第215話「この世で最も苦痛に満ちた死」
「とっとと起きろ、木っ端悪魔」
穴蔵第五層――最深部で、魔王ウル・オーマの声が閉鎖空間に響いた。
一般公開されている四階層の更に下。そこは、魔王のプライベートルームであり、他とは比べものにならない強度を持たせた空間――勇者、聖人と呼ばれるものすら拘束することを想定した特別製の空間である。
その目的上、作りはとてもシンプルだ。なにせ、地下深くに大きな空間があるだけ。他にあるものといえば四階層へ上がるための階段があるだけの『何もない世界』なのだから。
「グ……ここ、は……」
現在、この第五層に客はいない。作成後に捕らえた聖人も勇者もおらず、ウルの領域内で新しく発生したということもないのだから当然だ。
そんな空間に、初めての客人が招かれた。
その名は悪魔ヨグニ。数日前の戦いにて、最終的に魔王ウルに鹵獲された功罪武器である。
「最低限実体化できる程度の力は戻っているだろう?」
「キサマは……まさか……」
ヨグニは新たな持ち主である魔王ウルの意志により、強制的に実体化させられていた。
聖人から魔力を無許可で持ち出していた時と異なり、完全に主導権はウルに握られ実体化ギリギリの魔力しか与えられてはいない状態だ。
「久しぶり……というべきか? 生憎、俺はほとんど覚えていないのだが」
「魔王……ウル・オーマ!」
悪魔ヨグニは震える身体でその忌々しい名を口にした。いや、口はないのだが。
「俺に頭を食われてもなおよく生き延びたものだ。いや、一冊の本に成り果てたのを生き延びたというべきかはわからんが」
「キサマ……キサマに食われて、僕は力を失ったんだ! 本来ならば、無限に再生できた! 我ら悪魔は――」
「負の感情から生まれる悪魔は、その感情がこの世にある限り再生する。お前は確か……他者に寄生し貪ろうとする低俗なクズ共の念から生まれた木っ端悪魔だったよな? 自称・冒涜の悪魔殿?」
「グググ……それがどうした!! 己は何の労力を費やすことなく、他者に寄生して甘い蜜を吸う……そんな感情は誰にだってある! だからこそ、僕は強大で偉大な悪魔だったんだ! それを、キサマのせいで……!」
「目障りだったのでな。本来あるべき進化を歪め、お前に都合のいい傀儡になるように弄るようなものを放置していては俺の望む世界にはなりえないのだ」
悪魔ヨグニは他者へ『寄生する心』から発生した存在である。他人を自分に都合よく利用したい……そんな感情から生まれた悪魔であるヨグニは強力な存在であった。
なにせ、人間にせよ亜人にせよ、そんな考えは誰の心の中にもほんの少しはあるものだ。
自分でやるのは面倒だから誰か代わりにやってほしい、自分がやらなくても誰かがやってくれるだろう。
そんな考えを一度たりとも抱いたことの無い者などまずいないのだから。
そして、悪感情から生まれた悪魔はその感情が世界にどれだけ蔓延っているかで力を増大させる。また、深刻なダメージを負ったとしても、その感情を糧に再生するのだ。
故に悪魔は皆強力であり、厄介なのだ。単純に強い上に倒しても復活する。封印という手段を用いても、所詮は先送りにしかならないというのだから。
「ふざけるな! 無限の命を持つこの僕を、こんな姿になるまで落ちぶれさせておいて……!」
そんな悪魔達が最も恐れた存在とは、悪魔を狩る聖職者でもなければその頂点に立つ神々でもない。
魔王ウル・オーマ。万物を喰らう厄災であり、善悪問わず全ての森羅万象にとっての天敵である。
「本来の俺に食われたものは例外なく再生しない。当然だ。俺に食われたのだからな」
「頭を食われ、全身のエネルギーを食われ、僕は存在を維持することすらできなくなった……その果てがこの頭すらない痩せ細った姿だ!」
「普通、いくら悪魔でも俺に頭を食われればそのまま消滅するのだがな。それを持ち主を媒介に復活を目論む功罪武器として存続するとは、他者を利用することに特化した寄生虫の生命力を侮った俺の失態と言えば間違いではないかもしれんな? 別に罪悪感など全くないし、責任を取るつもりもないが」
魔王ウル・オーマの食欲は常識を超越する。魔王に食われたものは如何なる再生術を駆使しても戻ることはなく、この世からもあの世からも完全に失われるのだ。
その力――食欲の根幹である『胃袋』を失っている今のウルからは失われた能力だが、古代の世界ではそれを誰もが恐れた。無敵の守りでも、不老不死の秘薬でも、無数の分裂でも、あらゆる例外を認めずに『食われたら消える』というその在り方は、悪魔を代表とする高い不死性を持つ存在こそ恐れられたのであった。
「お前の寄生虫根性は、実のところ中々評価しているんだぞ? あの聖人も、お前が強制的に所有者として設定し、操作していたんだろう?」
「だからなんだ!」
ヨグニは聖人ルーカスを操作していた。もちろん意識の全てを操っていたということではなく、1%未満……ほんの僅かに思考をずらす、という程度であるが。
「お前が恐れていたのは自身の完全封印。本来なら次の所有者も即座に支配してしまうつもりだったんだろうが、無駄に暴れて国一つ落とした結果次に拾ったのが妙に強い聖人だったせいでさぞ焦ったことだろうな」
「グ……」
「所詮は物に墜ちた程度の存在……持ち主を選べないのは不幸なことだ。今のお前では到底支配できない持ち主は、更に完全な封印を施そうとしていた……それは焦るのも道理だ」
自らの意識を本に移すことで生きながらえていたヨグニにとって、封印こそが最も恐れる事態であった。
破壊、であれば功罪武器の特性を利用すれば転生再生が可能。しかし、封印となれば下手をすれば永久に日の目を見ることが叶わなくなる。
だが、並みの人間ならば手にした瞬間意識を乗っ取ることができるヨグニであっても、相手が七聖人ではそうはいかない。だからこそ、ほんの僅かな意識誘導により自分の能力が広く広まっている地域――サーバ村に向かい、留まることを選ぶように選択させたのだ。
そこで、骸蛭を寄生させることで支配を強固なものにするために。
「あの聖人はお前を完全に封印したつもりだったようだが、詰めが甘かったな。まぁ、お前のような明確な意志を持った存在が潜んでいるとは思ってもいなかったのだろうが」
「フン……何が言いたい?」
「なに、大したことではない。ただただ労りの言葉を贈ってやりたいだけだとも。無駄な努力、本当にご苦労だったな」
そんなヨグニの涙ぐましい工作も、運悪く魔王ウル・オーマが訪れたことで破綻してしまった。
魔道祖の魔眼によって骸蛭の存在を把握したウルは、すぐにこの騒動がかつて殺したはずの木っ端悪魔の能力が関係していることを悟った。
同時に、ルーカスが施していた気配遮断の聖具もウルの眼の前には無力。本体がどこにいるのかも、それほど時間をかけずに把握していたのだ。
今のヨグニの力がコルトと比べて『丁度いい』と判断したウルは、対応を丸投げして周辺の骸蛭分布状況を調べる方に注力した。ヨグニの功罪の最も厄介なところは、術者を封印しようが半殺しにしようが、一度作成した骸蛭は消えないというところなのだ。
ヨグニの功罪、冒涜の功罪は生物を改造する能力であり、その媒介となる骸蛭は独立した生命体として作られる。術者が解除すれば霧散する命の道で創造される使い魔とは一線を画す存在なのである。
故に、この状況を利用するためにも、ウルは現段階でどこまで蛭の分布が広まっているのかを知らねばならなかったのである。
「お前の蛭は俺が有効活用してやるよ。だから、安心して今度こそ消えろ」
「消えろ……? ハハッ! キサマだってわかっているだろう? 不滅の悪魔さえ消し去る力を持っていたかつてのお前ならばともかく、今のお前では功罪武器となった僕を消す方法などない! それとも、封印でもしてみるか?」
ヨグニはウルの言葉に挑発的に言い返した。
ヨグニもまた、眼の前にいるウル・オーマがかつての自分を滅ぼしたときとは比べものにならないほど弱体化していることは見抜いていた。
あの恐怖の象徴であった『捕食の力』も大分弱っており、転生再生する功罪武器の完全破壊はできないと確信しているのだ。
それが、魔王と呼ばれた災厄をどれほど甘く見積もった判断なのかも理解せずに。
「安心しろ。そのために、お前をここに連れてきたのだ」
「は……?」
「この第五層の正式名称は、飢餓の間。領域の魔力を利用し、脱出不可能な鉄壁の密閉空間を用意しただけの部屋だ。特徴は、何もないことのみだ」
飢餓の間。それが、穴蔵第五層の名称である。
ウルの領域の遥か地下。分厚い土の壁を更に異界資源の金属で覆った空間であり、その全てを領域からの魔力で強化して作られている。
その強度は極めて強固。作成者であるウル自身ですら、強化の仕掛けを解く、という手順を踏まずに強行突破することは不可能と断言できる仕上がりになっている。当然、勇者や聖人の大魔力すら跳ね返す設計だ。
そんな空間に囚人を入れ、それ以上何もしない。誰にもみられることなく、誰にも知られることなく、何を足掻くことすらできず、ただ飢えて死ぬのを待つ世界。
それが、第五階層飢餓の間である。
「俺が知る最も残酷な死に方を提供する部屋であると同時に、いろいろ応用が利く俺のプライベートルームというところか」
「下らないね……悪魔に、まして功罪武器になっている今の僕にそんなことは全く意味が無いよ」
「ククク……いや? ハッキリ言えば、ここに放置しているだけでお前は干からびて死ぬぞ?」
「なに……?」
「自分でわからないのか? 外界から、一切エネルギーが入ってこないことにな」
そう言われて、ヨグニは自分の中に一切の回復が行われていないことを自覚した。
どれだけ落ちぶれていても、ヨグニは悪魔。ならば、外界から悪感情のエネルギーが少なからず入ってくるはずなのに、それが全くないのだ。
「ここに入った以上……もはや何も得ることはない。この世で最も苦痛に満ちた死が約束されるのだ」
魔王は嗤う。自らが考える、最も残酷な部屋に響き渡る声で。
魔王ウル・オーマの根幹にも関わる、この飢餓の間で――