第10話「攻め込まれる訳にはいかん」
「……はぁ」
コボルトの少年、コルトはため息を吐いた。
つい先ほどまでは考える事もしなかった安全地帯――シルツ森林で名を知られた大湖の畔で、これからのことを考えていた。
成り行きのままに自分達の指導者として声を張っている、自称魔王ウルの悪辣な笑みを見ながら。
「シャバルバ、シャシャ、ルババ」
ウルは湖から頭を出している怪魚人――ピラーナ達を前に演説をしている。
ピラーナ達特有の言語を使っているためコルトにはその内容が理解できないが、大体想像はついた。
湖に襲撃し、その命を奪ったピラーナ達のボスの首を手に見せつけている姿から想像すれば、大方『諸君らは敗北した。その証がこれだ。後は諸君らの処分だが……服従か死か、選ぶといい』と言ったところだろう。
その勝者として弱者から奪おうとする笑みにとても覚えがある身としては、半ば確信のようなものがあった。
「シャバ……」
「……うむ」
幾度かのやりとりの末、ピラーナの代表と思われる怪物が項垂れた様子で頭を垂れた。どうやらウルに屈服したようだ。
それも仕方がないとコルトは思う。主の敵を討とうと何匹か飛びかかり、その度に返り討ちにされては目の前で食われる……そんなことを繰り返されれば誰でも心が折れるというものだ。
「……さて、これで最低限の拠点はできた。そろそろ本来の目的に立ち返るとしよう」
「えっと……いいの? これ?」
同情など野生の世界では禁物であるが、コルトはピラーナ達の姿を突き放すことができなかった。
強力な外敵に襲われ、命と尊厳を奪われる……いつその立場に自分が立ってもおかしくはないという冷静な理解があるためだ。
当然、奪う側であり食らう側としての自負を持つ自称魔王にはない感情である。
「良いも悪いもない。あるのは食う側と食われる側だけだ。それが生き物共通のルールというものだろう? こうなるのが嫌であるというのならば、最初の降伏勧告に従っていればよかった……本来、こいつらが生きていること自体過分な慈悲である」
「それは違うと思う」
自分に賛同しない良識的な意見を聞き、ウルは小さく笑う。そしてそれ以上耳を貸さず、手早く準備を進めていった。
「さて……ピラーナ共も俺の支配下に入ったわけだが、まずは当初の予定通り貴様らに指導を行う。感謝せよ」
ウルは湖周周辺の見張りをやらせていたゴブリン達を呼び集め、改めて宣言する。
これより、最下級の魔物であるコルト達に魔道を教えると。
「この森ででかい顔をしているというオーガ……其奴が俺の存在に気がつくまで、どのくらい時間があるかわからん。早急に戦力として働けるようになってもらうぞ」
「うーん……そりゃ、まあ、強くなれるなら嬉しいけど……本当にできるの?」
「できる。誰でもできるように作ったんだからな。そのために必要なのが……これだ」
コルトの弱気な発言をばっさりと切ったウルは、物陰から何かを取り出した。
「……何これ?」
「見ての通り、桶だ」
「オケ?」
「……この中に水を入れて持ち運ぶ道具のことだ」
ウルが取り出したのは、少々荒い作りの桶だった。ゴブリン達には馴染みがないのか不思議そうに見ているが、コルトはそれに類する道具を作ったこともあるのでその用途は理解できる。
もっとも、ウルが出したような、木片を近くの木からぶら下がっている蔓で纏めたしっかりとした作りの物を見るのは初めてだが。
「……それ、どっから持ってきたの?」
「さっき作った」
「いつの間に……」
何と、この木製の桶、ウルの手作りであった。さっきまでピラーナを恫喝していたのにいつそんなことをしたのかとコルトは首を傾げるが、ウルは気にせずに説明を続けた。
「さて、この桶の中にこの湖の水を汲む」
「えっと、魔素水……だっけ?」
「そうだ。通常ではあり得ない魔力を溶かし込んだ、異界資源だな。まあ同じ物を普通の水から作ろうと思えば作れるが……とにかくだ、魔力が豊富に溶け込んだ魔素水は飲むだけでも普通の水に比べて多くの魔力を吸収できる。それだけでも価値があるが……魔道の基礎の基礎、魔力操作の練習にも便利だぞ?」
ウルは湖の水を桶に汲み、その中に手を入れる。
すると、水が徐々に波打ち始める。最初はウルが手を動かしているからだと思うコルトだったが、徐々にそうではないことに気がつく。明らかにウルはただ手を入れているだけで動かしていないにもかかわらず、水の動きが激しくなり、やがて右回転の渦を作り出したのだった。
「これって……」
「前にも言ったが、魔道を操る最低条件は魔力の制御を行えるようになることだ。だが、通常は魔力を視認することはできない。魔力を感知する感覚が生来優れている者ならば自分の五感だけで何とかできるが、そうではない者はいつまで経っても上達せん。そこでこうして魔素水を使うのだ。魔素水の中に含まれる魔力と自分の魔力がぶつかることで水が動く。すなわち水の動きで魔力の動きが視認できるようになるわけだ」
「じゃあ、これ魔力の動きで水が揺れてるの?」
「その通りだ。魔力を動かすこと自体は誰でもできる……と言うより、誰でもやっている。身体を動かすついでに魔力も動いているからな。しかし、魔力だけを動かすとなると明確なイメージが必要になってくる。この方法ならばわかりやすかろう?」
ウルは桶から手を抜き、水を払いながらニヤリと笑う。
現代の通説では、自分の意思で魔力を操ることができるのは限られた一部の天才のみとされる。だが、ウルはこうすれば誰でも練習次第でできるようになると断言したのだ。
「魔道の具体的な使い方や原理は後回しだ。まずは全員、先ほどの俺と同じことができるようになってもらう」
「さきほどってことは……」
「魔素水の中に手を入れ、魔力だけで渦を作れるようになれ。まずはそれが最初のステップ……レベル1と言ったところだな」
それができれば今度は不規則に荒波を作り出すレベル2だな。ウルはそこまで言って、湖に向かって手のひらを向ける。
すると、湖からぶくぶくと音を立てて何かが飛び出してくるのだった。
「あ……これ……」
「オケ?」
「そうだ。桶だ。とりあえず貴様ら全員に行き渡るよう8個作ったからな。各自、水を入れて魔力操作の訓練を始めるように」
「本当にいつ作ったの……?」
大量の桶をいつの間にか用意していたウルの手際にもそろそろ慣れてきたところで、各自それぞれ練習を始める。
コルトとゴブリン達はウルの言葉を信じて「動け動け」と念じながら冷たい水に手を入れているが、冷たさで手が震えるばかりで何も起こらない。
ウルはその光景を見て特に何も言わずに去っていく。彼にはまだ他にやるべきことがあるのだ。
(……順当に行けば、適性のある奴で三日と言ったところか。全員が最低ラインの基準に達するまでにかかる時間予測は……七日もあれば十分。それまでは誰にも攻め込まれる訳にはいかん)
ウルは、この森に住まう者のことを想像する。
もし自分の支配領域に、あるいはその側に自分のような危険な存在が出現したらどう動くか……それは考えるまでもないだろうと。
もしかつてのウルの城の側でそのようなことがあれば、半日もかけずに全ての情報はウルの下へと集められたはずだ。
この時代の魔物は文明という概念そのものが崩壊したような有様であるとはいえ、自分の縄張りに入り込む侵入者を発見、迎撃するシステムくらいはあるはずだとウルは考える。
(……兵力の強化は今行っているとして、急務なのは拠点としての守りか。現状ではただの水たまりだからな……)
この湖の支配者であったピラーナ達にとってはそれで十分だった。彼らは水中に住まうことができるため、事実上水そのものが防壁となっていたのだ。
しかし、ウル達はそうはいかない。水中に入れば溺れ死ぬしかない以上、敵が攻めてくれば陸上で白兵戦を行うしかない。だが、今のままでは単純な力比べにしかならず、数に攻め込まれれば敗北するのは必至だ。
本当ならば自ら攻め込んで全てを蹂躙してこそ魔王なのだが、力が全く足りていない現状では準備に時間をかけるしかない。
(……七日間か。よほどの馬鹿でもなければこの湖の主であったあのデカブツが倒れたことを知るのにそう時間はかかるまい。こういった雑務は王の仕事ではないのだがな……)
最低限の手駒をそろえる時間すら危うい。そのことを再確認しながら、ウルはピラーナ達の主を食らい、そして湖の魔力を支配することで手にした魔力を使って術の行使に入る。
太古の時代を支配し、神々の敵として恐れられし魔王ウル。その真骨頂の一つ、数多の魔道の使い手としての能力を駆使して。
そう、よほどの馬鹿でもない限り、一日とかけずに湖の異変を調査すべく先兵が送られてくると僅かな焦りを浮かべながら……。
◆
「……アデ? 足りナい?」
一方、シルツ森林の奥深く。狂気に濁った眼をした怪物が首を傾げた。
この森で群れを成す魔物の中で最大勢力の一角に数えられる赤いオーガ……森の領域支配者だ。
自分の支配下に置いている魔物、ゴブリンの数が足りないような気がしているのだ。主に、毎日献上される食料の量が少ないという理由で。
「……死んダ?」
オーガは数が減ったことを、部下の死が原因ではないかと考える。過去にも同じようなことは何度もあったのだ。
そして、その度に必ず報復を行ってきた。自分の配下が死ぬということは、すなわち自分の食事の量が減るということ。それは明確な自分への攻撃であり、自分に敵対する者は必ず殺すのがオーガの――そして、魔物の流儀だ。
「――探セ! オデの敵、殺セ!」
そこまで考えたところで、眼に宿る狂気の度合いが色濃く表に出てくる。
思考を放棄するかのようにオーガの怒声が飛び、その怒りに支配下にいるゴブリンを始めとする鬼族達は震える身体で頷くが、しかし困ってもいた。
そう、彼らには手段がない。同胞が死んだとしても、その場所や下手人を特定する術がないのだ。
彼ら鬼族は――別の場所で作業に没頭している某コボルトの言葉で言えば「よほどの馬鹿」なのだから。
「ギィ?」
「ギギッ!」
自らの支配者であるオーガの命令ならば、ゴブリン達は何となく理解できる。しかし、効率的な解決策など浮かぶはずもなく、結局何か手がかりはないかと適当に散るしかない。
「……ドウスル?」
「ゴブリン共ノ行動、誰カ知ッテイルカ?」
「知ラン」
ゴブリンよりはマシな知性を持っている豚鬼も、組織立った行動をしているわけではないので結局何の手がかりもない。
他の種族もどいつもこいつも似たようなものであり、結局数に任せた人海戦術で情報収集するほかなかった。
また、彼らに横のつながり――つまり他の土地のルーラーとの友好関係など存在しない。それぞれがお互いを敵視し、隙あらば支配領域を広げようとしか思っていないため、情報共有を行うという発想すらない。
故に、鬼族は気がつかない。重要な領域として警戒すると同時に欲していた湖の異変にも、そこの支配者が倒れたことにも。
「……コボルト! 貴様ラ、働ケ!」
結局、合理的な解決策を誰一人として出せず、いつものように大声を張り上げる。
鬼族ではないが暴力によって支配している、優れた鼻を持つことで探索に便利な種族――コボルトを使った捜索を行うために。
「ゴブリンダ。マズ、ゴブリンノ匂イ、辿レ!」
オークの命令に従い、捕らえられたコボルト達は黙って従い匂いを辿る。
しかし、この森にいったいどれだけのゴブリンがいるのだろうか。どんなに少なく見積もっても1000は軽く超えているのは間違いなく、オーガの支配下から離れた数匹のゴブリンを発見するのはいつになるかわからない。というより、発見できたとしても特定する手段がない。
そんな穴だらけの状態のまま数に任せて行われる探索……時間の猶予は、想像以上にあるようだった。
もっとも、動き出したのが鬼族の群れだけであるとは限らないが……。