第34話「これより我々は一歩文明を進め」
「――かはっ」
最初に感じたのは、渇きだった。続いて、腹の虫が鳴き始める。
「な、んだ……?」
魔神会のアズ・テンプレストは、自らの身体に起きている変調を理解すべく、頭をフル回転させる。
しかし、わからない。ウルと名乗るコボルトから進化したワーウルフの発動した天の道が、何をどんな理屈で引き起こしているのか、アズにはわからない。ただ、腹が空いてきたと思うだけだ。
「ぐ、……うぅ」
空腹を突然主張してくる自分の身体に何かされているのはわかるが、原理も目的も不明だった。
原理についてわからないのは、ある意味当然だ。理屈も理由も存在せず、ただ結果を引き起こす。それが天の道なのだから。
それを知識として知っているアズは、原理について考えるのを止める。似たような現象ならば命の道でも起こせることであるし、それよりもどう対処すべきかと、緊急事態を訴える腹に苛立ちながらも思考を止めず冷静になろうとした。
(相手に空腹感を与える魔道? ……そんなことをして、なんの意味がある? 何が狙いだ?)
腹が減れば、思考が鈍り感情の制御が困難となる。しかし、空腹感を与えるだけでは何の痛みにもならない。
腹が減るのは生物として当たり前のことであり、そんな状態にしても嫌がらせにしかならないだろうとアズは考えているのだ。
生まれたときから何不自由なく暮らせるだけの財力を持つ家に生まれ、個人としても魔道士としての極めて高い才能を持っていた。成功者の人生、と言われて想像するものそのものの道を歩んできたのが、アズという男。
空腹など、食事を豊かにするスパイス程度にしか思うことはない過去しか持たないが故に、この術の恐ろしさを想像することができないのだ。
「……えぇい、忌々しい! 貴様を倒せばこの不快な感覚も消えるだろうよ!」
アズは手を突き出し、魔道を放とうとする。無の道を得意とするアズがその中でも好んで使う、対生物特効魔道、首縛り。段位にして三の段を数えるそれは、ピンポイントで念力により対象の首を締め上げるというものだ。
熟練した使い手であるアズならば、複数人に纏めてかけることも可能。生物の急所である首を押さえられた哀れな敵対者は、何も出来ないままジタバタもがくことしかできないという残酷な技である。
――だが、しかし。
「無駄だな」
「な、なぜ……?」
ウルには効かなかった。いや、それ以前の問題であり、アズの魔道は発動しなかったのだ。
魔道の天才たるアズ・テンプレストが魔道を、それも得意系統の魔道を失敗することなどあり得ない。ならば、何故と混乱に陥る。
「なら、ば――」
ここに来て、アズは初めて恐怖を感じた。自分こそが絶対上位者。何があっても死ぬことは無いと信じていた強者は、ついに理解したのだ。
ここは戦場であり、いつ誰が死んでもおかしくはない危険地帯なのだということを。
「【賢者の功罪】――」
全ての生命の無意識の集合体である、統合無意識に認められた一握りの英傑。魔神会という限られた天才のみが所属することを許される組織の一員であるアズは、当然その一握りの一人だ。
もちろん、魔道を覚えただけで与えられたゴブリン達のように、極限られた限定的能力の付与ではない。正真正銘の異能、魔神会員にのみ許された功罪を保有しているのである。
しかし、統合無意識に与えられた力であるこの功罪をアズは余り好まない。この功罪は魔神会に所属することを条件として所得するものであり、十人の会員全員が有している。いわば、歴代の魔神会の功績が生み出した功罪なのだ。
そこに、アズ自身の功績は薄い。あくまでも自らの頭脳と才能で身につけた魔道を信じる。それが魔道士アズとしてのプライドだったのだ。
しかし、今はそんなことを言っている場合ではないと、アズは封じていた切り札を切った。野生の世界でプライドなどなんの価値もないことを理解し、切ろうとしたのだ。
「そん、な……」
「……満足したか?」
そんな敵対者に、ウルは聞いていて腹が立つほどに優しげな声で答えを聞かせる。この上なく慈悲深い――そんな印象を持たせる笑みを獣面に浮かべて。
「答えは呆れるほどに簡単だ。腹が減っては戦はできない――常識だな」
「な、にを……?」
「所詮は一の段。本来の性能に比べれば余りにも緩やかすぎて気がつくのが遅れたかもしれんが……肉体が生命維持のために全力になるほど飢えているのだ。余計なことに力を回す余裕があるわけがあるまい?」
そのウルの言葉を聞くと同時に、アズの身体はアズの意思を無視して森の地面に倒れ込んだ。立っていることもできない――そんな様子で。
「か、か……」
「死ぬほど喉が渇くだろう? もう喋ることも、それどころか思考する余裕すらあるまい。あるのは狂おしいほどの飢餓――食欲のみ。しかし、既にお前の身体に捕食を行えるほどの力は残されていない……何とも悲劇的な話だ」
ウルは獣の顔に浮かべた満面の笑みを、ますます深める。楽しくて楽しくて仕方が無いと、隠しきれないほどの愉悦を感じているのだ。
アズ・テンプレストという人間が、飢餓というウルの知る限りこの世でもっとも残酷な死を迎えようとしている、その事実に。
先ほどまで貴族然とした振る舞いをしていた男が、恥も外聞も無く偶々口の近くにあった雑草や土を必死で飲み込もうとしている様に。
その事実こそが、ウル・オーマの本質を語っている。彼はかつて魔王の称号を名乗った怪物であり、獣の肉体を持ち、何よりもその本来の種族は、その感情に相応しいものなのだから。
「似たようなことならば、命の道でもできる。脳を騙して空腹感を感じさせるという、幻術の一種でな。しかし、天の道はそれとは全く異なる。功罪に最も近しいそれに、理屈はないのだから――っと、もう聞いていないか」
先ほどアズも考えたことを、ウルはこれ見よがしに解説するも、既に聞き手は存在していなかった。
全身のエネルギーを全て失ってしまった、まるで何日も飲まず食わずで遭難したかのような悲惨な骨と皮だけの姿を晒して地に伏す。
ル=コア王国最高位魔道士の一人、魔神会のアズ・テンプレストの最期は、誰も想像すらしなかったものなのだった。
「……さて、久方ぶりの本当の食事だ。あの蛇以来か、功罪持ちを食らうことができるのはな」
アズ・テンプレストは餓死した。そして、その遺体は永遠に発見されることは無い。そう、永遠に――。
「ククッ……クハハッ! ファーハッハッハッ!」
魔王の狂笑が、勝ち鬨となって森に響き渡るのであった。
◆
「えっと、ウル……だよね?」
「あぁ。匂いでわかるだろ」
襲撃者は全滅した。負傷した兵の回収と治療の準備を全て整えたワーウルフのウルだったが、ようやく余裕が出来たというところでコルトが自信なさげに声をかけた。
コルト自身も見ていたこともあり、頭では理解している。しかし、それでも目の前の二メートル近い巨体を持つモンスターがつい先ほどまで自分と同じ種族であったことを受け入れられないのだ。
「……進化種、ね。まあ私ほどではないにしても、少しはマシになったじゃない」
「正直、ある程度上を見れば一回二回進化した程度ではほとんど誤差だがな。それでも魔力の貯蔵量と発動限界値が上昇したのはありがたいが」
同じく、それなりの数が死亡した自分の配下の編成を終えたアラクネがこれといって悲しみを感じさせない様子で声をかけた。
大蜘蛛は群れで動く種族であるが、個々の自我が薄いこともあり、配下の死にはドライなのである。
「……相変わらず、一言よけいね」
「貴様も進化の回数なんぞ自慢している暇があったらもっと強くなれという話だ。実際、いくら相手が俺だと言っても進化ゼロの原種に負けるようでは話にならんからな」
「……その差が更に縮まってしまったわけだしね。しっかりと鍛錬はさせてもらうわ」
「そうしとけ。……ムン」
アラクネとの会話という名の嫌味を終えたウルは、胸の前で拳を握り力を込めた。
体内の魔力をコントロールしているのだ。ただし、巨大な力を使うのではなく、その逆だが。
「……こぉぉぉ」
「な、何してんの?」
口からゆっくりと息を吐き出し、気を整える。つまりはただの深呼吸であるが、突然の行動にコルトは半歩下がった。
腰が引けた姿勢のまま巨体のワーウルフを見ていると、最後にフンッっと気合いを入れた。すると全身を進化の時と同じような魔力が包み込み、そして――
「……え?」
「ち、縮んだ?」
コボルトとは比較にならない巨体を有していたワーウルフの身体が縮小し、元のコボルト大のサイズへと変化した。
それどころか、青みがかっていた体毛も元の茶色に戻っている。一体何事なのかとコルトとアラクネは混乱を隠しきれないのだった。
「ん……問題ないな」
「……え、いやちょっと」
「何がどうなってるのよ? なんでいきなり縮んだの?」
「どうしたと言われてもな。ただの退化だぞ?」
「退化? 進化種から普通のコボルトに戻ったってこと?」
ウルは体内の力をコントロールすることで、進化とは逆の現象を起こしたのだ。ワーウルフの肉体を破棄し、再びコボルトに戻る退化現象を。
それを聞いたコルトは目を白黒させながらも、そういうものなのかと半分放心したまま納得しそうになる。だが、自らが進化種であるアラクネはそうはいかない。
「いやいや、待ちなさいよ! 退化って何よ!?」
「何って、だから進化の逆だ」
「そんなのできるわけないでしょ! いや、仮にできたとしても何でそんなことをしなければいけないの!?」
アラクネには理解できない。今までより強い魔物になるべく更なる進化を模索したことならばあるが、その逆など考えたことも無い。
進化によって得られる力の恩恵を、アラクネはよく知っている。それこそ目の前の自称コボルトのような例外を除いて、進化前の魔物では進化した魔物にはまず勝ち目は無い。魔物にとって強くなるためにもっとも重要なのが進化なのだ。
それを捨てるなど、ありえない。今は自分のボスでもある男が自ら弱体化するなど、許せるわけがない。アラクネは心からそう思っているのだが――ウルは、そんな考えを鼻で笑った。
「ハッ! 馬鹿かお前は?」
「バ――」
「少し頭を使って考えてみろ。どんな事柄であっても、最初の一回で最良の結果を得ることは簡単な話ではない。奇跡的な幸運に恵まれでもしなければ、より優れた選択は存在しているだろう?」
「そ、そりゃそうだけど……」
初めて行ったことで出した結果。それを生涯上回ることが無い――ということはまずないだろう。ビギナーズラックという言葉はあるが、しかし初回が最高の結果ということはその一回で止めない限りはまずない。
その理屈は理解できるアラクネだが、それでも納得はできない。そんな配下に、ウルは自らの考えを更に述べるのだった。
「力を得れば進化する。それが魔物の生態だが、同じ力を得たとしてもどんな進化を遂げるかは個体による。お前の配下だって、大蜘蛛から大毒蜘蛛になるものもいれば八刃蜘蛛になるものもいるだろう?」
「……そうね。同じ群れに所属する魔物は同じ進化を辿る傾向はあるけど……必ず同じということはないわね」
「群れ単位で方向性がある程度定まるのはボスが持つ進化樹形図が配下にも伝わるからだが……まあその辺の話はおいておこう。とにかく、一口に進化するとは言っても最良最高の進化を目指すに当たって退化は必須だ。そもそも状況によって欲する能力が変わることもあるし。ある程度強い魔物ならば誰でもやっているぞ?」
「……初めて聞いたわよ」
「よかったな。一つ賢くなれて」
信じがたいと小さく呟くアラクネだが、ウルはさほど気にせずに言いたいことだけ言い終える。
手に入れた力に流されるまま、勢いだけで出した結果よりも、検証を繰り返した末に導き出した結果の方が優れている。つまりはそれだけの話であり、力に溺れて無闇矢鱈に進化を繰り返すだけでは真の力を得ることはできない。
一度進化するだけでも困難であるはずなのに、平然とそんな持論を語る魔王は反論も異論も受け付けないまま話を進めていった。
「そもそも、既に一度進化を経験しているからな。魔力貯蔵量は進化していたときと変わらんし、やろうと思えば自分の意思で好きに進化できる。……ワーウルフと同レベルの姿に限るが」
「あ、そうなの? いつでもまたあの姿になれるんだ」
「魔力があればという条件付きだがな。とは言っても、日常的に無駄に進化種としての力を垂れ流さない分省エネだ。進化に必要な魔力を差し引いてもこの姿でいる方がお得だといえる」
「……培ってきた常識がどんどん崩れていくわね、ボスと一緒にいると」
「注意事項としては、退化現象は進化と異なり戻るだけだから、傷が回復したりはせん。また、一度退化してから既に経験済みの進化段階に戻ったとしても、やはり肉体の再構成による治癒現象は起こらんから注意しろ」
「……退化と進化の繰り返しで無限回復はできないのね」
「そういうことだ。さて――」
最後に弱体化に関する問題もほとんどないとウルが説明し終えたところで、アラクネが降参した。もう考えるだけ無駄だと判断したようだ。
事実、ウルの知識が自分を上回っていることは今までの生活で十分に理解できている。ならばその知識を自分の力にするべきだと、ウルの言葉をアラクネは自らの頭に刻み込むのだった。
「――今後の方針を決めようか」
「うん……これからどうしようか? ゴブリンの皆はほとんど動けなくなっちゃったし」
「さっき看たが、再起不能というほどではない。その内動けるようになる」
「それじゃあ、その間の食料調達は私たちの仕事になるかしらね?」
「そうだな。やはり探索は数に頼るのが一番いい……それに、これからお前達には重要な任務があるからな」
「任務?」
話題がこれからの活動に移ったところで、ウルはアラクネへと真剣な表情で向かい合った。
これが王としての言葉であることをアラクネも察し、蜘蛛の脚で器用に跪いているようにも見える姿勢を取る。それが礼儀作法であると教わったのだ。
「ウル・オーマの名において、アラクネのその配下に任務を命ずる」
「……何でしょう?」
「お前達には俺の領域の探索を行い、資源の回収を行ってもらう。俺自身の進化に呼応し、領域にも影響が出ているはずだ。食料はより豊富になり、特殊な効果を持つ薬草や鉱物も発見できるようになってくる……その資源を回収し、献上せよ。これより我々は一歩文明を進め、武具の面からの強化を行う!」
「――承りました」
アラクネは深く頭を下げ、自らの役割を心に刻んだ。
領域の特産品――人間の言い方で言えば、異界資源。その利用へと、魔王ウルは着の身着のままの原始生活から一歩前に進むと宣言したのだった。