の女が逃げるように立ち去った。
その場に半裸で残るのは、城の主エリスト・イザーク公爵。出て行った女性は妻ではなく、金で買ってきた奴隷であった。
聖女、勇者に矜持を傷つけられた腹いせをしようと奴隷に憤りをぶつけたようだが、その程度では足りなかったのか未だ不機嫌のままであった。
「全く……もっと上物の娼婦でも呼ぶべきだったか」
その道のプロを呼びつければ技工は高いが、あまり無茶はできない。良くも悪くも専門家が相手だと、壊してしまったときが後々面倒なのだ。
その点、闇ルートで買い付けた奴隷というのは都合がいい。公的な記録には存在すら載っていないので、気まぐれに殺してしまってもさほど問題にならない人間というのは猟奇的な趣味を持つ公爵にとっては貴重なのである。
それに、早急に用意できる高級娼婦は勇者の要望でそっちへやっている。勇者の制御方法は異性と金。そう相場が決まっているのだ。
そんな感想を漏らしていたら……ギィと、先ほど奴隷の女が出て行った扉が開かれたのだった。
「あん? 誰だ? 誰も通すなと言っていただろうが――」
扉の向こうに誰がいるのかもわからないうちに、エリストは不機嫌な声をぶつける。
勇者、聖女は望んで自分の居住区である城ではなく別邸を望んだのだから、ここには来ないはず。となれば、使用人の命令違反かと不快感を露わにするのだった。
だが、現れたのはエリストの想定には含まれない人物であった。
「シャルロット……貴様、なんのつもりだ?」
ノックも無く、声をかけることすら無く寝室に入ってくる。これだけで極刑ものの無作法。
それを成したのは、彼の娘――幽閉された令嬢、シャルロット・イザークであった。
「貴様、誰の許しを得てここにいる? 誰が貴様の自由を許したか!」
彼女の姿を見たエリストは、腰布一枚の格好で怒鳴りつけた。
端から見ると滑稽極まりない姿だが、シャルロットは産まれたときから『イザーク公爵家』に虐げられて育った少女だ。自尊心や反骨心など産まれてから一度も抱いたことすら無く、あっても即座に砕かれてきた。
そんな彼女がイザーク家のトップであるエリストの怒気に晒されれば、即座に頭を地に着けて許しを請うことになる。それが彼女に与えられた教育なのだから。
しかし、今日のシャルロットは様子が違った。
父親であり飼い主である男の怒気にも碌な反応を見せないまま、無言で封筒を取り出し、エリストへと投げ渡したのだ。
「な……?」
その余りにも無礼な態度に、エリストの頭の中は怒りから困惑、そして疑念へと変化していった。
頭がおかしい趣味を持つ狂人と自他共に認めるエリストだが、しかし決して無能ではない。何かしらの異常事態が発生していることをその危機察知能力が嗅ぎつけ、状況を把握すべく投げ渡された封筒の中身をまずは検めるのであった。
「……こ、これは……!!」
エリストは封筒の中から書類を取り出し、数秒斜め読みするだけで顔色を変えた。
時間をかけて読み込む必要などない。彼は、その書類を以前にも見たことがある。既に内容は知っているからこそ、その書類の正体を理解するのに五秒も必要なかった。
「貴様……これを、どこで……!」
「……お父様の執務室、絵画の裏の隠し金庫の二重底の中」
シャルロットは、台本でも読んでいるのかと思わせる抑揚の無い声でそれだけ告げた。
その言葉に、エリストは更に警戒を強める。この書類は、いわゆる不正の証拠……違法取引の裏帳簿を含めた、イザーク家にとって外に漏らすことは決してできない致命的な弱点なのだ。
裏社会における信用取引に使用するため、そして同じく不正に荷担した相手をいざという時脅す材料として保管しているものだが、エリストの許可無く持ち出されては非常に不味いものであった。
「どうやって手に入れた? 私の執務室に入る権限など、貴様には無いはず……!」
シャルロットに与えられた自由は、元物置部屋である自室のみ。そこから外に出られるのは精々湯浴みの時くらいであり、食事も物置に運ぶことになっている。
当然、部屋の外には事情を知っている信用できる見張りをつけており、許可無く外に出ようとすれば問答無用で捕縛されることだろう。
それを思えばそもそもシャルロットがこの寝室に姿を現したこと自体があり得ない話なのだが、この不正の証拠を含めて重要書類が多数保管されている執務室の警備はまさに鉄壁。シャルロットどころか他の公爵一族の者であっても許可無く立ち入ることは禁止されており、入室には領主エリストの許可が必要のはず。二重にシャルロットがこんなものを持ってきた事実が理解できないのであった。
「こっそりと」
「こっそりだと? ふざけているのか……? 貴様風情がこっそりと、なんて簡単に入れるほど我が守りはザルでは無いわ!」
エリストは半分本気で、半分会話の主導権を握るテクニックとして再び怒鳴りつけた。
元々感情が死んだような娘であったが、だからこそ恐怖だけは根付いていたはず。先ほどは何故か無反応だったが、何とかこの不気味な人形のような相貌の娘から人間らしい感情を引き出したかったのだ。
だが、シャルロットはエリストの怒気など全く意に介すことは無く、再び書類を指さしたのであった。
「最後」
「なに?」
「最後、見て」
操り人形のように抑揚の無い娘――と言っても、シャルロットは元々こんな感じであるが――が示すままに、混乱したままエリストは書類の束の一番後ろの一枚を取り出した。
他はエリストが知る、エリスト自身が作成した書類であったが、それだけは見覚えがあるものではなかった。
その、漆黒の一枚だけは。
「これは……?」
異様な雰囲気を感じさせるその一枚に、エリストの警戒心は最大まで高められるのであった――。
◆
そんな公爵城の異変とは一切縁のないウ=イザーク城下町にある安宿の一室が、地獄と化していた。
「このまま三十分くらい煮込むとして……あー、トロロ草がちょっと不安かなぁ」
この部屋に入った生物は、まず顔を顰めて鼻を手で覆うことだろう。それが不可能な四足動物ならば脱兎のごとく逃げ出すほかない。
何故ならば……この部屋は、多種多様な薬草が切られ潰され煮詰められ……そんな作業を行った結果、耐性のない者ならば5秒と留まっていられないような珍妙な青臭さに満ちているのだから。
「手持ちの素材だけでやるって、けっこう難しいんだよね……」
その地獄を作り出した張本人は、コボルトのコルト。ウル軍薬学研究班の班長であり、師匠という立場に当たる魔王ウルを除けば魔王軍の中でもぶっちぎりで薬草の知識に精通するコボルトである。
そんな彼がウルが出て行った部屋でいったい何をやっているのかと言えば、そのウルの命令で特別な薬を調合しているのだ。拠点から離れたこの宿には満足な道具も材料もないが、何があっても対応できるようにとコルトは最低限の道具と材料を常に持ち歩いているのである。
その結果、悪臭の地獄が顕現することになったわけなのだが……一応、匂いを遮断する結界を張っているので近所に迷惑をかけることはない。部屋の中にさえ入らなければ。
もっとも、部屋全体に強烈な臭いが染みこむことは間違いないので、罪なき宿の主人が後で泣くことになるだろうが。
「……凄いですね、コルト殿」
「え? 別に特別なことはしてないよ?」
作業を続けるコルトに、顔の半分を覆うマスクを付けて防御している男が声をかけた。
ウルによって連れてこられた人間、クロウである。生憎薬学の知識も薬師としての技術も持ち合わせがない彼にできることはないが、宿の人間が急に訪ねてきたとき対応する係としてこの場に残されている。
引退したとはいえハンターとして五感も鍛えている彼にこの悪臭は耐えがたいものなのだが、マスクと気合いで何とか耐えていた。自分が倒れ魔王の不興を買えばア=レジルの民間人に被害が出るかもしれないと使命感も燃やして。
……と、そんな悲痛な覚悟を決めてこの場に残っていたクロウであるが、今はもっと別の思いを持っていた。
コルトが見せる、見事な調合術と……それを可能にする器用な魔道技術に感心していたのだ。
「一度に幾つもの魔道を発動させ、複数の作業を並行して行うとは……コルト殿一人で薬師10人分の働きができるのでは?」
クロウがそう言って部屋を見渡せば、そこに映るのは自らの意思を持っているかのように動く調合道具の数々。
薬草は自動的にすり潰され、鍋は自ら火にかけられに行き、正確に量り取られた薬品は空を飛んで一つのビーカーで混ざり合う。
どれも無の道の念力によるものであることはわかるが、全く異なる複雑な作業を同時並行するなどまず不可能な神業だ。ウルとの戦いで経絡の活性化を果たし、魔道の入り口に立ったクロウだからこそよくわかる。仮に自分が同じことをしようとしても、全神経を集中させて一つの作業がやっとであると。
「んー……そこまで大したことじゃないよ? ただの慣れ」
素直な称賛を送るクロウに対し、コルトは苦笑いだった。
確かに、コルトの配下にコルトと同じように作業できる者は一人もいない。しかし、コルトが魔道技術の標準にしているのはかの魔王ウル・オーマ。ウルならばこれと同じことを更に数倍の規模で行うことも可能であり、コルトにもそのラインを求めてくる。
その基準の高さからすれば、自分の腕などまだまだだと謙遜ですらなく思っているのである。
「っと、そろそろいいかな?」
「……にしても、それはいったい何の薬なので?」
そんな風に話しながらも作業を進めていくと、コルトはついにビンいっぱいの薬を調合した。
クンクンと匂いを嗅いで確かめるコルトに、クロウは薬について質問する。知識のないクロウが作業工程など見ていてもわかることは何もなく、何の説明も受けていないので何に使うものなのかさっぱりなのだ。
もし危険な毒薬の類いであれば、事故を装って破棄を狙うべきか……などと考えつつ質問すると、コルトはあっさりと答えたのであった。
「簡単に言うと興奮剤かな? 体内に入れると活力が漲るというか、テンションが上がる薬」
「……危険はないので?」
「よっぽど大量に服用しなければ大丈夫だよ。依存性もないし。まあ、興奮状態になるから冷静さというか思慮深さがなくなるって点は危険と言えば危険だけど」
「ほう……となると、戦の前に兵に服用させるんですかな?」
「そういう使い方が基本かな? 言ってしまえば強制的に士気を上げる効果だから、余計なことは考えずに戦え~って一般兵に飲ませるのは有効だと思う。指揮官クラスに飲ませるのはデメリットが上回ると思うけど」
「……戦備えということか」
クロウは暗い表情になった。確かにここの領主は碌でもない人間で、民を傷つけるだけの悪人らしいが……それでも人間だ。
同じ人間として傷つけられることに喜びを感じることはなく、何より実際に戦争となればまず傷つくのは兵……民だ。
末端とは言え貴族の家柄であり、正しくノブレス・オブリージュ――高貴な者としての務めを胸に刻み人を守る立場として今まで生きてきた男としては複雑な思いがあるのだろう。
しかし、そんなクロウにコルトは煮え切らない表情を見せるのであった。
「いや……どうなんだろ?」
「え?」
(確かにこれは戦闘前の兵士強化に使えるんだけど……どう考えても足りないんだよね)
クロウの訝しげな顔をスルーし、コルトは内心で疑問を言葉にした。
(この量じゃ、人間を被検体にした実験から考えても4,5人くらいがやっとなんだよね。残念ながらこれで適正濃度だから、これ以上希釈して量を増やしたりしても効果半減だし)
コルトは自作の薬をそう評価した。これが人間よりも遙かに体重のある魔獣や巨体を持つ鬼族何かだと更に減り、逆に小柄なコボルトやゴブリンならもう少し増えるといったところだが、どちらにせよ軍備というには細やかすぎる。
そういったつもりでコルトに作らせたのならば、一度シルツ森林の拠点に帰り豊富な材料と配下を使って大量生産させることだろう。
それをコルト一人で、少量の材料だけで早急に作れと指示を出した以上……何か普通ではない使い方をする気なのは間違いない。
(ま、そこまで言わなくてもいいかな。下手に不安にさせても危ないし)
同じ王の下についた同胞といえども、完全に人間を信用したわけではないコルトは……話の核心は口にせず、ギュッと薬品のビンの蓋を閉めるのであった。
「……ん?」
「どうかした?」
「いえ、虫が――んなっ!?」
コルトに答える気がないと察したクロウは口をつぐんだが、そこで足の指先に違和感を覚えた。
小さな羽虫が足に止まっていたのだ。それだけならば何のことはないのだが……次の瞬間、頭の中に声が聞こえてきたのだ。
「……魔王殿?」
声の主は、ここ最近で完全に頭に刻まれた魔王ウル・オーマその人であった。
「ウルからの通信?」
「え、ええ……これはいったい?」
「あー、使い魔を媒介にした通信術だね。この使い魔に聞こえるように喋ればこっちの声も届くよ。ウルの声は接触していないと届かないみたいだけど」
「なるほど……便利ですね……」
この術が一つあるだけで世の中がひっくり返るだろう。そんな思いを抱くクロウは、ここは魔王の御前であるとすぐにウルの声に集中する。
「はい、はい……わかりました」
何かの指示を受けたらしいクロウは、使い魔が自壊すると同時に立ち上がった。
そして、すぐさま外出の準備を整える。
「何かの命令?」
「ええ。少々『市街を探ってこい』、と」
人間の街で大手を振って行動できるのは人間であるクロウだけだ。そろそろ日も落ちる時刻であるが、だからこそ集められる情報もある。
定番の場所は……やはり人々の口が軽くなる酒場だろうか。
「数日後の、領主主催のパーティまでに成果を出さねばならないらしいので、早速行ってきます」
魔王の勅命を果たせなかったらどうなるのか。そんな恐怖を抱きながら、クロウは早足で部屋から出て行った。
なお、その早足の理由にこの部屋の臭いが含まれていることは言うまでもないことである。
「……じゃ、僕は次の調合をしようかな」
そう言って、コルトもまた新たな調薬作業を始めた。
今度作るのは……致死性の猛毒である……。