第26話「余裕などあるものか」
「私のシモベを、食らった……だからどうした!」
アラクネは叫んだ。根源に撃ち込まれた恐怖を、振り払うかのように。
「冷たい言葉ではないか。自分の配下が殺されたのだぞ?」
「殺される方が悪い。当然のことだろうが!」
食われたのは、配下の八刃蜘蛛が弱かったからだ。だから、強い自分は食われることはない。
「――王が怯えるなよ」
「ッ!?」
必死に心を立て直すアラクネを、魔王は嘲笑う。
恐怖の象徴。それが魔王。魔王ウルを前に、怯える心を隠すことなど、不可能である。
「――黙れ!」
アラクネは、糸を使った空中移動を駆使する。
木と木の間を移動する振り子の糸を軸に、更に足場とすべく無数の糸を放出。ウルからの攻撃を遮断し、自分のフィールドを作る作戦だ。
「俺に盾は無意味だ。貴様と俺では格が違いすぎる」
しかし、ウルはその上をいく。足場として形成される蜘蛛の巣は、虚空から繰り出される魔道の一撃に対して何ら効果を上げない。
魔道の使い手は、その気になれば一歩も動くこと無く戦うことができるのだ。相手の行動を制限する大蜘蛛にとって、相性はかなり悪い。
もっとも、厳密に言えばアラクネの方が格上すぎて直接破ることができないから搦め手を使っていると言えなくもないのだが、そこは尊大な態度とハッタリで押し切るのみだ。
「――刺突糸!」
「二度、同じ技を見せるか」
アラクネは、再び自らが持つ技の中で、最強の威力を持つ技を繰り出した。硬糸を束ねた、大木を貫く槍の如き糸を。
しかし、この技は真っ直ぐにしか飛ばない。それ故に避けることは難しくないのが最大の弱点であり、それは既にウルに看破されている。いくら頭上から放ったとはいえ、通用するはずもない。
「――斬撃の巣!」
「うん? 少しは考えたか」
――そんなことは、アラクネ本人が誰よりもわかっている。
故に、アラクネはここに来て進化を遂げる。放った瞬間は一点集中の刺突糸だが、途中でばらけることで、文字通り蜘蛛の巣状に斬撃糸を広げる新たな技を編み出したのだ。
恐怖から逃れるために生み出した新技。生き残るために編み出したそれは、どこまでも力強い。
「アナタの脆弱な肉体を切り裂くのに、そこまでの威力はいらないわよね。そんなこと、どうして気がつかなかったのかしら」
「頭も落ち着いたか。……それでいい」
一見、恐怖に駆られ、また格下と思っていた相手にいいようにされた怒りによる不用意な攻撃――のように見えた。
しかし、アラクネの頭は既に冷えていた。冷静に、冷淡に敵を分析し、繰り出すべき最良の攻撃を選んでいたのだ。
回避不能の広範囲斬撃。鋭く研ぎ澄まされた硬糸による斬撃の巣は、その糸で斬れる肉体の持ち主にとっては必殺そのものの攻撃だ。
「貴様の配下を食らい、少々力が余り気味だ。俺の引き立て役として、最低限の力を示した褒美をくれてやろう」
対するウルは、頭上から降り注ぐ死の糸を前にしても、その不遜な態度を崩さない。
八刃蜘蛛を食らったことで回復した魔力を自らの経絡に流し込み、一つの魔道を完成させる。
今のウルが操ることのできる、限界値。人の世界において、これを扱える者は生涯栄光を約束されるという、一流の領域――三の段の魔道を発動させるのだ。
「これが恐怖だ。その身で味わえ――[命の道/三の段/攻城指糸]!」
「な――蜘蛛糸、だと?」
ウルは、両手の指先から一本ずつ、合計十本の糸を発射した。
その一本一本に込められた力は、アラクネの糸を優に凌駕する。三の段の魔道が一流の領域とされるのは伊達では無い。
「お前らも覚えておけ。命の道とは、生命操作の魔道。植物操作や肉体強化だけが全てではない。こうして、種族由来の能力を一時的に発動することも可能だ」
ウルはコルト達へ、顔は動かさずに告げた。
魔道の可能性は、まだまだ深いのだと。
「とはいえ、所詮魔道は模造品。本物には劣るのだが……アラクネよ。貴様風情ならば、何の問題も無い」
「ガ……ア……」
ウルの放った十本の切り裂く糸は、アラクネの斬撃の巣を切り裂き、そのままアラクネの身体を貫いた。
糸の一本一本は髪の毛よりも細いため、それだけで致命傷になるわけではない。だが、全身を貫かれた痛みは本物であり、何よりも精神を貫いていた。
自らが誇りとし、もっとも頼りにする武器を敵に使われ、敗れる。それでもなお戦意を保つことができるものは、早々いない。
(さて、仕上げだ)
ウルは止まらない。串刺しにされたことで完全に動きを止めたアラクネに、素早く飛びついた。
「さあ、メインディッシュだ」
「や、やめ――ギャアァァァァッ!?」
躊躇すること無く、ウルはアラクネの上半身――人間部分の腕に噛みつき、食いちぎる。
そのまま、むしり取った腕をむしゃむしゃと咀嚼し、アラクネに見せつける。生きながら食われる――これほどの恐怖は他に無い。
「止めて! 止めてくれ!」
「二度言わすな。俺の都合は全てに優先する。……それとも、俺が食事を中断する価値のある何かを提供できるのか?」
アラクネは、蜘蛛の女王としての尊厳を投げ捨てて懇願する。殺されたくない、食われたくないと。
だが、暴君たるウルは止まらない。実に愉快そうにむしり取った腕を胃袋に収めていく。
コボルトとは思えない、邪悪な形相。悪魔染みたその光景を見て、アラクネは確信した。このままでは、絶対に死ぬと。
「す――」
「す?」
「全て、全てを! 私の全てを、命以外の全てを差し出す! だから――」
「……ふむ。悪くない取引だ。ならば、その言葉が偽りではないか、証明してもらおうか」
ここで、ウルは望んだ言葉を引き出した。無条件での降伏。それだけがこの局面を乗り切れる、唯一の道だったのだ。
しかし、ウルは満足しない。まだアラクネの眼は死んでいない。恐怖に満ちた瞳の奥に、機会さえあれば、可能性さえあればいつでも牙を剥いてやる――そんな光を、まだ宿しているのだから。
「先ほどの、蜘蛛脚。中々珍味であった。一本寄越せ」
「え……そ、それじゃあ、配下のものを……」
「違う。貴様の脚を寄越せ。自らの手で脚を千切り、俺に献上せよ。それを以て、この俺に牙を剥いた罪を許し、我が傘下に加わることを許可してやる」
逆らえば、全身まるごと食い尽くす。言葉にせずとも理解させるその眼光に、アラクネは思考の余裕を完全に奪われた。
食われたくないから、従う。そう言っているのに、その条件が食われろと言うのだ。そう簡単に頷ける条件ではない。
しかし、逆らう選択肢は無い。逆らえば、あるいはアラクネの腕を食らい終えれば、コボルトの姿をした暴君は容赦なくアラクネの命そのものを捕食するのは目に見えているのだから。
故に、この選択は必然。ただ、その過程で、アラクネという一匹の魔物の心が完全にへし折れる。ただ、それだけのことだ。
「う……うぅ……」
「蜘蛛脚くらい、その内生えてくるだろうが。俺の配下になるのならば、腕も含めて完全に戻してやる。そう心配するな」
魔物の生命力ならば、死にさえしなければどんな怪我でもその内完治する。
進化によって別種としか言いようがない変貌を遂げるのが当たり前の生命体に、常識は通用しないのだ。
それでも、痛いものは痛い。だからこそ、それは絶対的な服従の呪いとなるのである。
「ク――アアッ!」
……ブツリと音を立てたアラクネの覚悟を以て、ここに戦いは終結した。ウル率いる魔王軍と、アラクネ率いる大蜘蛛の巣。その戦いは、魔王軍が大蜘蛛を吸収する形で決着したのだった。
◆
「さて、アラクネ。まずは貴様に最初の命令だ」
「……何なりと」
「巣を作れ。俺の支配地……まあ、今はここも支配地だが、湖地方のことだ。そこより南側、人間の領域に面する地域を貴様らの巣とし、防衛拠点を作るのだ」
アラクネの降伏に伴い、土地の支配権はウルに移った。領域支配者の戦いにおいて、勝敗とはそのまま土地の所有権の奪い合いである。
新たに蜘蛛の領域を手にしたウルは、間髪を入れずにアラクネに指令を出す。人間の侵攻に備えよと。
アラクネ自身はボロボロであるが、配下の大蜘蛛はまだまだ体力を残している。ならば巣を作ること自体に問題は無いだろう。
「ああ、貴様は残れ。その傷の治療を施す」
「……ありがとうございます」
アラクネは素早く配下に指示を出し、ウルの命令をこなすように手配する。
その後で、ウルは優しく声をかける。傷を治してやると、まるで善意の第三者かのように。
「自分でやっといてよく言うよね。最後のはいらなかったんじゃないの?」
アラクネに対する全ての処理を終えた後、一人離れたウルにコルトが近づいてきた。
「甘いことを言うな、小僧。配下には慈悲を、敵には制裁を。これが俺の……というよりも、支配者ならば曲げてはならん王道だ」
「……そういうもんなのかな?」
支配の基本は飴と鞭。自ら徹底的に痛めつけた後に、優しさという毒で心を溶かす。
逆らえば死の恐怖を、従えば安寧と安らぎを。誰でも解る簡単な人心掌握術だ。
そんなウルの手腕に、根が善良であるコルトは苦言を呈する。当然、ウルは取り合わないが。
「何よりも、今は余裕が無い」
「余裕?」
「お前も覚えておけ。情けや優しさという奴は、持つものが持たざるものへ与える施しだ。他者へ食い物を与えられるのは、食い物を持っているものだけ……当たり前の話だ」
「で、でも、余裕ならもうあるんじゃないの? 領域支配者を二人も倒して……しかも一人は手下にしちゃったんだし、これからは――」
コルトは、敵を作ることに慣れていない。敵を作らず、小さくなって生きてきたからだ。
そのため、四方八方に喧嘩を売って生きるウルのやり方は心臓に悪い。地盤も十分に固まったことだし、ここらで落ち着いて欲しいと思っていた。
その考えは、蜂蜜よりも甘いのだが。
「余裕などあるものか」
「え?」
「未だに、この森から感じる三つの巨大な気配……それを打ち倒す算段はついておらん」
「三つ?」
巨大な気配。つまり強い存在ということだが、コルトが知るのは、自分達が暮らしていた地区を支配していた森の暴れ者ことオーガのみ。残り二つの心当たりは無かった。
無論、ウルにも詳細な情報は無い。ただの勘であるが、だからこそ正確なセンサーである。数多の修羅場を越えてきたウルの危機感知能力は、特に強者を探る点において非常に優れている。
「気配を読むのは生き残る上で必須技能だ。まぁ、訓練は必要だが」
「ふーん……」
「索敵が専門ではない上に、この身体では俺本来の身体とは勝手が違ってな。あまり広範囲には広げられんが、それでも森一つくらいなら何とかカバーできる。それによると、並レベルの領域支配者よりも大きな力を持った魔物が三体いる。そのどれにも、現状では対抗できん」
「え……アラクネの協力が、あっても?」
「ああ。そもそも詳細がわからんので断言はできんが、三体の勢力をそれぞれ10とすれば、俺たちは蜘蛛共を含めても精々が6と言ったところだ。はっきり言って話にならん」
ウルの宣告に、コルトは息を呑む。戦って生きるとは、それほど過酷な世界なのかと。
無論、実際に戦うのならば勝ち目が無いとは言えない。今回の、大蜘蛛の巣を攻めたときと同様、奇襲により短期決戦を挑めば勝利できる可能性はある。
だが、お互いの戦力を比較し、遙かに劣ると解っている段階で『やってみなければわからない』などと強がる状況そのものが指導者としては敗北だ。戦略的な敗北、という奴である。
アラクネは、同じ領域支配者としてある程度対等であった。だが、ウルが単独で勝てない確率の方が高い暴力を持つボスが率いる群れとの戦いになれば、その勝利は奇跡と呼ぶのが相応しいものとなってしまい、ウルとしては可能な限り避けたい話である。
ウルは奇跡に恵まれ、不可能を可能にする勇者ではない。勝利して当然、弱者をその圧倒的な力で蹂躙する魔王なのだから。
「……それに、今はそっちよりも深刻な問題があるだろうが」
「え?」
「人間共だ。大蜘蛛共に突貫工事で防衛拠点を作らせるとしても、間に合う保証は無い。以前の襲撃から既に五日も経過している……そろそろ、何かアクションがあってもおかしくはないからな」
ウルは、警戒する。人間という種族を。
魔を従える王、ウルから見れば、魔物とは本来敵ではない。現時点でどんな力を持っていたとしても、見る影も無いほどに弱体化した自分を超えていたとしても、いずれは自分に跪くのが決定している存在だ。
だが、人間は敵だ。同族以外と対等に生きることのできない精神性を持つその種族は――ウルにとって、決して相容れることの無い害獣なのである……。
主人公が女を食いました、まる