第32話「進化樹形図」
「そろそろ諦めてくれない? あまり検体を傷つけたくないんだよね」
「……嘗めた口を利いてくれるな、人間」
人間の国、ル=コア王国において最高の魔道士と認められた者のみが所属を許される名誉の称号――魔神会。
その一員、アズ・テンプレストと魔王ウル・オーマの戦いは一方的な展開となっていた。
魔道士としての技量以前に、圧倒的にアズの力が上だったのだ。
アズ・テンプレストに限らず、魔神会に所属する条件は四の段の魔道を使えること。外からのエネルギー補給を行ってやっと三の段が一回使えるだけのウルとは、そもそものエネルギー量に差がありすぎる。
ここはウルの領域の中であるため、領域支配者としての補給を受けることはできる。しかし、ウル個人が保有できる魔力の器……その上限は変わらない。
いくら巨大な湖から水を汲めるとしても、水を溜める器が小さければ一度に保有できる水の量はたかが知れている。
領域支配者の力もそれと同じ。所詮コボルトでしか無いウルが限界まで魔力を溜め込んだとしても、アズの振るう力には遠く及ばない。
技量以前の問題であり、ウルが何をしようとも、アズが放つ大きな波に全てかき消されてしまうのだ。
「……人間風情が、随分と図に乗ってくれる」
「これだけ力の差があれば当然でしょ? ……さて、他の連中ももう勝負を付けてるだろうし、そろそろ遊びは終わりにしようかな」
アズは自分の勝利を確信し、トドメを刺そうと魔力を練る。
自分の部下が、弟子の勝利を疑うことももちろんない。自分達以上の力を持つ魔道士など、存在しないのだから。
「そうだ。もっと本気でやった方がいい。生け捕りであれ殺害であれ、今の俺を一瞬で倒すこともできない腕では恥かしくて表を歩けまい?」
「……よくわかんないけど、まあ、お望み通りこれで終わりにしてあげるよ」
ボロボロなのに、明らかに劣っているのに、いつ殺されてもおかしくないのに、それでもウルは不遜な態度を崩さない。
その姿に何か不吉なものを感じ取ったアズは、死なないギリギリを狙う威力を持つ魔力球を右手に作り出す。無の道に位置する、魔力の砲撃の構えだ。
「さあ、目が覚めたら楽しい実験の――」
「ウル!」
「ッ! 何っ!?」
いざトドメをと手を突き出した瞬間、切羽詰まった幼い声が森に響いた。ウルのピンチを知ったコルトが叫んだのだ。
その声を聞き、アズの動きが止まる。もちろん、援軍にコルトがやってくることを危惧したわけではない。コボルトやゴブリン……そして大蜘蛛がいくら増えたところで、アズの優位は変わらない。
驚いたのは、声が聞こえたという事実そのもの。自分の弟子が捕らえているはずのコボルトが、何故駆けつけることができるのかということだ。
「……どうやら、勝ったようだな」
「は、ははは……何がだい?」
「貴様の部下をあいつらが打ち破ったのだろうよ。そうでなければ、生きてここに顔を出すことはできまい?」
信じられない結果を、それが事実であると突きつけるようなコルトの存在。
それに動揺を露わにするアズを、ウルは嗤う。まさか、自分達が死ぬことすら想像もせずに命を懸ける野生の世界に入ってきたのかと。
その精神的優位を示すかのように、あちこちボロボロになった身体を動かし、二本の足で立つ。ここからが本番であると、言外に語るべく。
「だが……少々こちらも不手際があったようだ」
「なに……?」
「命令があったのならばともかく……勝手に王の助太刀をしようなど、百年早い。王の勝負に横やりは不要である……そんなことを教育することすら忘れていたようだ」
ウルは、手助けを求めない。何故ならば、王だから。
自らの作戦に配下の力を使うのは当然のことであれ、想定外のことで他者の力を借りることをウルは拒む。
王に敗北は無く、全ては王の意思の元に動く。それがウルの哲学なのだ。
「小僧共! 手出し不要!」
「えっ!? でも……」
「この俺の勝負に手を出そうなど、不敬である! 貴様はただそこで俺の勝利に感嘆しておれば良い!」
ウルは、走ってくるコルトを止める。そして、ただ見ていろと命じた。
「……あー、何考えてんのかわかんないけどさー……ったく。やってくれたね」
「何がだ?」
「あいつらを育てるのにどんだけの時間と手間と金がかかっているのかさぁー……わかってんの? いくら貴重な検体を得るためだって言ってもさぁー……割に合わないんだよクソ魔物が」
自らの高弟の死を、動かせない事実としてアズは受け入れた。受け入れたことで、その機嫌は急降下する。
自らの魔道の研鑽以外に興味を示さない魔神会の会員であるが、アズは比較的面倒見のいい方である。それも全ては自らの研究の支えとなる者が増えてほしいという理由に基づくのだが、アズほど弟子を丁寧に育てている魔神会員はいない。
アズは戦闘開始より、初めて怒りを持った。絶対的な実力差による余裕を纏っていた男の気に、怒りが混じる。もう、研究材料としては死体でもいいか、と妥協してしまうほどの怒りを。
ここでようやく顔を見せた殺気。それを感じ――ウルは、小さく笑った。
「ああ、そうだ。それを待っていた」
「あ? 何言ってんだ――よ!」
アズは怒りにまかせ、魔道を放つべく魔力を解放する。今までのお遊びとは格が違う力だ。
「[無の道/四の段――」
その威力は三の段を超えた。魔神会員の全力である四の段。
ただのコボルトが受ければ、即死は確実。それは、ただのコボルトではないウル・オーマであっても――変わらない。
「――魔神合砲]!」
放たれたのは、両手から出した魔力球を融合させ、放出する大魔力砲撃。
真っ直ぐ進むそれは、以前現れたハンターの一人が持っていた功罪武器に似た攻撃であるが、その威力は更に上だ。
功罪に明確に劣る魔道で同系統の功罪を超える力は、確かに大国の中で最高の位に位置するに相応しいものであった。
(特別な効果は無い、純粋な砲撃だな。しかし――)
ウルは青白く光り進む砲撃を観察し、その性質を見極める。
その威力は、コボルトはもちろん、オークや大毒蜘蛛といった、コボルトよりも遙かに頑丈な身体を持つ種族であっても一瞬で風穴を空けられる必殺の一撃である。
アズ・テンプレストが魔神会に所属を許されるきっかけとなった魔道であり、思い入れの強いとっておきだ。
「――その殺気を喰わせてくれたことに、感謝しよう」
必殺を前にして、ウルは満ち足りた表情を浮かべる。
この瞬間こそが、待ちわびた時であるのだと。
「とはいえ、流石にこれの直撃は許可出来んな」
ウルは引き出せるだけの魔力を解放し、魔神合砲と同じ無の道で壁を作り出し、盾とした。
しかし、パワー不足はどうしようもなく、ミシミシと音を立てて歪んでいく。このままでは確実に押し込まれ、ウルの身体を消し飛ばすことだろう。
「……この魔道に耐えるか。やっぱ、普通のコボルトとは違うみたいだね。たとえ死体になったとしても、きっと研究の役に立てるよ」
「中々研究熱心で、よいことだ。ならば、もう一つ興味深いものを見せてやろう。――進化とは、いかなる現象か……それを教授してやる」
「進化? 魔物の進化、かい?」
アズはウルの言葉を聞き、怒りを少し収める。不毛な怒りよりも、研究者としての興味が湧いたのだ。
進化、という現象は、魔物に限らず生物全般に起きうることだ。
あらゆる生物は歴史の中で進化し、今の時代まで生き残るべく変化し続けている。進化できなかった種族は死に絶えるのがこの世の理だ。
しかし、進化とは長い時間がかかる。一個体の生涯程度では、成長はしても進化と呼べるほどの変化は起きない。長い年月をかけ、種族として繁栄する過程でようやく進化と呼べるほどの変化が起きるのだ。
だが、魔物は通常の生物と異なり、極僅かな時間に進化を行う。もはや別の生物への変身と言っても過言ではないほどに、大きく変態するのだ。
「進化を行うには条件がある。知っているか?」
「馬鹿にしないでくれるかい? 研究者として、その程度の知識はあるさ。――力と環境、だろう?」
涼しい顔で、しかし命を削るほどに力を振り絞って魔神合砲を止めるウルに問われたアズは、当然の常識であると答えを口にする。
魔物が進化するためには、まず力がいる。事実上の肉体の再構成を引き起こすには、現時点で身体に蓄えられるエネルギーの上限一杯まで溜め込んでおくくらいはしなければならない。
そして、もう一つは環境。これは魔物以外の生物の進化にも当てはまるのだが、そもそも進化する必要が無ければ無駄にエネルギーを使うような事はしないのだ。
例え話をするならば、周囲に食べ物がなくなった、このままではやがて飢え死にすることになる。という環境が与えられたとき、そこに生きる生物はどうするだろうか?
ある生物は、誰も食べないからこそ残されている毒を持つ植物を食料とできる身体を作り出し、その環境に適応した。ある生物は、生きる環境そのものを変えようと海や地中に適応できる身体を得た。そして、ある生物は食料自体の必要量を減らすため身体を小さくすることで環境に適応した。
最後に、適応できなかった生物は死に絶えた。進化とは、すなわち過酷な環境へ適応することなのだ。
「進化とは、適応し適合することだ。まずは進化するに足るエネルギーを用意すること。そして、進化しなければならない環境に身をおくこと。それを満たせば、進化の扉を開くことができる」
「理解できる話だね。魔物の進化現象の観測は非常に困難であり、未だに解明されていない分野だ。もし、万が一にも君が今ここで進化を見せてくれるのならば、僕はむしろ推奨してやりたいくらいさ」
アズは絶対の自信を持って、あえてウルを苦しめていた魔道砲撃を解除する。ウルの言葉を、進化を肯定したのだ。
その言葉の真意は、そもそも進化などというものは自分の意思でコントロールできるものではないという常識からくる嘲り。そして、それ以上に――
「進化したところで、一回進化しただけの魔物じゃ僕の相手にはならないしね」
――仮に進化したところで、自分の勝利を疑う必要がないためだ。
進化種というと、例えばゴブリンの進化体ならば、純粋な強化体である大型小鬼や、集団を率いる能力に長ける小鬼の指揮者。コボルトならば、より強靭な灰色の毛皮が特徴の灰色犬頭人や嗅覚により特化した犬頭人の偵察者。大蜘蛛ならば大毒蜘蛛や八刃蜘蛛がそれに当たる。
そして、アズの実力ならばその程度の魔物、十匹纏めて相手にしても敗北はまずあり得ない。それどころか、進化種の先にいる第二進化体の人頭蜘蛛ですら、アズならば余裕を持って討伐できる。
その力こそが、魔神会の一員足る証なのだ。
「不肖の弟子のお礼もしなきゃならないし――できるもんなら、やってみなよ。何をどうしようが勝ち目はない……その絶望と共に、死ぬまで実験動物として飼ってやるからさ」
「少しは頭が冷えたのか? 美味な殺気にはさほど変化が無いが」
「当然でしょ。よく考えたら、僕を怒らせたんだ……簡単に死ねるなんて思わないでほしいね。やってみたい実験はいくらでもあるし、全ての実験が終わったとしても試したい薬なんて五万とある。魔道の使える被検体なんて早々手に入らないし、これは期待で夢が膨らむってもんだよ」
「怒っていようがいまいが、貴様がやりたいことは変わらんのだろう? 人間とはそういう生き物だ」
「違わないけど、コボルト風情が人間を語るなよ」
お互いがお互いを見下し合い、挑発する。
ウルは魔王としてのプライドから、アズは魔神会としてのプライドと、弟子を殺された怒りから。
「……にしても、さっきの話だったらさ、キミは既に進化に必要なエネルギーは持っているわけだろう?」
「あぁ。ようやくうちの雑魚共が少しは使える雑魚になったんでな。食料調達も少しは任せられるようになってきたところだし、たった今中々上質なエサが手に入ったところだ」
「上質な……? よくわからないけど、だったらさぁ……もうとっくに進化しているべきなんじゃないのかい? そこまでボロボロにされるくらい、過酷な環境に身を置かされているわけだしさ。キミに、進化するだけの器があればの話だけど」
アズはクツクツと笑い、ウルの矛盾を指摘する。
今のウルの身体は、あちこちに傷を作り満身創痍だ。過酷な環境に身を置くこと、つまり追い詰められることが進化の条件であるとするならば、とっくにその条件を満たしていると言うべきだろう。
にもかかわらず、未だにウルはか弱いコボルトのまま。それすなわち、ウルには進化に必要なエネルギーが足りていないか、あるいは進化種になるだけの才能が無い……と考える他ない。
アズは、客観的事実からそう結論したのである。
「なに、その心配は不要だ」
「へぇ?」
「いかんせん、身体がいくら追い詰められても、進化を行うための情報を、進化樹形図を持つ魂の方が中々認識できなくてな」
「進化樹形図……?」
「未だに本来の力と今の力のギャップに慣れん。身体が壊されていても――」
――お前程度では、危機として中々認識できんのだよ。
小さく、小さくウルはそう口にした。
「だが、ようやく励起させられる準備が整った。俺に残された最後の功罪二つ……ここ数日の補給のおかげで、ようやくその内の一つも使えるようになった。これでエネルギー問題は解決。第一進化程度では少々物足りないかも知れないが、せめて最上の結果を得るとしよう」
ウルは頭の中に、大きな図形をイメージする。
一つの点から始まり、そこから無数に枝分かれする樹形図。何を求めてどんな進化を辿るのか、その全てが記録されている、魂に刻まれた進化の道しるべ――進化樹形図。
群れの王である魔物が自分と配下の魂の情報を記録し、また与える進化の蓄積データだ。
「――見るが良い、貴様の憎悪と殺意によって発動させた【魔王の功罪・悪魔の馳走】によって精製された魔力と、我が魂に刻まれた進化の歴史を」
魔王の功罪・悪魔の馳走。
魔王ウル・オーマが所有している功罪であり、肉体を失ってもなお失うことがなかった最後の二つの内の一つ。
人間からの憎悪や怒り、悲しみや絶望の念を一心に受けた魔王であるというウル・オーマの名に由来し、その効果は敵対者の負の感情を自らのエネルギーとして吸収するというものである。
功罪に開眼した時点で魔の勢力を統一していたため、残念ながら魔物の感情には反応しないという欠点があるが、人間の悪感情ならばこの上ない美味な食料とすることを可能にする。
人を呪わば穴二つ。ならば魔王を呪えばどうなるのか。その答えがこの功罪なのだ。
「進化樹形図励起。進化情報を確認。選択――」
「な、なんだ? 何が起きているんだ?」
ウルの身体から、突如膨大な魔力が噴き出した。
その量は、明らかにコボルトの限界を超えている。ウルの体内に蓄えられたエネルギーが、一度に全てあふれ出そうとしているのだ。
「――進化、狼頭人」
その力を受け入れるために、ウルの身体は変化する。
貧弱な犬の身体から、屈強な狼の身体へと。人間の子供程度の大きさしか無かった身体から、成人男性であるアズと比較してもさほど差が無い大きさへと。
青い毛皮に身を包み、鋭い牙と爪を持つ、コボルト種の特異進化種、ワーウルフへと。
「さて……始めようか」
今までに受けた傷すらも全て治癒し、別の生命体へと生まれ変わる進化現象。
宣言通りにそれを成した魔王ウル・オーマは、捕食者の笑みを浮かべた。
「これより蹂躙を開始する。恐怖し、嘆き怒れ。それが我が糧となるのだ」
――魔王とは、人類の天敵である。