第178話「お前に見せてやる」
――未来が、視えない。
それが、聖人アストラムの今の心境、その全てであった。
迫り来る邪悪な軍勢。その全ての未来を視ようとする神器は完全に許容限界を突破し、未来は常人と同様に不確定で曖昧な物へと変化していた。
(こいつらを無視して魔王だけを――いやダメだ! 無視することはできない!!)
アストラムは数の暴力に翻弄されるばかりであった。
元々一対一を専門とする戦闘スタイルということもあり、数多くの敵を同時に相手にするのは不向きである。ならば雑魚を無視して本丸を攻めたいところなのだが、聖人の衣を打ち破る攻撃力を持たない有象無象とはいえ、掴まれれば動きが止まるし血肉をまき散らすゾンビに触れられたくはない。
少なくとも、魔王ウル・オーマという聖人であるアストラムへと攻撃を通すことが可能な戦力が一人いる現状では無視していい戦力ではなかった。なにせ、その魔王は隙を見せれば即殺すと言わんばかりに殺気を滾らせているのだから。
それに――今は邪悪な魔王の眷属とはいえ、元を正せば聖人が守るべき善良な民。不死者と化した以上浄化してあげるのがせめてもの情けと割り切っているとはいえ、本来守るべき民を自らの拳で砕き続けるのは、聖人アストラムの心をすり減らす行為なのであった。
「ククク……別に無視しても構わんぞ? 一対一でも大して問題はない」
挑発する魔王。事実そのとおりであり、先ほどまでは一対一の状態でも互角の戦いだったのだ。
仮に不死者の軍勢を無視して突撃したとしても、先ほどよりも状況が悪くなった今同じことをしても不利になるだけである。
理性がそう訴えてきているからこそ、アストラムはとにかく不死者を一体一体駆除していくしかない。魔王に隙を見せないことを最優先とし、もはや濃霧の中に消えていった未来を必死に視ようとしながら。
(まぁ、こいつらは戦場で数を減らすことなどないのだがな)
隙を晒すのをのんびりと待っているウルは、無駄な努力を続けるアストラムを冷ややかに観察する。
そもそも、この不死者達は悪意の影の能力で作られたものであり、材料である死体を破壊されたところで本体である影は外に飛び出し、また素材を探して新しい不死者を作るだけだ。死体が一秒おきに増える戦場においては極めて厄介な能力と言えるだろう。
その死体の生産すらも、聖人の下へやってくる途中で見つけた生命体を適当に殺しながら進むことで自発的に増やすことも可能。不特定多数の生命体が存在するフィールドでこの不死者軍団作成能力を発動されたが最後、大元である魔王を殺すか中の悪意の影そのものを破壊できるタイプの攻撃以外は無意味なのである。
「グ……この! 纏わり付くな!!」
度々対処が追いつかなくなり死者達に組み付かれるも、その度に聖人の衣の出力を上げて消し飛ばすことを繰り返すアストラム。
しかし、いくら莫大な魔力を持つ聖人とはいえ、相手は多量の魔力を土地から組み上げ続ける領域支配者。持久戦を挑むのは流石に分が悪い案件だ。
徐々に追い詰められていき、やがて――
「――しまっ」
「削られたな」
最大の守りである聖人の衣の出力が落ちてしまった。ただの不死者を振り払うこともできなくなるほど弱ったその障壁に、もはや脅威はない。最も信頼していた未来の映像も、何も視えない。
今この瞬間、聖人アストラムはただの人間へと墜とされていた。
「さて――あるべき場所へと返すがよい」
詰み。その状況までの誘導を完了したウルは、容赦なく高速移動と共にアストラムの首を掴み地面に叩きつけた。
常人ならばそれだけで首がへし折れ絶命するところだが、そこは聖人の意地。地面にクレーターを作るほどの衝撃を受けながらも、何とか命だけは保っていた。
しかし、状況は彼にとって最悪の一途を辿った。後一手で絶命する。その状況になったとき、彼は考えてしまったのだ。
神器が役に立たないから自分がこんな目に遭っているのだと、神を否定するようなことを。
その瞬間、信用できない金庫番に用はないと、彼の首飾りは自らの意思を持ったかのように首回りの鎖を弾き飛ばし、逃げるように宙へと浮かぶのであった。
「え――」
「やはり離れたな。まぁ、これだけの悪意の影に囲まれれば当然だが」
七聖人の神器は、聖人が神を疑う意思を持った瞬間離脱する。その仕組みは既にわかっていたことだ。
そこで、ウルは不死者が破壊されると共に、その中にある悪意の影を少しずつアストラムに注いでいたのである。本来ならば即座に異変に気がつき抵抗もされただろうが、ほんの僅か毒を注ぐかのように注がれ続けたそれに、不死者の大軍を孤軍奮闘しなければならなくなった状態で気がつくのは流石に無理だったのである。
(悪意の影の本命は、あくまでも憑依能力なんでなぁ)
不死者の軍勢と戦い、勝利したと思った瞬間魂を穢される。それが、裏技の完成形なのである。
「は、離せ……」
「その申し出は却下だ。これは元々俺の物なんでな」
逃げようとした首飾りを鷲づかみにするウルに、アストラムは首を押さえられたまま神器を返せと訴える。
もちろん、それを魔王が飲むことはない。飲むべきは、この神器なのだから。
「戻れ――魔道祖の魔眼」
「あ……」
神砕く魔王ウル。それと同時に、魔王の全身に領域支配者のものとは異なる、直視することすら悍ましく感じる魔力が流れるのであった。
「あ……あぁ……」
アストラムはそれを見て震える。首を掴まれている、等という命の危機など忘れるほどの恐怖を覚えたのだ。
「――あぁ、久しぶりだな……こうして世界を見るのは」
メキメキと悍ましい音を立て、ウルの額に変化が起きた。本来そこにあるはずの無い器官――眼球が額に現われたのだ。
それは決して神聖さなど感じさせることはない、悍ましさしか感じさせることのない光景。目を開くために割れた額から流れる血が涙のようにも見える、新たな異形の姿であった。
「ククク……これでお前に用はないな」
「お前は、いったい、何なんだ……?」
神の慈悲であり加護。それが聖人が信じる神器の正体だ。
その実態はただの魔王の功罪を封じるための封印であり、七聖人とは金庫番に過ぎないのだが、そんなことは彼らにとって想像すらしたことのないことである。
だから、アストラムには理解できない。何故神器を魔物に食われるなどということが起きるのか。何故神器を食らった魔物の額に新たな眼などという能力が芽生えるのかが。
「お前も悪意の影で……いや、今となってはさほど旨みはないか」
ウルはアストラムもアリアスと同様、悪意の影で自分側に寝返らせようかとも思ったが、しかしあまり効果的ではないと自らその案を却下した。
単純に、ここまでの大事となれば、七聖人の敗北という事実はもはや隠しようがないからだ。これだけ派手に、見せびらかすように暴れた以上、各国が放っているだろう諜報部隊がこの戦場をくまなく観察しているのは間違いない。
(何よりも、奴らがここに至るまで介入してこないことが気がかりだが……まぁ、今はいいとしよう)
ウルは自分の中に浮かぶ疑問を一度棚上げにし、今やるべき事に集中する。
敵へスパイとして送り込むこともできない以上、生前の意識を残しておく理由は薄い。アリアスですら、ここで死亡したことにして正式に魔王国所属とし、もうエルメス教国へ戻すつもりはないのだから。
ならば――
「――決めたぞ。せっかくだ。この眼の力をお前に見せてやる」
「な……」
「魔道祖の魔眼は魔道の開祖としての功罪であり、その能力は『万物の解析』だ。元々魔道とは功罪発動の際の魔力を解析し、それを再現することで功罪を持たない弱者にも異能を与えることができないかという思想の下に開発した物……その過程で功罪の観察と研究をする内に得たものでな?」
魔王の額に開眼した魔道祖の魔眼は、魔道的な現象を含むあらゆる情報を瞬時に解析する異能である。
千里眼、透視眼の能力も兼ね備えるこれさえあれば、どんな障害物があっても無視し、視界に入ったあらゆるものの構成情報を瞬時に読み取れる。当然、功罪の詳細ですら持ち主本人以上に読み取ることも可能となる。
もちろん、どこまで行っても眼は眼であり、瞳に移した情報を活用できるのかは持ち主次第なのだが……魔王ウル・オーマはこの眼を起点として現在の情報の全てを把握、そこから未来を推測するという形で擬似的な未来視をも可能にしていたのである。
神器神の首飾りは魔王が自力でやって来た解析と推察を外付け機能でフォローすることにより未来視の能力を聖人へと与えてきたというわけだ。
なお、魔王ウル本人ならば現在に残されたどんな小さな痕跡をも見逃さない眼を駆使することで擬似的な過去視も可能にしており、この辺りが自分の眼よりも神器は劣っていると判断した所以である。
しかし、どちらにしてもそういった使い方は本来応用編だ。魔道祖の魔眼の真骨頂は、現在の全てを見通すことにあるのだから。
「悪意の影はただ流し込むだけでも不死者を作成できるが……やはり、真に優れたものを作るには細部に拘らなくてはいかん」
魔道祖の魔眼は、単体では非常に高性能の解析器ということになる。もちろん裏技の類いもあるが、本質はそれだ。
その真価は、他の功罪や魔道と組み合わせてこそ発揮される。例えば、素材に合わせた最適な不死者の作り方を瞬時に見抜く、などだ。
そう――魔道祖の魔眼に睨まれたあらゆる生命体は、その弱点の全てを瞬時に見抜かれ、暴かれる。魔道祖の魔眼を開眼した魔王の前に立つということは、鎧も服もない無防備な状態で棒立ちになるのに等しいのである。
「ぐあ……」
「あまり暴れるな。今から、不死者化する際に有益な部分以外を全て破壊して殺す」
これより先、一見拷問にしか見えない一方的な蹂躙が続くことになる。
しかしそれは攻撃ではなく、戦闘ですら無い。彫刻職人が一心不乱に素材から不要な部分を削るように、料理人が食材を叩いて柔らかくするように、大工が家に適合するように木材を加工するように、ウルもまた自分の作品として最適になるよう材料を加工しているだけなのだ。
「あ、ああ……あ……」
神器を失った聖人に、もはや魔王に抵抗する力など残されているはずがない。二つ目の功罪を取り戻し力が戻っている魔王など、もはや七聖人とは言え単独で挑むのは分が悪い相手なのだから。
「今でもそれなりに優秀な配下はいるが……やはり、一体くらいは使い捨てにしてもさほど問題はない強力な配下が欲しいと思っていたのだ。それを思えば、ここで眼と影を取り戻したのは都合が良い……」
直に、うめき声すら上げることもできなくなった死体を前に、ウルは楽しそうに笑いながら作業を進めた。
今もなお、魔王軍と王都防衛軍の戦いが続く街中で、一人死体の破壊と再生を繰り返す化け物。その姿を見れば、誰であってもその邪悪さを嫌悪すると共に認めることだろう。
魔王。その称号が、ハッタリでも格好付けでもないことが……。
「さて――後は悪意の影を最大出力で注げば完成だ。名はどうするかな? アストラムという名のままでも構わんのだが――」
破壊と再生による改造を施された七聖人の死体に、無数の邪気が入り込んでいく。
直後、功罪の能力により事前に最適化されていた強靱な素体からは見る見るうちに肉を失い、骨だけの姿へと変貌していくのであった。
「……よし、お前の名はアストラムリッチでいいだろう。かつて殺した相手を同族へと変貌させ使役したという、元は高名な僧侶が自ら不死者へと転生して生まれたというかなり名の知れた不死者の名から一部拝借した。お前もそのくらいに名を轟かせるがいい」
骨の髄まで漆黒に染まった不死者――命名、アストラムリッチは新たな主に忠誠を誓うべく膝を折り、拝命を受けた。
魔王に背いた……それ自体は罪ではない。しかし、神を信仰するという大罪を犯したものに死後の安息など許されない。それを証明するかのように、かつて最も神への忠誠を誓っていた人間だったモノは人を冒涜する怪物として魔王の後ろに黙して控えるのであった……。