第92話「絶対に逃がしてはならない獲物」
「……あの人は何を考えているのかしら」
ウ=イザーク公爵城の一室に、一人の令嬢が憂鬱な表情で一人香の薄い紅茶を飲んでいた。
彼女の名はシャルロット・イザーク。その家名のとおり、当主エリスト・イザークの血を引く娘である。
しかし、その高貴な血とは相反し、彼女が住まう部屋は粗末なものであった。
貴族のご令嬢ともなれば、居住は絢爛豪華で無駄に広いと決まっているものだ。誰が見るわけでもない部屋を飾り立て、一人で使うには明らかに過剰なスペースを占有するものだ。
だが、シャルロットの部屋ははっきり言って狭い。令嬢の自室というよりは、物置を改造したと言った方が正しい面積と間取りであった。
部屋を飾る調度品も必要最低限のものしかなく、はっきり言えばベッドとクローゼット、それに明かりを灯す燭台くらいしかない。
目を楽しませる芸術品もささやかな楽しみになる本棚も、その身を飾り立てるべき装飾品の保管ケースすら無い。これでは使用人の仮住まいと言った方が遙かに正しいだろう。
いや、公爵家の城の使用人ともなれば、この物置部屋よりは確実にましな部屋が与えられるはずだ。
更に言えば、シャルロット自身が纏う衣服も貴族令嬢として失格……というレベルではない粗末なもの。
一応ドレスに分類はされるはずだが、飾り気の無い白い生地は散々着古してあちこち解れており、装飾品や宝石の類はゼロ。公爵家で普段使いしているカーテンかテーブルクロスでも使って作る即興ドレスの方がまだマシなのではないだろうか?
こんな格好をするのは貴族名鑑の端っこ以外に居場所がないような、最下級貧乏貴族の令嬢くらいなものだろう。
総合して、明らかに訳ありの娘……それが、シャルロットを上辺だけ見ただけの人間でも理解できる印象だ。
明らかに城の主である領主から疎まれており、しかし追い出したり殺したりもできないような相手。とても実の娘に与えるものではない境遇に甘んじているのは、彼女の出生が原因だった。
シャルロットの母親は公爵夫人でもなければ、愛人の類いですらない。当主エリストが酒の勢いで使用人のメイドに手を付けた結果できた祝福されぬ子なのだ。
公爵夫婦の間に愛と呼べるものは無いに等しく、利害のみで繋がった関係だ。だが、だからこそシャルロットの存在は公爵夫人にとって許せるものではなかった。
万が一にも公爵夫人の実の子供……戦車訓練に夢中な長男と次男が死亡したりすれば、公爵家次期当主の座はシャルロットのものになってしまう。それがル=コア王国の法なのだ。
そうなれば、公爵夫人が本来持つはずの様々な権威全てが手元からこぼれ落ちることとなり、大変よろしくない老後が待っていることだろう。
シャルロットさえ居なければ、息子二人に何かあっても余所から養子を取るなりなんなり対処法が無いわけではない。だが、正妻の子でなくとも当主の血を引いた後継者がいるとなればその手の手段は使えない。お家乗っ取りを防ぐための法律だ。
だから、公爵夫人はシャルロットに生きていてほしくはなかった。今は元気な息子二人が明日も元気に息をしている保証など無い世界であることを熟知してる彼女は、シャルロットが公爵家の財産目当てに凶行に走る可能性まで考えて気が気ではないのだ。
だから、シャルロットの母親はすぐに殺された。
書類上は事故死になっているが、その死の背後に公爵夫人がいることは公然の秘密というやつであった。
後はシャルロット自身も殺してしまえば安泰……と言いたいところなのだが、それは公爵夫人にもできない。望まれない子であっても、その身体にはイザークの血が確かに流れているからだ。
古く、強い貴族の血には歴史があり、貴族の歴史とはすなわち栄光と悪行の積み重ねだ。その輝きと罪の重さによっては血に功罪が発生することは希ではあるがあり得ない話ではない。
そして、イザーク家の血統はその希な一例に含まれる。半分は平民とはいえもう半分はイザーク家の血を引くシャルロットには、長男と次男にもない――生存する血族の中では現当主であるエリストしか持っていないイザークの功罪が宿っていた。
イザークの功罪は腕力が強くなるとか魔道が使えるようになるとか、そういったわかりやすいものではない。酷く限定的な状況でしか使えない特殊なものであり、持ち主の意思では発動することができない厄介なものだ。
そのイザークの功罪発動に必要な条件の中に、死の危険に晒されるというものがある。もしシャルロットを考えなしに殺そうとすれば、少女一人の首を折るだけ……では済まない問題が発生する恐れがあり、それを考えると直接命を狙うわけにもいかなかったのだ。
それは条件が同じ当主エリストからしても同じであり、むしろ自分だけの特別な才能であった功罪を娘とは言え他人が持っていることは面白いことではなかった。かといって殺してしまえば面倒になるのは確実と、娘を幽閉という形をとったのだ。
愛を与えず、教育を与えず、自由を与えず、死すらも与えない。最低限生存に必要なものだけを与えて放置。
これならば何の問題も無いと、シャルロットは物置部屋に押し込まれたのだった。
「……聖女様と、勇者様……か。民達を、救ってはくれないかしら……」
そんな境遇の中で20年弱の歳月をただ生き続けたシャルロットは、誰からも情報が与えられないはずの生活を送りながら、そんなことを呟くのであった……。
◆
「公爵殿が勇者……それに聖女様と呼んでいたのであれば、恐らく本物でしょう」
翌朝、最低限の休息にはなっただろうと日が昇り始めた頃合いの時間帯にたたき起こされたクロウ、コルトの二人は、魔王ウル・オーマから偵察の結果を教えられた。
ムカつく匂いと無視できない力を持った二人の若い人間の正体は、ウルにも想像はついている。しかし根拠は無かったので、人間社会に最も詳しいクロウに確認を取ったのだった。
「勇者、聖女とはどちらも神より力を与えられた人の領域を越えた存在……とされています。そして、その名を騙るのは神に唾吐く行為であるとして、いかなる身分の者であろうとも極刑……それが万国共通のルールとされているはずです」
「神共が好きそうなルールだな。……だが、となればあの二人は間違いなく人類の切り札ということか」
「ええ。ア=レジルギルドのハンター……最精鋭のコーデチームのような一流ハンターの力を100とすれば、勇者は最低でも1000。そんな評価がされる規格外の怪物のはずです」
「10倍……それは、怖いね」
コルトは引きつった笑みを浮かべた。
コルトはア=レジル攻略戦の際は直接戦うことは無かったが、その後の交流訓練でハンターの戦闘力は大体把握している。
ア=レジル現役最強候補のコーデチームもケンキに一方的にやられた傷から立ち直る驚異的な回復力を見せており、何度かコルトとも訓練として戦ったことがあった。
その体感から言えば、彼らの10倍となるとコルトにはどうしようもない……というのが正直な感想であった。
「まぁ、それは使い魔越しに見ただけでも大体把握はできた。総合的な戦闘能力がどうなのかはともかく、身に宿るいけ好かない魔力の量だけは今の時代で比較対象になる者もおらんな」
「勇者は、ある日突然神に選ばれ力を与えられるものです。存在そのものが国家の切り札のようなものなので私は直接見たことはないのですが……つい昨日まで戦闘経験ゼロの素人がいきなり熟練した戦士を軽くあしらえる力を得るというのですから、やはりエネルギー量が桁違いということなのでは?」
「魔力量が違いすぎて攻撃はどんな軽いものでも必殺に、防御は普通に立ってるだけで無敵になるって感じ? ケンキと肉弾戦する気分だね……」
「外に漏れている魔力だけで内在する量を完璧に把握することはできんが、俺の見たところではケンキより魔力量だけなら遙かに上だ。……まぁ、自称勇者の方は俺も似たような例を知っているが故、最低限の確認ができれば今はいい」
そこでウルは、一度勇者に関する話を打ち切った。
今の世の中で言われている勇者とは大分毛色が違うが、旧魔王時代には神の力を授けられた人間という者も大勢おり、それを手にかけたことも珍しい話ではなかった。
その辺りの経験から、大体の力は想像できるというのがウルとしての感触だ。
問題は、もう一人の方であった。
「それで……聖女とは何者だ? 以前に読んだ本には『神への信仰が認められ、その力を授かった者』としか書いていなかったが?」
「私も詳しくはないのですが……勇者が突然一般人の中から選ばれるのに対して、聖女……聖人は聖職者の中から選ばれます」
「聖職者、ねぇ……宗教屋か?」
「ええ、まあ。エルメス教の神官達ですね。その中でも信仰心に厚いと神に認められた者は『神器』と呼ばれる神の道具を与えられ、聖人として奉られるようになる……という程度ですかね、一般常識でわかるのは」
「男であれば聖人、女であれば聖女と呼び分けているようだが、特に理由は無いんだな?」
「無いはずですよ。というよりも、聖人は男女兼用の呼び方で、女性だけ聖女と特別な区分けがあるという方が正しいですが」
何でそんな風に分けているのかは正直わからないクロウとウルだったが、そこは大した問題ではないのでスルーすることにした。
「エルメス教、か……ちなみに、お前は信心深い方なのか? 今やそのエルメス教とやら以外の宗教活動は例外なく邪教認定されて釜ゆでにされると書かれていたが」
「そうですね。実際に何かするかは別にして、エルメス教を国教と定めている国の民は全員教徒ということになっていますよ。……生憎、信じられるのは己の腕だけだという世界に生きる我々ハンターはあまり信心深い方ではないですが」
「それはよかったな」
クロウは特に神に対して祈りを捧げた覚えも無い、限りなく無神論者に近い信徒だ。神の存在は証明されているので疑わないが、しかし縋ることもないのである。
信徒にならないと生存を許されない……というのがエルメス教の力が強い国のルールだからエルメス教徒の一員ということにはなっているが、現役時代に経験した数々の修羅場を乗り越えたのは神のご加護ではなく自分と仲間達の積み上げてきた鍛錬の成果であった。対して、祈るばかりで鍛えない同業者は一人も今を生きてはいない。
勇者、聖人の存在から神の存在を否定する者は一人もいない世界だが、しかし神は万人を救いはしないのである。
だが、それの何が良かったのかとクロウは首を傾げるのであった。
「俺は、基本的に民の生活に面倒な制約を設けるつもりは無い。無論敗者に対して服従させるための契約は行うが、特に俺に損の無い部分に関してはうるさく言うつもりはない」
「それは……いいことですね」
「だが、信仰の自由だけは認めるわけにはいかん。今はエルメスの神々と名乗っている連中は、例外なく俺の敵だ。あいつらに力が流れるとわかっていて宗教活動なんぞ認められるわけがない」
ウルは不愉快そうに断言した。魔王ウルの支配下では、神を信じ、神に祈る行為は認めないと。
「ア=レジルに戻ったらそこのところをしっかり整備しなければならないな」
「その……信仰を認めないとは、具体的にどのようなことを考えているので?」
「そうさな……踏み絵でもやらせるか」
「踏み絵?」
「大昔に占領した国でやらせたことがあるんだが、まぁ試験みたいなものだ。俺を選ぶのか、そうじゃないのかを確かめるだけだよ」
「その、試験に不合格だとどうなるのでしょうか……」
「現在可能な範囲で最大限の苦痛と屈辱を与えて殺す。二度と神を信じようなどと思わぬように、神に祈っても決して救われないことを徹底的に叩き込む」
――我が国において、神共への信仰は最大の罪と定めよう。
ウルはその言葉で、この会話をしめた。
神への強烈な憎しみと怒りを肌で感じ取ったクロウは、拳を強く握る。元々信仰心が薄い自分からすると何の問題も無いことであるが、ア=レジルの住民の中には神に縋って生きている者も大勢いることは間違いない。
その者達の犠牲を一人でも減らさねばと、固く決心するのだった。
「……まぁ、それは後の課題だ。一先ず、今後の目標を変更する」
「変更? この街を落とすってのを止めるって事?」
「最終的にはそれも行うつもりだが、優先順位の変更だ。仮にこの街を落とせなくとも、絶対に逃がしてはならない獲物の存在が判明したからな」
ウルはそこで溜めをつくり、コルト、クロウ、そして影の中のグリンに魔王としての決定を告げる。
「本作戦において、最優先するのは聖女アリアスという人間の女の捕縛だ。必ず殺すこと無く捕える。それを念頭に置いておけ」
「え? うん。……勇者じゃないんだ?」
「しかも不殺とは……いえ、いいことなんですが」
最強の戦闘者として度々名前が挙がっていた勇者ではなく、聖女の方を狙うと宣言したウルに首を傾げつつも、コルトは了解した。クロウも、この人の命など何とも思っていない魔王にしては良識的な命令だと思いつつも、素直に頷く。
「それで……具体的にはどうするので?」
「あぁ。この喜劇の舞台に、丁度いい役者はもう見つけてあるとも」
クククと邪悪に笑った魔王は、窓から公爵家の城へと視線をやった。
腹に何かを隠しつつも、魔王の魔の手は、神聖な神の信徒に伸びるのだ……。