第210話「お選びください」
「それだけは断る」
七聖人ルーカスは、一切の迷いもなく即答した。
吟遊詩人アラシャより願われた『エルメス教の信仰を捨てろ』という言葉を、刹那の迷いもなく拒否したのだ。
「ンンー……まあそういうとは思っていましたが、少し考えてみてくれません?」
「考える余地など無い。ここで殺されることになろうとも、俺は俺の道を捨てることだけはしない」
ルーカスははっきりと否定する。今まで自分が歩んできた道を捨てる、という選択肢だけはありえないと。
たとえ今を生き延びるための虚言だとしても、口にしてはならない言霊というものがある。どれだけ言い訳を並べ立てようとも、一度否定し壊してしまったものは二度と元には戻らない。それっぽく作り直すことはできても、一度折れた剣は全く同じように元に戻ることは決してないことを職人としてルーカスはよく知っているのだ。
「だ、そうだぞ? 確かに神共の下僕であることを止めるというのならば俺が手を止める理由になるかもしれんが、それは叶わないそうだ」
そんなルーカスの言葉を聞いて、魔王ウルは楽しそうにアラシャに語りかけた。
今、ウルの興味は聖人よりもアラシャに向いている。アラシャの態度、言葉はウルとしても想定外であり、だからこそ興味深いと一時的に矛を収めているのだ。
「えぇえぇ。そう言うと思っていましたとも。ですが……何も、私は今までの全てを捨てろ、と言っているわけではありませんよ?」
「なに?」
全てを捨てろとは言っていない、というアラシャだが、ルーカスからすれば訳のわからない話だ。
アトラ信徒としての道こそがルーカスにとっての全て。信仰を捨てるとは、ルーカスにとって全てを捨てることと同義なのだ。
だが――
「私は今までいろいろな人を見てきました。その人生、信条、主義……色々です。その経験から言わせていただきますと、たった一つのものを捨てただけで空っぽになってしまうような空虚な人間などそうはいません」
「ム……」
「確かに、世の中には『自分にはこれしかない』と何かに打ち込むという人は大勢います。ですが、そんな一途な人ほどその過程で多くのものを得ているものです。その打ち込んでいたものを失ったからもう死にます、なんて追い詰められることは中々ないものですよ。大抵の場合は、失ってもまた何か新しい道を見つけて前に進むものです。それまでに得た財産を動力にしてね」
「……確かに、そういう者もいるだろう。だが、それは今の道を安易に捨てていいという理由にはならない」
人が生きる上で、道というものは幾つも存在しているものだ。
その中で自分がこれと選んだ一本以外見えないという者も多くいるが、目指したところまで辿り着く前に道が途切れてしまうというのはよくある話である。
そんなとき、人はまた別の道を見つけて歩き出す。その力があるからこその人間であり、どんな道でも歩く過程で何かしら他の道で活かせるものを見つけているものである。
そんなことを説いたアラシャだが、だからといってルーカスが道を自ら閉ざす理由にはならないのだ。
命、という唯一無二のものを失う程度では譲れないほどに、聖人が歩んできた道とは強固で頑固なものなのだから。
「なるほどなるほど。では更に尋ねますが……ルーカス様が歩んできた道って、そもそもなんですか?」
「ヌ……だから、それはエルメス教の――」
「そんな大雑把で大勢が所属している話ではなく、もっとルーカス様個人が進んでいる道ですよ。貴方はいったい、何故エルメス教に……それも、アトラ信徒の道を選んだのですか?」
唐突な問いかけに、ルーカスは初めて言葉に詰まった。
自分は、いったい何故今の道を選んだのか。そんなこと、もう何十年も考えたことすら無かったのだから。
「……ねえ? 僕ら何聞かされているんだろ?」
「何かのカウンセリングを見ているような気分ですな。とはいえ、陛下が止めないのだから黙って聞いていましょう」
後ろで聞いていたコルト達が『これ何の時間?』と小声で話しているが、大将であるウルは二人の問答を興味深そうに聞いているばかりであった。
「……俺は教国出身だ。エルメス教に籍を置いたのは、生まれたときからの運命と言うほかないだろう」
「教国は一人の例外もなくエルメス信者ですもんねー……。では、それを考えても仕方が無いとして、何故アトラ信徒になったのですか?」
歌うようにルーカスの心を暴いていくアラシャ。
その整った口から紡がれる言葉は、何故か素直に考えてみようと思わせる力があるのだった。
戦闘中はまるでいないもののように気配を消していたのに、一度語り出せば魔王すら差し置いて全ての注目を集める。彼女が一流であることの証明であった。
もちろん、妙に機嫌のいい魔王がその立ち居振る舞いを認めているから、という前提であるが。
「……そうだな。何故アトラ信徒の……鍛冶神の信徒としての道を選んだかといえば、やはりものづくりが好きだったから、だろうな。幼少の頃は、些細な細工を作って両親に褒めてもらうのが嬉しかったものだ」
「なるほど……では、究極的には職人としての道こそがルーカス様の原点であり、信仰は無関係なのではないですか?」
「なに?」
ルーカスの起源は『ものづくりが好き』という感情ならば、そこに信仰は関係ない。
そう説いたアラシャに、ルーカスはあっけにとられた顔になるのだった。
「いや……アトラ神への信仰は鍛冶そのもので……」
「この世の鍛冶職人が全員アトラ神へ祈りを捧げているわけではないですよ? ルーカス様は信仰を無くせば職人でもなくなるのですか?」
「ムムム……」
職人として腕を磨くことが神への祈りになる。それがアトラ信徒の教えだ。
しかし、別に祈りを捧げないと職人として働けないという意味ではない。祈りを具現化する聖句彫りなどには影響が出るかもしれないが、職人としての基礎までは揺らがないはずだ。
しかし――
「ダメだ。確かに、信仰の道にいない職人は大勢いるだろう。俺自身、信仰なくして鎚を握れないというわけではない。だが、それでも今まで祈り敬ってきた神への敬意を簡単に捨てることなどできるはずがない! たとえ殺されてもな!」
決して揺らがないからこその七聖人。信者の中でも最上位と認められ、七つの神器の守り手として選ばれた意志の強さは伊達ではないのだ。
アトラ信徒が腕を磨くのはそれが神への祈りになるから。神への祈りの強さが鍛冶の腕に繋がり、神の恩恵によってより職人として高みに上がれる。職人としての第一歩を刻んだその時から、ずっとそう説かれてきたのである。
神への信仰など持たない者からすれば、何故職人として一途に腕を磨いてきた功績を神に横取りされねばならないのかとしか思えない話だが……その意志を見せられたアラシャは、即座に手を変えることにした。
「では、もう一つ。先ほど『作品を両親に褒めてもらうのが嬉しかった』とのことですが、今はもう喜びはないのですか?」
「喜び、だと?」
「ええ。自分の作品が人の手に渡り感謝される。それに対しての喜びはないのですか?」
「いや、それはもちろんあるが……」
自分の作品が客の助けになり、感謝を受ける。職人としての原初の喜びというべきものは、当然ルーカスにもある。
今までも、ルーカスが手塩にかけた作品を受け取り笑顔になった客は大勢おり、それらはルーカス自身の誇りだ。
まさに、神が関わらない――神に功績を相乗りされることのない、ルーカスだけの功績だ。
「今死ねば、もう貴方の作品が作られることはなくなります。そうなれば、貴方の作品で救われる人もいなくなる。貴方個人の自己満足でこれから先救われる人を見捨てるのは正しいことなのですか?」
「ググ……」
アラシャは攻め方を変え、個人としての欲求と良心、使命感に訴えかける方向に切り替えた。
所詮は数日の短い付き合いだが、それでもはっきりわかる。聖人ルーカスとは根が真面目でどこまでも善良。自分の損得よりも他者の救済を重視する、お人好しの領域に足を踏み入れている男だ。
そんな男に有効なのは、自分のプライドや矜持のために他者を見捨てるのかと罪悪感を煽ることである。
これがもし『信仰は全てに優先する』というゴリゴリの狂信者タイプであったのならば効果は薄いことだろうが、自分の腕前を磨くことだけを重視するアトラ信徒の在り方もあり、ルーカスは七聖人でありながら狂信者とは言えない理知的なタイプだからこそのクリティカルヒットであった。
「お選びください。ここで信仰を貫いて道を閉ざすのか、信仰を捨てて一人の鍛冶職人として道を究め続けるか」
気がつけば、アラシャの言葉は『信仰を守れることは道半ばで諦めること、捨てることは道を続けること』と、最初の前提を逆転させていた。死んでも自分の道は曲げないと言っていたルーカスの決意をそのままに、信仰を捨てることが道を曲げないことであるとすり替えたのだ。
冷静な状態ならばその詐術に気がついたかもしれないが、今のルーカスは死にかけの極限状態。更に歌うようにたたみ掛けられる言葉の数々の妙な説得力により、判断力を大きく低下させてしまっていたため……
「……仕方があるまい。そこまで言われては、俺一人の意地で今までの道をドブに捨てることはできん」
見事、ルーカスの鋼の意思を曲げてみせたのであった。
とはいえ、仮にこの話術に対してツッコミを入れられたとしても、アラシャは決して騙したわけではないと一切恥じることなく断言するだろう。
なにせ、信仰心に興味も関心もない人間からすれば、むしろ神と宗教にピンハネされていた分の対価を本人に還元できるようにした善行であるとすら堂々と胸を張って答えられることなのだから。
「さて……長らくお待たせしました、魔王陛下」
「いやいや。中々面白い余興だった。だが……」
「はい。これより、ルーカス様を見逃していただく対価を提示いたします」
アラシャは優雅にウルに対して一礼した。
今までの説得は、あくまでもルーカスがエルメス教から離れることを了承させたというだけであり、ウルには何も関係がない。
エルメス教を捨てるというのならば執拗に追い掛ける必要はないと言えるが、だからといって見逃す理由にもならないのだから。
そのことは十畳承知しているアラシャは、素早く自分から条件を提示するのだった。
「ルーカス様がエルメス教国から出奔する証として、神器を差し出す、ということで如何でしょう?」
「ほほう? 確かに、それは中々の条件だな」
七聖人の神器――ウルの功罪。突き詰めればウルが七聖人を狙う理由は自らの功罪の回収であるため、それを差し出すというのは有効な手札であるといえた。
もちろん、殺して奪い取ってしまえばいいという話でもあるため、決定打ともならないが。
しかし、それ以上に何故そこまで自分の目的を見切っているのかと、ウルはますますアラシャへの関心を強くした。
「神器をだと? それは……」
だが、その前に持ち主であるルーカスから待ったがかかった。
確かに、未来のためエルメス教から抜けることを承諾はしたが、それでも決して蔑ろにしたいとか敵対したいとか、そんな感情を抱いているわけではない。
既に自分に七聖人の資格は無いと思っているが、ならば神器は祖国へと返還するのが筋であると思っているのだ。
「別にいいではありませんか。というよりも、もう所有権はなくなると思いますし」
「なに――ッ!?」
アラシャが軽くそう言うと、ルーカスの指輪が――神の指輪が輝きだした。
神の封印が、ルーカスを人柱として不適格と判断し、逃げだそうとしているのだ。
「と、いうことで……魔王陛下。神器、ご提供させていただきます」
「フン――なるほどな。中々に強かだ」
信仰を捨てれば神器の所有権を失う。それを知っていてこの提案をしたとなれば、なるほど見事だとウルは素直にアラシャを讃えた。
神器を手放すと宣言した後で、神器が勝手に逃げ出す。となれば、自動的に……元の持ち主であったルーカスの意志すら無視して条件を守ったということになる。対価を差し出し契約を持ちかけられた以上、ウルにとってそれは絶対になるのだ。
ウルからすればそこで『自分の手に入っていないから無効』などというには神器の逃亡を許す必要があり、そうまでするほどルーカスの命を奪うことに価値を見いだしてはいない。
判断の時間を与えず相手に是と言うしかない状況を作り出す。なかなかの詐欺師であると評価するほかないウルであった。
「よかろう――とはいえ、一つだけ付き合ってもらうことになる。構わないな?」
「はい、お望みのままに」
ウルとしては、まあいいかとアラシャの提案を呑んだ。
一つだけ何かをやらせる、という白紙の小切手を呑ませた上の話であるが。
「戻れ――【飢餓の翼】」
逃げようとする指輪をつかみ取り、そのままウルは神器を神砕いたのだった。