第3話「涎が止まらん」
「クハハ……! 久しぶりだな。こうして肉体を持つのは……!」
突然の悲劇。人間の戦士達によるコボルトの蹂躙。
コボルト達の一方的な悲劇で終わるかと思われたその惨劇は、思わぬ展開を迎えていた。
見るだけでわかる邪悪な儀式の果てに、死体となった大勢のコボルト達が融合することで新たなコボルトが出現したのだ。
コボルトとは思えない強大な覇気と邪気を纏ったその存在は、肉体を持ったことへの喜びを露わにするのだった。
「あの、アナタは……? 皆は、どうなって……?」
「……オマエがコト、というガキか?」
「え? あ、いや。僕はコルトです」
「そうか。まあどちらでもよい。契約に従いオマエの生命を俺が保障しよう。喜ぶが良い。この魔王――ウル・オーマの庇護下に入れることをな」
「魔王?」
突然出現した謎のコボルト。それを前に、コボルトの少年コルトは驚き慌てふためくしかなかった。
謎のコボルトは、ウル・オーマと名乗ったコボルトはそんなコルトのことなど気にも止めずに自分の用件だけ淡々と話す。かなり傍若無人な性格らしい。
しかし、それにしても弱小種族コボルトの身分で魔王を名乗るとは……と、コルトは状況も忘れてウルを見つめた。
そんなコルトに、ウルは少し気分を損ねる。万物を平伏させた魔王である自分に何の疑いの目を向けているのかと。
「いかにも、魔王ウル・オーマだが?」
「いや知らないけど……コボルトが魔王なの?」
「はっ! 何を言っているか。俺は悪竜――あ?」
気分が高揚して周りが見えていなかったウルは、そこで気がついた。
目の前のコボルトの少年コルトがやけに大きいことを――否、自分の目線がとにかく低いことを。
「……コボルト?」
「コボルト以外の何なの?」
ウルは唖然として自分の身体を改めて確認する。目も耳も鼻も無い魂だけの存在であった時に比べればましだが、屈強で無敵だったはずの本来の肉体とは比較にもならない弱々しい姿であった。
加えて、よくよく確認してみれば、全身を流れるエネルギー量がとにかく少ない。全盛期と比較すれば、この状態では死体と間違われても文句は言えない貧弱さである。
魔王ウル・オーマ……太古の時代を支配した伝説の魔王。しかし、現在の姿は……弱々しい一匹のコボルトでしかないのだった。
「コボルト……よりによって何故コボルトなのだ……」
その残酷すぎる現実に打ちひしがれるウルと、突然落ち込んだ謎の同族を前に混乱するコルト。
そんな二人だったが、混乱していたのはコルトだけではなかった。
「な、何だよあいつはぁ……」
「あ、あれはコボルトなのか……? 魔力値はいくつだ!」
突如発生した怪奇現象。何の問題も無く狩ることができ、容易く小遣い稼ぎができる獲物として認識される弱小魔物の狩猟。
シルツ森林に狩猟に訪れた、討魔者と呼ばれる魔物討伐を専門に行う三人組の人間たちは、異常事態を前に混乱していたのだった。
魔物を討伐し、魔石や魔物の素材を得ることで日々の糧を得るハンターにとって、魔物の巣窟であるシルツ森林は稼ぎ場所だ。
彼ら三人の実力は、中堅よりもやや下と言ったところだ。人間達の評価基準では魔物の力を危険度という単位で示しており、ハンターの能力を討伐可能な魔物の力量で表している。
彼ら三人の個々の適正危険度は20、チームとしての適正危険度は30と言ったところだ。一般的に適正危険度マイナス10以下までが安全に狩れる獲物であるとされ、コボルトの平均危険度は8、集団でも10程度だろう。
つまり、彼ら三人は教科書通りの選択をしており、この狩りに危険などないはずだった。
だと言うのに、目の前に現れたコボルトの姿をした何かが彼らの本能を刺激する。
命の危機――それを、本能が察していた。
だからこそ、弓使いの男エイと大盾使いの男ビーイは、相手のマナを測定することができる魔道士のシィナに問いかける。
目の前に現れたコボルトは、一体どれほどの力を有しているのかと。
「……出た。マナセンサーによると……推定マナ380。暫定危険度18」
「あ? たったそれだけか?」
「……間違いない。普通のコボルトの数倍くらいのマナ」
マナセンサーの数値を確認するシィナに、思わず二人の男は脱力してしまう。
あんな派手な登場をしておいて、あまりの弱さに力が抜けたのだ。
「……まあ、油断は禁物だ。もしかしたら固有の異能――功罪持ちかもしれんしな」
「そりゃねぇーだろ。功罪持ちで確認されている魔力平均っていやあ……えっと」
「……最低でも三千マナ。それが定説」
「そうそう三千。あいつはその十分の一以下だぜ?」
先ほどまでの緊張を解いて、ハンター達は余裕を取り戻した。油断はするなと口にしているビーイですらも、言葉とは裏腹に気の緩みがにじみ出ている。
マナという単位で示される魔力と呼ばれるエネルギーは、全ての力の源だ。万物に宿るそれは、そのまま戦闘能力を測る基準になる。
人間で言えば、一般人の平均魔力値は約100マナほど。ハンターとして成長を遂げている彼ら三人は500マナは堅い。特に魔道士として魔力の扱いに長けているシィナの魔力は800マナを超えており、どう考えても数字上の強さで負けるはずがないのだ。
初心者から中堅どころに近づいた頃にありがちな、常識に囚われた状況判断。確かにマナの総量は大きな指針となるが、それだけが全てではない。
その当たり前を、玄人からすればまだまだ足りない経験を積んだだけで忘れてしまった、基本を忘れがちになる中級者。まさしくそれそのものの反応をしながら、エイは弓に矢をつがえる。脅かしてくれた弱小モンスターを、軽く殺してやろうと考えて。
「んじゃ、死んどけや」
「ひっ!」
エイは躊躇することなく矢を放つ。
突然落ち込んだと思ったら、諦めたかのようにため息を吐いて悠然と構えているコボルトへと。先ほどから笑いを誘うほどにコボルトの小さな身体で自分たちを見下すように構えている、愚かなコボルトへと。
飛んでくる矢にコルトが小さな悲鳴を上げるが、ウルは余裕綽々のまま行動を起こした。
「フン」
(何がしたいんだ?)
ウルは腕を前に突き出すが、特に何も起こらない。
何をしたかったのかはわからないが、何もできるはずもないコボルトの分際で何をやっているのかと、その生意気な顔を矢が貫く光景を夢想しながらエイは笑った。
ウルが諦めたようにため息を吐き、手を変えるその瞬間までは。
「[無の道/一の段/障壁]」
エイの笑みは、すぐさま驚愕に取って代わられることとなった。
何もない空間に矢が弾かれたのだ。何か目に見えない壁のような物があるかのように。
「あり得ない!」
矢が弾かれた光景を見て、普段無口でありゆったりとした口調で喋るシィナが驚愕のあまり叫んだ。
そんな仲間の様子を見て、焦った様子でビーイが問いかける。
「どうした? 何が起きた! 何かの異能なのか!?」
「違う! アレは、アレは異能じゃなくて――」
「功罪ではない、魔道だ……。思った以上に弱っているな。コボルトだからか? いや、そもそも魔力、というよりは魂の消耗が想定以上に深刻なのか……」
ビーイの問いの答えは、シィナからではなく敵から返ってきた。
魔道。それは魔力を利用した特殊な現象を起こす技術の総称であり、これを操れる者を魔道士と呼ぶ。
魔道士は人間の中でも希有な存在であり、魔道を使えるというレベルまで到達する者は才能のある極一部に限られるほどだ。
当然、生まれ持った肉体と本能で戦う魔物が使えるようなものではない。確かな知識と長い修練の末に習得できる技術の結晶であり、優れた魔道士が一人いれば戦士十人を上回る活躍ができるとされているほどに重要な戦力でもあるのだ。
魔道士としては平均以下の能力しか持たないシィナですら、ハンター達からチーム入りを挙って願われるほどなのだから。
肉体能力に優れる魔物が、魔道を操ることができる。となれば、魔力量だけで判断した暫定危険度などもはや指針にすらならない。
もはや三人に余裕など欠片もできる余地は無い。目の前にいる魔物の戦力を大きく上方修正し、即座に構えをとるべきだ。
それでも――自分達は狩る側の存在であると信じてきた未熟な中級者達は、自分の中の常識と現実との差異に動揺し、その動きは緩慢なのだった。
「……腹が空いた」
「は……?」
「こっちは今にも死にそうなほど枯渇しているのだ。……もはや一秒も耐えられん」
「な、何を――」
「食わせてもらうぞ。全ての力を失おうとも、この魂と積み重ねた経験だけはなくならん」
ウルがそう呟くと、その身体から黒い靄が吹き出した。
靄は見る見ると増加し、形を変えていく。黒い靄は、ウルから延びる触手のような形態を取ったのだ。
「な、何だあれ……」
「ま、まさか、今度こそメリト――」
通常のコボルトでは絶対にありえない現象に、三人は驚きのあまり硬直してしまう。
その隙を、ウルは決して見逃さない。
「そのような大層なものではない。ソレは今、失われているのでな。これはただの……特技のようなものだ。便宜上、[悪食]と呼んでいるがね」
軽い調子で、ウルは黒い触手を伸ばす。三人のハンターに向けて、一直線に。
「しゃ、しゃらくせえ!」
エイは飛んでくる触手に、反射的に矢を放つ。通常の一矢ではなく、魔力を込めることで強化した一撃だ。
魔力量では勝っている。ならば、アレが何であろうとも自分の矢で砕けるはずだと信じながら。
「無駄だ」
「そんな――」
だが、黒い触手――悪食はウルの念に従い、一瞬靄に戻ることで矢を素通りしてしまう。そのまますぐに触手の形態に戻った悪食は、当然無傷だ。
渾身の一矢が明後日の方向に飛んでいくのを唖然と眺めるエイの前に、覚悟を決めた表情でビーイが出る。大枚はたいて手に入れた大盾に、持ちうる魔力のありったけを込めて防御の構えを取ったのだ。
「て、[鉄壁布陣]!」
大盾から魔力が放出され、壁のように広がる。
この大盾は、特別な職人だけが行える魔化、と呼ばれる物体に魔道の力を宿す技術を施された一品である。魔力を注ぐことで大盾に刻まれた魔道を魔道士でなくとも発動させることができ、先ほどウルが使ったのと同系統のエネルギーの壁を作り出すことができるのだ。
コレは一度使うとビーイが保有する魔力の大半を使い果たしてしまう奥の手であり、本来であればギリギリまで温存しておくべき物だ。
だが、ビーイはこれを使うべきだと判断した。黒い触手に触れられてはいけない――本能がそう叫んでいるのだ。
「面白いものを持っているな。先ほど見せてやった力壁と同じ物を作る魔化道具か? 余り質は良くないようだが……」
ウルは大盾の力を見て面白そうに笑った。その力に何の脅威も感じてはいないらしい。
悪食の触手は器用に曲がり、盾の壁を避けて進む。悪食は見た目よりも遙かに自由に動かせるようだ。
「――[地の道/二の段/雷撃の矛]!」
だが、その迂回のためにかかった時間がシィナの魔道発動のために役立った。
魔道の構築を素早く完成させたシィナは、電撃を悪食にぶつける。シィナが使える魔道の中でもとっておきの、奥の手と言ってよいものだ。
「魔道か。……まあ、前菜にはなるな」
ウルは放たれた雷撃の矛に、迷わず悪食をぶつける。
魔道士であるシィナの魔道と、下級モンスター相当の魔力しか持たないウルの技が正面からぶつかれば結果は見るまでもない。圧倒的な力の差にウルが押し負けるのは間違いないはずだった。
今度は逃げることもいなすこともなく向かってくる黒い触手に、ついにネタ切れかとシィナは勝利を確信し――その思いは、あっさりと消え去ることとなった。
「……は?」
「え? どうなったの?」
シィナは唖然として硬直する。自分の人生の全てを否定されたかのような気分になって。
貧しい産まれのシィナにとって、魔道の才能があったことは誇りであり自信の源だ。
シィナは元々貧民街の孤児であり、裕福という言葉とはもっとも遠い場所で幼少時代を過ごした。何一つとして希望のない、泥水をすすり、ドブネズミで腹を満たした少女時代。盗みも強盗も何でもやった。倫理観など欠片も持たずに、生きることだけを考える、人間であったかも疑わしいような過去だ。
そんなシィナに転機が訪れたのは、一定年齢に達した子供に身分を問わず国が行っている魔道士適性検査に引っ掛かったことだった。
魔道士は、一人いるかいないか――それだけで国力に影響があるとされるほどに有用とされている。故に、普段はゴミ同然の扱いを受けるスラムの住民にも機会は均等に与えられ、魔道士としての適性を認められたのならば魔道士学校への入学許可が与えられるのだ。
魔道士であるというだけで、人間の世界では誰しもに一目置かれることになる。それはシィナに少しずつ芽生えていった自尊心を満たしてくれる甘い蜜のようなものであり、自らの才能に依存することになっていった。
コレさえあれば、自分は負け犬じゃない。誰からも必要とされるエリートであり、魔物を沢山殺せる英雄にだってなれるのだと。
その魔道は、自分自身の土台である力は――敵とぶつかった瞬間に消え去った。力で押し負けたのではない。戦う前に消えてしまったのだ。
怯えながらも戦いを見ていた子供コボルトの呟きと内心で全く同じ悲鳴を上げながら、何をしたのかと黒い触手の主であるウルを見つめるのだった。
「……もう少し、練習した方がいいな。日常生活に応用するのならばともかく、戦場で使うには構成が荒すぎる」
ウルはそれだけしか言わなかった。ただ、オマエの魔道の技術が未熟だからだけだとしか。
その言葉の意味は、魔道士にとってこれ以上無い屈辱であった。魔道とは魔力を操ることで多種多様な効果を持たせる技術。それは術者に様々な恩恵を与えてくれるが、一つ明確な弱点がある。複雑な理論を必要とするため、術そのものを乱されると無効化される点だ。
つまり、魔道の心得がある者に対して魔道をぶつける場合、技量で圧倒的に劣ると魔道の構成を分解されてしまうのだ。これは力の差ではなく技術の差の問題であり、魔力量で勝っていてもあまり意味はない。
だが、魔道の無力化など普通は不可能。魔道を無効化する魔道を使うのならばともかく、技術だけでやるなど、達人と呼ばれるほどの魔道士が見習いのひよっこの魔道を相手にした場合漸く解体できる――そんなレベルの話なのだ。
すなわち、全ての自信の源である魔道を、シィナは正面から否定されたことになる。オマエの力量は、見習いレベルでしかないのだと。
そして証明されたことになる。目の前にいる謎のコボルトの魔道士としての技量は、達人と呼ばれてもおかしくないほどのレベルに達しているのだと。
「あ……」
「――ククッ!」
曲がりなりにも魔道を身につけた者として、それを理解したシィナは絶望を露わにする。
それを見たウルは――笑った。愉快に邪悪に、コボルトであることを忘れてしまうほどにその獣の顔を歪めるのだった。
「これはこれは……質は期待していなかったが、こんなことでそんな表情を浮かべてくれるとは」
「ひ――ヒィ!?」
「よいぞ……あぁ……涎が止まらん……!」
「え、ギィヤァァァッ!」
シィナが隠しきれない恐怖と見せたことで、何かが壊れたようにウルの口からはダラダラと涎が流れ出した。この上なく愉快そうに、何より邪悪に嗤うその顔は、もはやコボルトのそれではない。
その狂気ともいえる食欲に気をとられた隙に、最大の抵抗手段であった魔道の壁を乗り越えた黒い触手――悪食が三人の下に届いた。
悪食が触れたと認識した瞬間――三人は悲鳴を上げた。まるで、先ほどまで楽しそうに殺していたコボルト達の再現をしているかのように。
「く、食われ、食われて――」
最初に襲ってきたのは、皮膚を裂く痛み。次に、肉を抉られる激痛。
そう、彼らは食われているのだ。黒い触手――悪食の正体は、牙を有する口。獲物を食すための巨大な口なのだ。
生きたまま食われる恐怖と苦しみを、三人は文字通り体感する。その痛みから、恐怖から逃れるべく発狂したかのように悪食へと殴りかかるが、全ては無意味。
「や、ヤメ! ヤメテ!」
「助けてくれ! か、金なら払う!」
「痛い! 嫌! なんで、なんで私がこんな目に――」
狩られる側に立った瞬間、彼らは哀れな悲鳴を上げた。
まるで、自分達が哀れな被害者であるかのように。先ほどまで狩る側として殺しを楽しんでいたことなどすっかり忘れて、理不尽に遭遇した犠牲者であると誰かに訴えかける。
「何で? そんなもの決まっているだろう?」
獲物の悲鳴をソース代わりに堪能しながら、ウル・オーマはただ一つの真実を語って聞かせるべく口を開く。
そう、この結末は――
「俺が空腹だからだ。腹が減ったら食う。それ以上の理由があるか?」
悪食に触れた場所が悉く噛みつかれ、食らわれる――それを理解したときには、既に三人に何かができるほど身体は残っていなかった。
悪食は、恐ろしい速さで三人の肉体を食い荒らしてしまったのだ。
絶対悪。人間が決して存在を許してはならない、悪魔の理論を最後に、三人の意識は消えていったのだった。
「……ふぅ。ごちそうさま、名も知らぬ人間共よ」
彼らにも物語はあったのだろう。刻んできた歴史が、夢が、未来があったのだろう。
それら全てが極上のスパイスであると言わんばかりに、三人の人間を食い殺した魔物――ウルは笑う。数千年ぶりの食事を得て、満足そうに笑った。
「あ、あの……」
「……コルト、だったか?」
突然現れた危険と、それを廃した謎のコボルト。
コルトは状況を理解できないまま、当面の危機は去ったのだろうと信じてこの場を支配するコボルトへと話しかける。
すると――
「――ム」
「あ、え? ちょっ!?」
つい先ほどまで勝者として仁王立ちしていたウルが、倒れてしまった。
何がどうなっているのかとコルトは目を白黒させながらも駆け寄ると、ウルは一言だけ呟いたのだった。
「魔力、尽きた……」
こうして、ウル・オーマを名乗るコボルトの最初の戦いは終わった。
次にこの魔王の名を持つコボルトが動き出すとき。それはきっと、食した獲物の消化が済むまではお預けであろう……。
と、言うわけで、魔王様のスタートラインは超弱体化+国土なし+国民無し+食料無し+頼れる味方0+お荷物ありですね。
やっぱ王を名乗るなら英雄よりも更に悲惨にしないと釣り合いが取れない。