第86話「閑話・魔物・エルフ・人間」
「……ねえ、ウル?」
「なんだ?」
ウル軍侵略から二週間ほどが経過したころのア=レジル都市長の館執務室。
今は暫定的に魔王ウル・オーマの部屋となっている場所に、夜も遅いのに数名の人影があった。
部屋の主であるウルと、その配下のコルトとケンキ。そして仕事を手伝わせるために呼び出されたエルフ族のミーファーと護衛のシークー、人間代表のクロウである。
人もエルフも魔物も一堂に会して何をしているのかと言えば……書類仕事である。
ウルとミーファーとクロウはア=レジルで適応されている法律の確認を、コルトとケンキはついでにル=コア王国の文字の勉強をしろと呼びつけられたのだ。なお、シークーは見張りと護衛をかねた雑用係だ。
ちなみに、ケンキと同格の三大魔――嵐風狼のカームは本拠地である森の拠点の守りで不在である。
「なんかさー……大人しいよね?」
「何がだ?」
「いや、いつも過激な事ばっかり言って、実際やるウルにしては人間の街を支配したっていうわりには大人しいなと思って」
「そうか?」
そんな頭脳労働に疲れた……というわけではないが、フト思いついてコルトはウルに問いかけた。
「いやだって、お金の話の時も普通にお金払って干物買ってたし、クロウとも大人しく勉強してただけだし」
「売買は契約だからな。商人から強奪するのは王として美しくないし、クロウの一件は俺にとっても必要なことだからというだけだ」
かつて人間に群れの仲間を皆殺しにされたコボルト――コルトは、人間を憎んでいる。
故に、人間を支配下に置いたとなればいったいどんな非道を行うのかと怖さと期待が半々といったところだったのだが、意外にもウルは大人しかった。
単に街の上層部だった肉塊……もとい人間を苦しめるのに忙しかっただけという説もあるが、ア=レジル征服戦を最後に人間サイドから見ても驚くほど罪のない一般市民を攻撃することをしていないのだ。
「まぁ、契約したからな」
「契約すれば見逃すの?」
「契約した以上俺の支配下にある。そして、俺は自分の庇護下に入れた物も者も無駄に壊すようなことはせん」
ウルの答えはどこまでも冷たかった。
魔王の矜持として、無意味に命を奪うということはしない。空腹でもないのに命を奪うような真似はしないし、罪を犯してもいない者を裁くようなことはしないのである。
もちろん、腹が減れば喰らうし僅かでも罪を犯せば一切の容赦はないが。
「うーん……」
「なんだ? 適当に人間を殺してしまいたかったか?」
「いやまあ……そんな思いがないわけでもないんだけど……そう言われると、まあ確かに同じ群れなら……」
コルトは複雑な様子であったが、同時に納得もしていた。
そもそも、野性に生きる魔物の世界に仇などという概念はない。常に食うか食われるか、強いか弱いかだけで物事を判断する魔物の世界では、言ってしまえば同胞を殺されたとしてもそれは殺された方が悪いというのが常識なのである。
場合によっては親の仇に従うことも珍しくはないし、下剋上を果たして親の仇をシモベとして使うということもないわけではない。
そんな魔物のルールの外からやってきて傍若無人な振る舞いをする人間には相応の怒りを溜めてはいたが、同じ群れに入ったのなら過去のことは水に流すのが魔物本来の考え方なのだ。
魔物に対して人間に都合のいいルールを押しつけ、反撃されれば悪だ非道だと非難されるのは納得いかないが、人間が魔物のルールに従うというのならば矛を収めないとコルトの方が道理をわかっていないワガママになってしまう……という話である。
「……物騒なこと言わないでいただけますかな?」
「うん? どうした?」
一方、黙々と書類を読んでいた人間のクロウとしては、聞き捨てならない会話である。
彼からすれば『意味もなく人間殺さない?』という物騒極まりない会話なわけで、流石に黙ってはいられなかったようだ。
「このようなことをお願いできる立場ではないことは重々承知していますが、どうか罪のない民を苦しめるような真似は……」
「安心するがいい。罪のない者に攻撃するような真似はせんよ」
ウルは机の上に置いておいたお茶を飲みながら、何でも無いことのように答える。
「本当ですか?」
「あぁ、本当だとも。エルフとて、仲間を苦しめた下手人以外まで……という意思はなかろう?」
「え? ええ……もちろん」
突然話を振られた若きホルボットエルフ族の族長、ミーファーは一瞬慌てるも、すぐに魔王の言葉に頷いた。
ここ数日、魔王の口車に乗って仇の害獣……人間を相手に遊んで魂が穢れたという気分のミーファーとしては、あの地獄の外でくらい心の清らかさを保つように心がけたいと思っているのである。
具体的には、復讐とは実際にやってみると気持ちいいが後味はさほどいいものではない……という教訓の下に。
「ま、そういうわけだ。俺は契約を破らない限りは支配下のモノを壊すつもりはない。人間を苦しめてやりたいとうずうずしている諸君には申し訳ないが、すぐに次の獲物を用意するつもりであるが故、機を待ってくれ」
「個人的には、抵抗できない獲物をいたぶるよりも強者と相まみえたいですな」
「そっち方面の望みもすぐに叶うことだろう。最低限の下地を作り終えれば、次の獲物を決めねばならんからな。……それよりも、森の職人班へ技術提供させている人間の職人共の労働条件に関する法規制を改定したいのだが、意見はあるか?」
「え? その……もっと働かせるということで?」
「逆だ。現状の規定では賃金と休日、労働量のバランスが現状悪すぎる。これでは労働力としての消耗が早すぎるだろう。職人ゴブリン共と連携していくためにも精神状態の安定は不可欠――」
「……意外とそういうところは真っ当なんですね」
「良くも悪くも合理主義で、趣味と仕事は分けるタイプ……?」
悪意の話には我関せずと、戦いを求める大鬼の意見でその場は収まり、再び各々の作業に戻っていった。
魔王ウルは、無差別に破壊をまき散らすようなことはしない、というどこまで信じていいのかわからない宣言を残して。
だが、ウルは決して嘘は吐いていない。悪魔である魔王ウルは、契約を結んだ相手には最低限の礼儀は払うのだから。
ウルとの契約を破るという、大罪を犯さない限りは……。
「ん……あぁ」
「どうしたの?」
「ちょっと野暮用ができた。席を外す」
突然の宣言に、どうしたのかと一同はウルを見るも、怪しく笑みを溢すだけで口を開くことはなかった。
何が目的なのかもわからないまま、魔王は一人去っていく……。
◆
――都市長の館でそんなやりとりが行われるより少し前の時刻に、ア=レジルの路地裏に三つの人影があった。
「おい、急げ!」
「見つかってないよな……?」
「魔物なんぞに見つかるようなヘマするか!」
人気の無い裏路地を、三人の男達が息を潜めて走っていた。
頭から粗末な黒い布を被ったその姿は、どこからどう見ても不審者。警備が見れば百回中百回呼び止められること間違いなしの姿だ。
私は後ろめたいことをしています、と全身で叫んでいるような格好の男達は、やはり後ろめたいことをやろうとしていた。
「防壁を越えるのは無理でも、抜け道はあるもんだ」
「裏門の警備員用入り口。あそこは鍵さえあれば抜けられるし、魔物共も警戒はしていねぇ」
彼らが犯そうとしている罪は――契約違反。
魔王ウル・オーマの契約功罪によって禁止された項目の一つ『許可無くア=レジル防衛都市の外に出ることを禁じる』を破り逃げだそうとしているのである。
「数日観察した限りじゃ、あいつら、外から攻めてくる敵への警戒は厳重でも、内側の俺らが逃げ出すってことへの警戒は甘い」
「心を折ったつもりなんだろうな」
「問題は、あの契約だけど……」
「ハッタリに決まってんだろ! どこの世界に街一つ分の人口を纏めて縛るような強制力と支配力を持った功罪なんてもんがあるかよ!」
彼ら三人は、王国の中央からシルツ森林攻略の指揮官を任されていたゲッドと共に派遣されてきた軍人である。
その忠誠はル=コア国王にあり、魔王の支配下に収まることなど決して無い。……という自負を持って、今日あらゆる情報を持ってア=レジルからの脱走を計画したのだ。
しかし、彼らも魔王軍侵略時にア=レジルにいた以上、魔王の契約の影響下にある。
その対策はどうしたのかと言えば……なまじ一般人よりは魔道や功罪といった異能の力に知識があるため、ウルの契約をハッタリと判断していたのである。
それは仕方が無いことだ。他者の行動を縛る系統の功罪や魔道……いわゆる呪術というものは確かにあるが、その『強制力』と『同時に効果適応可能な人数』はその術の威力に直結する。
姿を消した街の上層部程度ならば術をかけることも可能だろうが、街一つを飲み込むなど、どれほど傲慢で唯我独尊の人格があり、それを証明してしまうほどの絶対的支配者としての功績があるというのか。
そんなあり得ない力は存在しない。知る者としての常識に基づいて、彼らは行動を起こしたのだ。
「ここだ」
「鍵は?」
「昼の内に盗んでおいた。元の管理がずさんで助かったというところだ」
彼らは闇に溶け込み、無事目的としていた脱出口……裏方の人間が出入りするための小さな扉まで辿り着いていた。
元々森方向へは警戒していても、背後の警備は甘い傾向があったア=レジル。ましてや街から逃げ出す人間など想定もしていなかったこの街は、牢獄として扱うには隙の多い場所だ。
「……見張りは?」
「いない」
「よし、いくぞ!」
最後に周辺の確認を行った三人は、勢いよく扉を潜って防壁を抜ける。
その先は、ア=レジルの敷地範囲外だ――
『契約違反だな』
「がっ……!」
敷地の外に一歩出た瞬間、三人は同時に足をもつれさせて倒れた。
何が起きたのかと混乱するも、周囲には誰もいない。偶然三人同時に転ぶことなどあり得ないのだから、誰かの攻撃には違いないはずなのに、誰もいないのだ。
「いったい、何が……」
「わからな……!」
「か、身体が……!?」
訳もわからず混乱していると、三人同時に立ち上がった。
ただし、本人の意思を身体が無視する……という形でではあるが。
「お、おい! どうなってんだ!?」
「わかんねぇよ! クソッ! 戻るな!」
「なにが、どうなって……?」
身体の支配権を奪われたかのように、三人の身体は持ち主の意思を無視して街の中へと戻っていく。
何が起きているのかわからないと、困惑しながら。
「契約に反するとはな」
「ッ!? お、お前は……!」
「魔物共の首魁、ウルって化け物……!」
主の言うことを聞かない足が向かったのは、街の広場。
太陽が姿を隠し闇の中に沈んだ場所で、魔王が待ち受けていた場所であった。
「これより処刑を執り行う」
「しょ、処刑!?」
「ク……なんで、身体が……!」
明らかな殺意を漲らせている魔王に抵抗しようとするも、三人の身体は全く言うことを聞かない。
その身体の支配権は、既に魔王によって握られているのだ。
「お、お待ちを!」
「……ほう? ついて来たか。なに用だ? クロウよ」
「何故彼らを処刑などと!?」
そんな闇に溶け込む四つの影に、更に一つの影が加わった。
突然出て行った魔王の動向に嫌な予感を覚え、後を追ったクロウだ。
嫌われようが蔑まれようが、それでもクロウは今このア=レジルの人間代表である。
その立場から言っても、突然説明もなく人間を殺すなどと宣言されて黙っていることなどできないのだ。
「契約違反だ」
「契約……?」
「この者達は、俺が定めた禁を破った。故に罰を与える」
先ほどまでの、法律書片手に勉強をしていた寛大な雰囲気はそこにはなかった。
今目の前にいるのは、自らが課した法を破る犯罪者を裁く機械のような冷血漢。
魔王が、そこにいた。
「……具体的な内容を伺いたい。それと、罪を犯したというのならば弁護人を立て裁判を行い刑を決めるのが法。ご存じでしょう?」
「あぁ。共に読んだな。されど、我には人の法を学んでも人の法に従う道理などない。魔王の言葉こそが唯一絶対の法である」
「グ……!」
人間は魔王に敗れた。その事実を本当の意味で実感していなかったのは、結局魔王が行動を起こしていなかったからというだけ。
やろうと思えばどんな圧政だろうが、悪法の制定だろうが好き放題やられる。それが、悪魔に侵略されるということなのだ。
「まぁ、法律と罰則の制定は今後の課題だが、今回は問題ない」
「今回は……?」
「魔王との契約を破るということがどういうことなのか……貴様ら勝利に慣れすぎた人間に教えてやろう」
犯した罪の重さに従い、刑罰も変わる。
それがどんな国でも変わらない法則であるが……魔王の支配する国においては、最も重い罪は決して変わらない。
「契約違反。これ以上の罪はない。殺人だの放火だの国家転覆だの、そんなものとは比較にならん大罪だ」
「え……」
「それを理解していない人間共に、実例を見せてやろう」
そう言って、ウルは未だに逃げることも声を上げることもなくただ立っている三人に目を向けた。
今更になり、何故逃げないのかとクロウは三人を観察する。
すると、そこにいたのは全力で逃げようと身体に力を入れ、恐怖に青ざめ、必死に逃げようとしている哀れな生け贄であった。
彼らは逃げないのではない。彼らは声を上げないのではない。何もできないのだ。
「我が契約を破ったものは、魂の支配権を奪われる」
「魂……?」
「肉体とは魂が支配するもの。魂が奪われるとは肉体を奪われるということであり、あらゆる権利を奪われるということだ」
魂の所有権を奪われれば、どんな力の持ち主であっても抵抗は不可能。
完全に、瞬きの一つに至るまで全てを支配されることになる。
「【魔王の功罪・悪魔との契約】による刑を下す――判決」
魔王の邪気が膨れ上がり、夜の闇より濃い黒い靄が立ち上る。
それは三人の生け贄に伸びていき……肉体から引き剥がされた魂を、喰らうのだ。
「その矮小な魂を献上し、屍と化せ。されどその罪、命一つで償われるほど安くはない。骸と成り果てようとも、永劫我のためにのみ尽くすが良い」
――[天の道/三の段/骸兵団創造]。
魔王との契約を破りし者は、魂を奪われ屍と化す。されどそこに安息なし。
喰われた魂が救われることなく、肉体すら永劫魔王に縛り続けられる。そこに貴賤も種族の差もない。
くれぐれも、魔王との契約を破ってはいけない。命も、その先も失いたくないのならば。
「こうなりたくないのならば……一度結んだ契約は、守らねばならんぞ?」
創造された三体の骸の戦士を跪かせた魔王は、唖然とするクロウに告げる。
魔王は差別をしない。契約の名の下、全てに公平である。その言葉の意味を、もっと噛みしめろと……。
飴をやった後鞭を忘れてはいけない。