第12話「歓待の準備をしておけ」
カサカサ、ゴソゴソと森の奥から物音がしていた。
(……支配領域を広げようとしない……何かあったのは確実ね)
魔物の領域であるシルツ森林の一角に、人間達から恐れられる有名な魔物の巣がある。
その場所を見たのならば、すぐに引き返せ。森に入るハンター達から強く警戒されるその場所は、白い処刑場と呼称される危険地帯なのだ。
その地に住まうのは、大蜘蛛と呼ばれる蟲の魔物。全長1メートルを超える巨大な蜘蛛の怪物であり、肉を好んで食らう危険生物だ。
大蜘蛛は、正面から戦う分には強い魔物ではない。しかし、その習性は危険極まりないものだ。大蜘蛛は自らの体内で生成する強靱な蜘蛛糸を張り巡らし、獲物の動きを封じた上で集団で捕食する。つまり生来の罠使いであり、視界が悪い森の中で彼らの巣に入り込めば熟練のハンターであろうともその命を落とすことになるのだ。
ハンター達の評価基準である危険度で言えば、単体ならば平地での戦闘で15、巣の中で戦うのならば50にもなると言ったところだ。
危険度二桁級の中としては巣の中でも精々中級とはいえ、大蜘蛛は群れを成して動き、確実に獲物を狩る。集団評価とすれば、場合によっては三桁の上級危険生物指定されることもあるのだ。
特に、このシルツ森林に住まう大蜘蛛達は通常レベルとは桁が違う。
すなわち、彼らにはこの巣の領域を支配する領域支配者が付いている、ということである。
(水蛇の奴がおとなしくなる理由……外部から攻撃でも受けたのかしら? それで支配領域を広げる余裕を失うような傷を受けたとか……)
無数の糸が木々を伝い、白い結界を作り出す。その大蜘蛛の巣の中心――蜘蛛糸の玉座に八本の脚を使い君臨する者こそ、この地の領域支配者、大蜘蛛の変異進化種だ。
大蜘蛛は、外見からすると意外かも知れないが、知性を有する。所詮は蟲であり、高位に進化した生物に比べれば複雑な思考を行うことはできないが、罠を張るところからもわかる通り本能だけで生きているわけではない。
特に、領域支配者となるまでに成長したこの大蜘蛛は一味違う。通常の大蜘蛛から領域支配者足り得るほどに進化を遂げたその姿は、もはや別種と言えるほどに変化している。
それは誰が見てもわかるだろう。蜘蛛の身体の頭の辺りから不自然に延びている、人間の上半身に酷似した身体を見れば。
(私の部下とピラーナ共なら、平地での戦闘では互角……となれば、向こうの領域支配者が動けないのならば攻め入るチャンスだけど……)
蜘蛛の居城の領域支配者。その正体は、蜘蛛の下半身と人間の上半身をつなぎ合わせた異形――人頭蜘蛛と呼ばれる魔物である。
アラクネは人間の上半身という脆さを背負う代償として、極めて高い知性を得ることができる。その頭脳は文字通り人間に匹敵するほどの働きを見せ、また手を持つことで道具を扱うこともできるようになった、大蜘蛛とは全く別種の危険性を持つ魔物だ。
ちなみに、人間の上半身がどんな外見になるかというと、大蜘蛛時代に捕食した人間の姿を模倣することが多いとされており、このアラクネの場合は線の細い女性型を取っていた。
といっても、所詮は模造であり、シルエットだけならばともかくよく観察すれば人外のそれであるとすぐにわかる、白い石膏のようなものであるが。
「巣から出るのは危ないけど、ちょっと偵察するくらいはしておいた方が良さそうね」
アラクネは、自らの口で言葉を紡ぐ。捕食した人間の知識すらも己のものとしているアラクネにとって、言語を操るなど造作もないことだ。
アラクネが君臨する巣の近くには、大きな湖がある。元が蜘蛛である彼女にとって、多量の水は命を脅かす危険なものだが、生存のためには必要不可欠なものだ。
それ故に、隣接するその湖を欲しいと思っていた。領域支配者としてより強大な力を得るためにも支配地の拡大は必須であり、手に入るのならばリスクを冒すことも厭わないと思うくらいには。
しかし、今まで彼女が湖に攻め込んだことはない。その理由は、二体の領域支配者の戦闘スタイルの問題だ。
アラクネの支配下にある大蜘蛛は、獲物をおびき寄せ、粘着力のある糸の罠に嵌めることを基本戦術とする。逆に言えば、巣から出て狩りに出るような、攻撃には不向きな種族だ。つまり攻め込んでもらえないと上手く戦えないのである。
加えて、湖の領域支配者である水蛇との相性が最悪なのだ。大蜘蛛は罠のない場所で戦うときも糸を武器とするのだが、多量の水を操る功罪を持つ湖の領域支配者が相手では、糸など容易く流されてしまうのだ。
逆に、水蛇からしても、水中から出て蜘蛛の巣に特攻するのはあまりにもリスクがあるため、今まではお互いににらみ合うばかりであった。
支配領域の拡大に貪欲なオーガ率いる鬼族の群れですら手を出せないほどに、守りに長けた空間。それが彼彼女ら二つの領域なのである。
「お行き、まずは湖で何が起こっているのか調べるんだ。進化種の大毒蜘蛛をリーダーに、下級の大蜘蛛を10匹でいいよ」
アラクネは手元から伸ばした糸に向かってささやきかける。糸電話のようなものであり、その震動によって配下に命令を出したのだ。
大蜘蛛の群れはアラクネを頂点とした完全な縦社会であり、進化を遂げた上位種が下位種を統率することで軍として機能している。総戦力で比べればまた話は違うが、組織力と統率力としては鬼族の群れよりも優れていると言えるだろう。鬼族と同格の争いをしている、組織力に長けた群れ相手には流石に劣るであろうが。
ともあれ、支配者の命を受け、上位の大蜘蛛は肯定の意を示した。
上位の大蜘蛛の命令を受けた下級の大蜘蛛が静かに動き出す気配を察知し、アラクネは再び糸の結界に身を任せる。
(……未だ、領域の拡大を行う気配はない……これはどういうことなのかねぇ?)
アラクネは、配下から情報が届くまでの時間をこうして待ち続ける。自分の身体の延長と呼んでも過言ではない、自らの支配領域への攻撃がない理由を想像して。
領域支配者同士の支配領域が隣接する場所で常に起こっている、お互いの領域を奪い取ろうとする意思が感じられないことを確認しながら。
(もし水蛇が弱り傷ついているようなことがあれば……獲りに行くとしようかねぇ)
アラクネは笑う。あるかも知れない未来を夢想して。
彼女は総勢約100匹の大蜘蛛を従え、群れを構成している。最高戦力である自らを除いても、そこそこ以上に強力な戦力だ。
知性に乏しい下位の大蜘蛛には裏切りを考える能力もなく、種族的に上位であるアラクネの手足の延長とも呼べる理想の兵力であり、その一部を偵察隊として派遣した以上何らかの成果は出るだろう。
自らの予測通り、水蛇が弱っているのならば総力を以て攻め落とす。第三者との戦闘中と言った不測の事態である場合は、自身が有利になるように静観すればいい。そんなことを思いながら。
しかし、彼女の予測には決定的に欠けているものがあった。いや、無意識にその可能性を否定してしまったと言うべきだろう。
防衛戦に関しては自らの右に出る者はいないと自負する大蜘蛛の一族――その自分と対等の防衛力を持つ水の要塞を持つ水蛇が、自分が感知する間もなく討伐され、支配領域を乗っ取られている可能性を。
自らの力を知っているが故に、敵の力を評価するからこそその可能性を見落としたのだ。
そのミスは、彼女の想定もしない形で露わになるのだった。
◆
「シュー……」
自分達の住処であり、安息の地である蜘蛛糸の結界から数匹の大蜘蛛が警戒音を鳴らしながら離れていく。自らの主であるアラクネの命令を達成するため、これより湖へと向かうのだ。
八本の脚を素早く動かし移動する大蜘蛛の集団を統括するのは、大蜘蛛より一段階進化した魔物――大毒蜘蛛。その名の通り、毒を生成する能力を会得した大蜘蛛である。
口から毒液を吐き、その毒液を糸に垂らすことで毒糸として機能させ、噛みついた相手にはもちろん牙から毒を送る。通常の大蜘蛛よりも攻撃性を大きく高めた魔物と言っていい。
森を脅かす人間のハンターといえども、毒に対する予防薬や治療薬を揃え対策していない突発的な遭遇戦では逃亡を推奨されているほどだ。
その大毒蜘蛛が配下の大蜘蛛を引き連れるその危険性は言うまでもないのだが――彼らに突然の不幸が訪れた。
「ギュッ!?」
八本の脚を使い縦横無尽に進んでいた大蜘蛛の内の一匹が、湖の領域に入ってすぐのところで突然強い衝撃に襲われたのだ。
その原因は、石が混ざった泥の塊だ。泥と石で作成された即席鈍器を木のツルで結び、木の枝に引っかけ、地面すれすれに設置された切れやすいように細工されたツルに触れた者へと落下するように吊した古典的なトラップである。
たかが泥と石とは言っても侮ってはならない。人の頭ほどの大きさになるよう纏められたそれは立派な凶器であり、その重量と位置エネルギーはまともに受ければ死んで当然の一撃となるのだ。
欠点は、この手のブービートラップに使うにはツルが目立ちすぎるところと、ツルが切れてから落下するまでのタイムラグのせいで命中率に乏しいことだが……悲しいことに、大蜘蛛は罠を仕掛けても見破れるほどの知能は持ち合わせていなかった。しかもツルを自分の脚が切った感触に気を取られて立ち止まってしまい、見事直撃を受けてしまったのだった。
「――ッ!?」
突然の配下の死亡に、隊長である大毒蜘蛛は困惑する。敵の気配はないのに味方が死んだ、その事実を前にどうすればいいのか迷ったのだ。
だが、進化種と言っても所詮は大蜘蛛。高い知性を持つとは言っても、所詮蜘蛛であるその脳みそはすぐさま切り替わり、迷わず前進を指示する。よくわからないものはよくわからないまま、命令を果たすことのみを考えるのが大蜘蛛の思考回路だ。
それ故に、この場所の危険性に彼らが気がつくことはない。
「キュッ!」
「ギュッ!」
空から岩が降り注ぎ、足下から木製の槍が飛び出し、魔道動力の地雷が炸裂する。
標的の殺傷のみを目的とした罠の数々は、確実に大蜘蛛達の身体を傷つけ、命を奪っていく。蜘蛛であるからこそ無効化できる罠ももちろんあるが、森に住まうだろう危険生物を仮想標的として用意されたその罠の大半は大蜘蛛にも有効だった。
特に、魔道を利用した罠の効果は強烈だ。土地からの魔力を原動力とする『設置式遅延魔道』という高等技術を用いたそれは、標的が効果範囲に入ると同時に火柱を上げる仕掛けとなっている。
大蜘蛛は火や水に対する耐性を持ち合わせておらず、特に火に包まれれば苦しんで死ぬほかない。自慢の糸も火の前には役立たずであり、大蜘蛛の狩猟に火を使うのはハンターの常識と言えるほどに有効なのだ。
なお、そのまま周囲に燃え広がって大惨事――といったことにならないよう、標的以外には一切害を与えない特殊なおまけ付きの魔道の炎が使用されている。
「ギュ……」
見る見るうちに、ただ進むだけで配下が消えていく。大毒蜘蛛も流石にこれはおかしいと判断し、ようやく残り少ない配下に停止命令を出した。
しかし、主であるアラクネから出された命令は、敵支配領域の中心にある湖の様子を調べること。命令に忠実であるが故に、大毒蜘蛛には臨機応変という概念が存在せず、現在地点からさほど離れていない目標地点に到着する前に引き返すという選択肢は存在しないのだ。
何故かはわからないが、進めば死亡するような何かが起きる。だが進まない選択はできない。故に、大毒蜘蛛は一つ妙案を思いついた。
道を進むから何かが起きるというのならば、道のない場所を行けばいいじゃないかと。
大毒蜘蛛は自らの思いつきを配下に伝達し、行動に移る。
それぞれが身体から蜘蛛糸を放出し、上空の木々に絡ませ、枝へと上がる。そのまま蜘蛛たちは糸を操り木と木の間を振り子のように渡ることで、罠を回避しながら進むのだった。
しかし、それはこの罠地帯を形成した者の性格の悪さをあまりにも過小評価していると言える浅はかな行為であった。
「シュギュ!?」
地面を進んでいたときと違い、何事もなく進めることに大蜘蛛達は気分よく進めていた。
もう少しで湖までたどり着く――というとき、突如強い衝撃を受けた。何もない場所で何かにぶつかり、跳ね返されたのだ。
「シュー……」
突然の痛みに警戒心を露わにする大蜘蛛達だったが、その警戒も空しく事態は更に悪化している。
「えっと……む、[無の道/一の段/念掌]!」
「シュッ!?」
少し自信なさげな少年の声が聞こえると同時に、大蜘蛛の身体が何かに上から押される。先ほどの見えない壁と同じ力だ。
押しつぶされるほどではなく、抵抗することはできる。しかし身動きは封じられてしまった。
「行きますよ――[地ノ道/一の段/氷結]!」
「発動。[命ノ道/一ノ段/樹槍]!」
続けて、低くうなるような声と共に、周囲の気温が急激に低下し、大蜘蛛達の身体を蝕む。
トドメと言わんばかりに周囲の木々が不自然に動き出し、まるで槍のように鋭く尖らせた枝が大蜘蛛達を貫いていった。
これには溜まらず残された大蜘蛛達は皆無残にも死んでいき、唯一生命力で勝る隊長の大毒蜘蛛が瀕死の状態で生き残った。
しかし、突然現れた敵は当然容赦などしてくれるわけもない。
「小僧とゴブリン二匹……まあ、現段階で三人も使えるようになったのならば上出来だな」
先ほどの三つの声とはまた異なる声が聞こえてきたと思ったら、大毒蜘蛛の身体は突然火に包まれた。
この炎は、ここまで来るまでに配下の大蜘蛛が受けた炎と同じものだ。
「この俺の支配領域に、虫けら風情が無断で入ることが許されるはずもあるまい。……その内、こちらから出向いてやるが故、精々歓待の準備をしておけ」
ここにはいない誰かに話しかけるように口を開いた後、声の主は容赦なく大毒蜘蛛を焼き殺した。
自らの配下に極細の糸を付け、その様子を察知するアラクネの領域支配者としての情報収集能力を熟知しているかのように……。